7

私は手を繋いでいる。アーサーがやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。彼の体の向こうから、アルフレッドが顔を出す。しっかりとむすばれたアルフレッドの左手、アーサーの右手。アルフレッドは笑う。走り出そうとする。引かれてアーサーが前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。アルフレッドが手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。アルフレッドに視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。私は手を繋いでいる。アーサーがやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。彼の体の向こうから、アルフレッドが顔を出す。しっかりとむすばれたアルフレッドの左手、アーサーの右手。アルフレッドは笑う。走り出そうとする。引かれてアーサーが前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。アルフレッドが手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。アルフレッドに視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。まっくら。





大きくなったアルフレッドが、私をじっと見つめている。ひどく悲しそうな、辛そうな、今にも泣き出してしまいそうな顔をして。彼のそんな顔を見ると、胸が締め付けられる。これは確かに”前夜”の記憶だった。
薄暗い中、私は彼に向き合っている。そこは私の部屋だ。アルフレッドと私に、一部屋ずつアーサーが与えてくれた似たような作りのその部屋はさながら子供部屋だった。古ぼけたものから新しいものまで、飾られたいくつものテディベアが私たちを見ている。私はアルフレッドの言った言葉が受け止められずに、ただ呆けたように彼を見た。散々悩んで考えて、君と離れることは辛いけど、やっぱり俺はアーサーから独立してこの家を出て行くよ。一言一句漏らさずに聞いたのはそんな言葉。受け止められるわけもなかった。どうしてそんなことを言うの。私たちは国だから難しいこともあるけど、それでも楽しく暮らしていたはずだ。アーサーに見出されて育てられたアルフレッドと、アルフレッドが見つけてくれて二人のもとで育った私と。

親子みたいにきょうだいみたいに友達みたいにそうやって、私はこれからもずっと、三人で楽しく暮らして行けたらそれだけで、それしか望まないのに、どうして私のささやかな夢を壊すの。あなたのことだって愛しているのに、それだけじゃいけないの。彼に負けず劣らず泣きそうにそう言えば、彼は何か言いたげに口を開く。いやだ、そんなの聞きたくない。そう言って耳を塞ぐ私に彼は困ったように眉を下げてこちらを見る。その辛そうな表情を見たくなくて目を閉じた。見たくない聞きたくない、そんなこと。アルフレッドは、あの時何を言おうとしていたのだろう?
目を閉じて耳を塞ぐ私の目の前、彼の気配はしばらくそこにあった。けれどやがて離れてゆく足音と扉の開閉の音がして、アルフレッドは消えた。消えてしまった。そんなものは見たくないと目を閉じる。




意を決して、目を開いた。雨が降っていた。どこか遠くで銃声が鳴った。













夜半から降り出した雨は弱まる気配もなく、やがて朝が来て、時の経過と共にどんどん強くなっているようだった。そんな中を、私は傘もささずに走っていた。どれだけ体が濡れようが、洋服に泥が跳ねようが構わなかった。戦の足音に気付かぬわけもなかった。けれど見て見ぬふりをしていた報いだ。アルフレッドの独立についてその日まで、アーサーは私に何も言わなかった。アルフレッドだってそうだ。前日になってやっと私に打ち明けてくれた本心。結局私はそれを、聞きたくないと突っぱねた。
できることならば、アルフレッドとアーサーを止めたかった。二人が争う姿なんて、見たくなかった。

雨の中をひたすらに駆けて行けば、開けた場所に出た。雨はさらに勢いを増していた。向こうに、人だかりが見えた。アメリカ軍とイギリス軍が対峙して睨み合っているその様子は、まさに一触即発の様相に見えて、思わず立ち止まる。息を飲む。雨粒の隙間に私が見たものは、崩れ落ちるアーサーと、彼に銃を突き付けるアルフレッドの姿だった。

まるで時が止まったように、ただその光景を見た。豪雨のせいでふたりの会話はよくわからなかった。ただ、決意に満ちたアルフレッドの精悍な横顔は、鮮明に覚えている。対するアーサーは項垂れているように見えた。アルフレッドはしばらくそのままアーサーを見つめた後、彼に背を向けた。やっぱり俺はアーサーから独立してこの家を出て行くよ、と、昨夜彼が私に告げた言葉が思い起こされて、いてもたってもいられずに、アルのその背中を追いかけるように飛び出した。



