6


少年が、私をじっと見つめている。ひどく悲しそうな、辛そうな、今にも泣き出してしまいそうな顔だ。その表情を見ると、胸がぎりぎりと痛んだ。私は彼に対峙している。彼は何か言いたげに口を開く。私は目を閉じて耳を塞いだ。何も見たくない、何も聞きたくない。どうして私のささやかな夢を壊してゆくの?
少年の気配はしばらくそこにあった。けれどやがてその気配は消えた。少年は消えた。彼は、消えてしまった。

見たくない、聞きたくない、嫌だ、どこにも行かないで。



目を開いた。少年も、彼も、誰もいない。雨が降っていた。どこか遠くで銃声が鳴った。





















目を覚ます。

体にはじとりと嫌な汗をかいていた。呼吸も荒い。心臓がどきどきと早鐘を打っている。

私があの赤い液体を飲むのを拒絶して、彼がまた来ると言い残して去ったのはおそらくついさっきのこと。だからちゃんと起きて、彼、アーサーが来るのを待っていようと思ったのだけど、知らぬ間にうとうととしていたらしい。浅い眠りはいやに生々しい夢を見させた。重苦しい疲労を感じて、息をゆっくりと吐く。
けれど意識ははっきりとしていた。力は上手く入れられないものの、なんとか片腕で体を支えながら自力で上半身を起こす。いつもより、胸のあたりも軽い。やはりあれを飲まなかったためだろう。かなり頭がすっきりしている。今しがた夢の中で会ったあの少年の名前も、思い出せそうな気がするのだ。



あの、少年。
いつも見る褪せた夢で私にきらきらと笑いかけるあの子。綺麗な青い目をしたあの子。ひどく悲しげに私を見つめる少年。私は彼を知っている。名前だけが思い出せない。彼は私の大切な人なのに。でも大丈夫だ、アーサーの名前だってちゃんと自力で思い出せた。だから、彼の名前も思い出せるはずだ。



動かし慣れぬ体を慣らすように、頭上を仰ぐ。高くにある窓は、彩度の低い橙に染まっていた。どうやら夕暮れ時らしい。うんと伸びをしてみた。ぎこちなく動く肩や腕はみしみしと軋むようだ。疲労感はあるものの、それにしてもいつもに比べて体が軽い。視界だって、ずっと靄がかかったようだったのに、今はくっきりと部屋の様子を伺い知ることが出来る。





ベッドから降りてみようか。ふいに私はそう思い立って、体をすべらせ、慎重にベッドの端へと移動した。部屋を歩き回っていれば、なにか、色々なことを思い出すかもしれないと思ったのだ。広いのであろう部屋の中に一体何があるのか、私はほとんど知らない。この部屋の中でなにか手がかりを見つけられるかもしれない。


思い出すべきことはたくさんあるはずだ。





ベットの端から床を覗いて、高さを確かめる。ゆっくりと右足を下ろした。床に着く。力を入れると、がくがくと震えた。余程長い間、この足を使っていないらしい。少しぞっとする。仕方なく、天蓋の柱のところに手を伸ばし、支えにした。左足もそろそろと下ろす。柱をしっかりと握り、ほとんど手の力を使って立ち上がる。いや、立ち上がるはずだった。しかしそれは叶わなかった。


立ちあがろうとしたその時、左足首を鋭い痛みが襲ったのだ。突然のことに、声にならない悲鳴をあげて、私はそのまま床の上にがくりと崩れ落ちる。


「…っ……」


ずきずき、じんじん、形容するならばそんな痛みだろうか、それらが刺すように左足を襲う。痛みにさっと血の気が引いて、冷や汗が吹き出した。悪寒に似た嫌な感覚が背中を走る。何が起こったのかわからなかった。痛みに神経を集中すれば、やはり最初に感じた通りそれは左足の足首のあたりからもたらされている。目に付いたのはかかとの上、アキレス腱のあたりにある傷痕。きっとこれが原因だろう。そうとしか思えない。