「アルフレッド!」



追いかける。彼の名前を叫ぶ。予想よりもその声はずっと泣きそうに響いた。彼は肩を震わせて、足を止める。アルフレッド、と、もういちど彼を呼ぶ。けれど彼はそのまま歩き出す。一度もこちらを振り返らない。それが答えだった。私はなす術もなくその場に立ち尽くす。悲しみで身が引きちぎれそうだった。アルフレッドに対する怒りもあった。どうして私を、私たちを、置いて出ていくの。雨が、容赦なく私を打った。



はっと我に返る。アルフレッドが去って、彼の引き連れていたアメリカ軍の人間もそれに追従して、ただ雨の音だけがうるさかった。それ以外は何も無くなってしまったかのように静かだ。振り向くと、アーサーは未だ項垂れたまま、そこにいた。ふらふらと彼に近付く。彼は微動だにしなかった。

アーサー。渦巻くどうしようもない気持ちを持て余し、私は彼を呼ぶ。彼は何の反応も示さない。強い雨に降られて濡れた金の髪から、飽きることなく水が滴っている。俯いた顔の表情は窺えない。彼まで私を置いてどこかに行ってしまったようで怖かった。アーサー。ねえ、アーサー。何度呼んでも彼は微動だにしない。我慢したはずの涙が溢れそうになる。途方に暮れて、ただ彼を見下ろした。

しばらくしてアーサーはおもむろに立ち上がる。少し覚束ない足取りで立ち上がった彼が、私を見下ろした。レーネ、と私を呼ぶ声は、小さく掠れていた。彼のここまで弱々しい声を聞くのは初めてだった。その震えた声に、私はかすかな違和感をおぼえる。


「……お前は…俺から独立するなんて、言わないよな……?」



がくりと項垂れ、ふらふらと立ち上がった先程の彼からは想像できないような強さで、アーサーは私の両腕を掴む。雨で濡れた前髪の間から、虚ろな、それでいて透き通った翡翠の瞳が覗いていた。何か言葉を返そうとするけれど、こんな様子の彼にどういう言葉をかければいいのか、見当も付かなかった。薄く唇を開くと雨粒が当たって冷たく、結局私は何も言えずに口を閉じる。ぎりりと、腕を掴む手が強くなる。彼から目を逸らせなかった。


「なぁ、レーネ……俺から独立しようなんて、考えるな。頼む。もしお前までいなくなったら、俺は、……俺は……」



まるで懇願するようなアーサーの表情、その頬を濡らすのが涙なのか雨なのかもうわからないけれど、彼のその瞳は、アルフレッドとの離別に泣き叫ぶ私の心を、酷く揺さぶった。堪えていた涙がぼろぼろと流れ出す。可哀想なアーサー。可哀想な、私たち。三人で手を繋いで歩いたあの日の幸福はもう戻らない。三人の愛しい暮らしはもう、壊れてしまった。
私は彼に手を伸ばす。アーサーの軍服の裾に指先で触れれば、彼は掴んだ私の両腕を開放してくれた。そのまま少し背伸びをして、彼の首に手を回す。降りしきる雨の中で冷え切った彼の体を、抱きしめた。そうしたかった。そうしなければいけないと思った。私たちが壊れてしまわないために。



「アーサー、……私は、ずっとそばにいるから、」



可哀想なアーサー。可哀想な私たち。大丈夫。あなたはひとりぼっちじゃない。私たちは、ひとりぼっちじゃない。


「っ、レーネ……レーネ、レーネ……どこにも行くな……!」


あらゆる感情を押し殺したような声色だった。彼に抱き着いた私を、アーサーは痛いほどに抱きしめる。骨の軋むような強い力で私を縛める腕、その時、確かに滲み始めていた狂気には、気づかないふりをした。




アーサーはそれから確かに、荒んでいった。アルフレッドは帰って来ない。私たちの幸福な日々はもう戻らない。私とアーサーは寄り添って過ごした。離れてはいけなかった。離れたらきっと、私たちは壊れてしまう。アルフレッドの欠けた生活の続き、私たちはふたりで、新しい幸福を作っていかなくてはならない。

喪失感の横たわる日々は、それでも二人寄り添って過ごせば穏やかだった。ある時、アーサーに気持ちを打ち明けられた。戸惑いはあったけれど、私は彼の気持ちを受け入れた。頭にちらりとアルフレッドの顔が浮かんだが、彼はもういない。それにアーサーを慕っていたし、愛してもいた。そして私たちは恋人同士になった。恋人として過ごす時間、彼は幸せそうだった。平穏が戻り、私もたしかに幸せだった。穏やかに続いていくはずだった。私たちはどこで、間違ったのだろう。時折顔を覗かせる彼の狂気に気付いてさえいれば、或いは、こうはならなかったのかもしれない。























アルフレッドが独立してから、長い時が経った。私とアーサーは離れずに暮らした。いくつかの戦争に巻き込まれた。アルフレッドとは会えなかった。アーサーは仕事上アルフレッドと顔を合わすこともあるようだったけれど、アーサーの保護国たる私は仕事上という名目ですらアルフレッドと会うことはなかった。それでも漏れ伝わる情報の中、世界を巻き込む大きな大戦の中にあって、アーサーとアルフレッドがとりあえず協力関係にあるのだということに、私は心からほっとした。二人の戦う姿などもう見たくはなかった。それにアーサーがアルフレッドと敵対しないということは、私もアルフレッドと敵対せずに済むということだ。協力関係にあってでさえ、それでもアルフレッドと会えなかったのは、私が彼に会いたがることをアーサーが嫌がるからだった。私の脳裏にはあの日、アルフレッドが独立したあの日のアーサーの縋るような表情が張り付いて離れない。あの時のアーサーの面影が頭を過れば、アルフレッドに会いたいなどという言葉は飲み込むほかなかった。その代わりに、手紙のやりとりを何度かした。それらはすべてとりとめのないどこかぎこちない内容だった。アルフレッドから私に宛てた手紙を私に手渡すのはアーサーで、渡される手紙にはいつも悪びれず開封の跡があった。



一度だけ、アルフレッドからの手紙がアーサー以外の手によって私のもとに届いたことがある。その出来事は私とアーサー二人の生活の終わりであり、始まりでもあった。
二度目の大戦も終わって十数年ほど経っていた頃だったろうか。いつもと何の変哲もないその日、私はいつものように家にいた。アーサーは仕事で不在だった。自室の窓辺で本を読んでいると、格子窓を意図的にコツコツと叩く物音があった。誰かが小石を窓にぶつけているらしい。
不審に思った私は庭先に出た。そこには見知らぬ男が立っていた。いや、全く知らないわけではない。どこかで見たことのある顔だ。きっと友人の知り合いの友人だとか、その程度の面識だろう。思い出そうとしていれば、彼はすぐに自身の素性を明かしてくれた。アルフレッドから命を受けて、アメリカからはるばる私に直接手紙を届けに来たのだと。手紙といえば今までアーサーを介してのやりとりだったというのに、突然のことに、何かあったのだろうかと私は緊張で身を固くし、差し出された手紙を受け取った。誰かに見つかったりしたらただでは済まない。彼は、人目を忍んでここへ来たのだ。私が手紙を受け取ると、男は敬礼をして去ってゆく。白い封筒を開けた。見慣れた彼の文字のはずなのに、その文字の羅列を目にしてどきりと心臓が跳ねた。内容に目を通す。





親愛なるレーネへ。
元気にしているかい?
俺はなんとかやっているよ。
いきなりだけど本題に入らせてもらう。
俺は、君もアーサーから独立すべきだと思っている。君に出した手紙と君が書いてくれた手紙は、実際の半分もお互いに届いていないみたいだ。アーサーが中身を確認して、気に食わないものは捨てているらしい。異常だと思う。君には自由が必要だ。あんな息の詰まる場所に閉じこもってちゃいけない。
独立後は、経済的にも精神的にも俺が全力で君を援助するつもりだ。
俺たちはもう子供じゃない。
よく、考えてみてほしい。