痛みで涙が滲む。こわごわと傷痕を指でなぞると、表面に痛みはなかった。確かにひどい傷痕ではあるけれど、外から見ただけでは、未だにあんな痛みをもたらすほどの傷には見えない。そもそもいまだに痛むようなひどい怪我なのに、傷が付くに至った経緯を全く覚えていないなんて、本当におかしい。なぜなにも思い出せないのだろう?それにこんな足じゃ、普通に歩けもしないし、どこにも行けないだろう。


どこにも、行けない。


私がこんな足だから、アーサーは私をこの部屋から出さずにいるのだろうか。大体、怪我をした時のことまで覚えていないだなんて変だ。私が、おかしいのかもしれない。何かの病気なのだろうか。あの赤い嫌な液体は薬で、アーサーは私のために?
彼の私を愛しているという言葉、現状、それらを無理に好意的に考えれば、そういう可能性もあるのかもしれない。それが答えだというならばそれでよかった。不安だった。すべてがどういう意図で、どういう理由で、なされていることなのか。わからないのはもう嫌だ。不安なのはもう、嫌だ。けれどどう好意的に考えようとも、手の届く場所には窓ひとつない閉ざされたこの部屋に沈滞する薄暗い空気は、この状況の異質さやおかしさをまざまざと私に思い知らせるようだ。おかしいのは私だろうか?それとも、アーサー?

そう思い至ると、鈍く頭が痛んだ。まるで考えることをやめさせるように、拒絶するように。やっと足の痛みが引いてきたと思えば代わりに頭が痛くなってきて、私は途方に暮れた心地で部屋を見回す。




と、静かな部屋に何か錠を外すような金属音が響き、次いで木製の扉が、軋んだ音を立てて開いた。音につられるようにそちらを向く。扉のところに立っているのはアーサーだった。その手にはトレイが持たれていて、その上にはあのティーカップが置いてある。部屋に入って数歩、そこで彼はいつものベッドに誰もいないことに気付いたのだろう。わずかに表情を変え、探すように視線を室内へ投げ掛ける。やがて私と目が合って、彼は床に座り込む私に、その目を見開いた。



「なに、してるんだ……?」



彼の大きな瞳が揺らめいている。私はどこか気まずさを感じながらも彼を見つめ返した。何か言おうと口を開く。



「アーサー……」



出てきたのは彼の名前だった。小さな声で、しかし確かに彼の名前を呼ぶとアーサーはますます驚いた表情になる。
よく見ると、いつもきちんと着こなしているはずの彼のスーツの、襟元が少し乱れていた。まるで、誰かと掴み合いでもしたみたいに。



「お前、俺の名前……いや、それより、そんなところで何してるんだ?」



少し狼狽えたような声色だった。アーサーはゆっくりと私の前まで歩いてくる。彼の表情、声、それから乱れたスーツの襟元、ひたひたとしたいやな違和感が足元から這い寄るように浮かび、私は少し体を固くして近づいて来る彼を見上げた。



「ベッドから降りようと…思ったの、」


「何のために?」


「……、それは……」




何のために。食い気味にそう聞かれて私は口籠る。見下ろしてくるアーサーの眼が私を責めているようだ。部屋の中を少し歩きたかっただけなのだと、悪いことをしていたわけではないのだから言えばいいのに、上手く言葉が出なかった。



「答えられないのか?答えられないってことは後ろめたいことがあるんだろ」


「ちがうの、」


「違わねえだろ!」


声を荒げた彼の言葉と同時に、何か割れるような鋭い音が響いた。突然の大きな声と音に驚いて、私はびくりと身体を揺らして目を見張る。彼の持っていたカップが、トレイごと床に叩きつけられて割れた音だった。それを認識して息を吐く間もなく、アーサーは私の両肩を強く掴む。しっかりと掴まれた肩口の痛みに顔を顰めた。態度の豹変した彼が怖くて、思わず目を逸らす。