アルフレッド・F・ジョーンズ





私は動揺して、その手紙をもういちど読み返そうとする。アーサーが私とアルフレッドの手紙のやりとりの大部分を差し止めていたということ。彼からの手紙の内容がどこかぎこちなかったのはそのためだったのだ。それから、世界大戦を経てもなおアーサーの保護国である私の独立を支援したいということ。短い文面に余りある情報の量、私はそれを何度も読み返す。これを受け取った今、自分がどう立ち回ればいいのかを、考えようとする。けれどその思考の邪魔をしたのは、耳をつんざくような銃声だった。


私の幸福が壊れる合図は、いつだって銃の音だ。



ごく近い場所からの発砲音に私は驚いて立ちすくむ。柔らかな芝を踏みしめて歩くような足音と、ずるずると何かを引きずるようないやな音が聞こえた。それでも動けずにいれば、庭の薔薇の茂みががさがさと音を立てて大きく揺れた。茂みを掻き分けて姿を現したのは、仕事で不在のはずのアーサーだった。その顔には、私に向けるいつもとかわらぬ笑みを湛えていた。ただあまりにも異様だった。彼の右手には銃がある。そして左手で、血に塗れたアメリカ人の男の襟首を掴んでいた。


喉が張り付くような声にならぬ悲鳴をあげて、私は恐怖と驚きでその場にへたり込む。柔らかい芝生の感触が、不釣り合いだった。アーサーの瞳が、私だけを見据えている。彼はぴくりとも動かない男から手を放す。鈍い音を立てて、私に手紙を届けてくれた男の体が、薔薇の茂みに横たわる。
たった今自分が手にかけた男には目もくれず、ただ私だけを逃がさないように見つめながら、アーサーはゆっくり私に近付く。思わず後ずさる。それでもすぐに詰まる距離、彼は震える私の手から手紙を取り上げた。私は恐怖で動けない。

アーサーは無言のまま、手紙に目を落とす。白い便箋に、彼の手指に付着した血液が滲み、読み進める彼の両眼へとみるみるうちに狂気が宿る。私は絶望的な気持ちでそれを見つめた。喉がからからに乾いていた。逃げてしまいたかった。やがてすべてを読み終えた彼の瞳に光は無い。怒りを隠そうともせず、アーサーはその手紙を破り捨てる。


「許さねえ」


きっぱり、それだけを言った。その瞳は酷く冷たく淀んでいた。まるで裏切り者、とでも言いたげに私を見るその眼に、違う、と言いたかった。言わなければならなかった。
けれど私はあまりの恐怖に声も出せなかった。血液の、硝煙の、いやな匂いがする。


恐怖で何も言えないでいる私を見放す判断を、彼が下すのは早かった。アーサーは、躊躇わず私に銃を向けた。躊躇いが終わりへ繋がることを、彼はアルフレッドの独立で身をもって知っていたのだろう。その目に迷いは無いように見えた。銃口は私の左足を狙っていた。



「やっぱり間違いだったんだ。もっと早くにこうしておくべきだった。心配した通りだ。お前も、俺を置いて出ていくつもりなんだな」



私は彼のしようとしていることを悟る。それでもその場を動けなかった。動かなかった。そこが限界だったのだ。作り物みたいに平穏ぶった日々の。戻らない幸福を繋ぎ合わせた私とアーサーの日々には、確かに愛も穏やかな光もあったというのに、それはまぼろしだったのだろうか。あの夜の、アルフレッドの辛そうな顔。独立を決めた彼の想いを、聞いてあげられなかったあの時の自分。豪雨の中、どこにも行くなと縋ったアーサーの涙。この人の側にずっといようと誓った自分。アーサーの愛情を受け入れ、私も愛情を返し、恋人として離れずに暮らそうと思っていたのに。裏切ったのは私だ。だって、アルフレッドからの手紙は、たしかに嬉しかったから。
それはアルフレッドがいなくなった後の、二人寄り添った不完全な幸福の終わりだった。アーサーの愛も狂気も受け止めきれなかった私への報いだ。アーサーは、アーサーと私は、狂うほかないのだ。目を閉じる。今度こそ、彼の全てを受け容れる。



「……、なぁレーネ……俺はお前が好きだ。愛してる。わかってくれ。愛してる……」



そして銃声が響く。私は彼の狂気に、身を投げたのだ。










(211001)
(091220)


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