その視線の先、床にはトレイが転がり、その周りに割れたカップの破片が散らばっている。幸い、カップの破片がこちらに降りかかってはいないようだった。ただ、こぼれたカップの中身は、私の膝からふくらはぎにかけてを赤く汚している。滴る生温いそれは、まるで本当の血液のようだ。それを目にした途端、奇妙な既視感に包まれる。私の体から滴る血液。こんな光景を前にも見たことがある。それはいつ、どこで?考えればまた頭が鈍く痛む。


「なぁ、聞いてんのか?こっち見ろよ。どうしてそんなことしたんだ?答えろ」


アーサーは私の肩をきつく掴んだまま、乱暴に揺さぶった。その尋常じゃない様子の彼に、私は恐怖ばかりを感じて何も言えなくなる。見開かれた彼の綺麗な目は明らかに危険な光を灯していた。その瞳が、あの時の彼とかぶる。

あの時?



「まさか俺から逃げようとしたのか?なあ、そうなんだろ」


「アーサー、いや、こわい、」


「そんなの許さねぇからな。わかるだろ?わかるよな、レーネ。返事しろよ!」


「――――」


私は完全に伝えるべき言葉を失って、ただ彼を見つめた。怖かった。どうして急に豹変したのか、わからない。ベッドから降りることがそんなに責められることだろうか?嫌な予感は確信めく。おかしいのは私ではなく、彼?


「返事をしろ。ここから出て行こうなんて考えるな。それとも……」


アーサーはそこで一度言葉を切る。唇の端を歪めて、笑った。それは昏い笑みだった。その時私ははっきりと、彼の目に狂気を見る。

それは確かに、見覚えのある狂気だ。



「右足も、潰さなきゃ駄目か?」





一瞬の間の後その言葉を理解して、私は目を見開く。アーサーは何を言っているのだろう。この状況で、どうしてそんなに楽しそうに笑うのだろう。それに、今のその言い方を聞いていると、まるで、アーサーが私の左足の傷を付けたみたいじゃないか。


……違う。違う、違う、違う。
まるで、じゃない。私の左足を潰したのはアーサーだ。あの日、私の左足は彼に壊されたのだ。アーサーは躊躇わずに引き金を引いた。ちょうど今、あの液体が私の足を汚すみたいに、正確に左足の腱を狙った弾丸は私の左足を真っ赤に染めて、私は痛みでなにも考えられなくて、地面に倒れ込んで呻きながらただ目に焼き付いたのは赤と、彼の歪んだ微笑み、それから。



「…ぁ……あ、ああ……っ…」



目の前がちかちかと霞んで、がたがたと体が震え出す。抜け落ちていた記憶が、頭の中に洪水のように押し寄せ、顔から血の気が引いていく。私、アーサー、あの男の子、雨、銃声、手紙、痛い、悲しい、怖い、怖い、どうにかなってしまいそうだ。


「……大丈夫だ、レーネ」


強く両肩を掴んでいたアーサーの両手は、打って変わって柔らかな仕草で私の両頬を包む。合わせられた目線はこの場に似つかわしくないほど優しげに私を見つめていた。彼の二つの緑の眼に、怯えて震え何もできない無力な私が映っている。その目をすっと細めると、彼は慈しむように私を抱きしめた。髪を撫で、幼子を落ち着かせるように背を叩くその手は優しいのに、どこまでも怖い。アーサー。どうして。わからない。本当はわかっている。嫌だ、思い出したくない。もう、嫌だ。溢れる記憶に耐えかねて、考えることを放棄する。



「俺が、ずっと側にいる。ずっと、お前を愛してやるから」



揺れてぼやける意識が闇に沈む直前、聞こえた声は恍惚としていた。

















Keep telling me our never-ending happy dream.




























私は手を繋いでいる。アーサーがやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。彼の体の向こうから、少年が顔を出す。そうだ、この子はアルフレッドだ。しっかりとむすばれたアルの左手、アーサーの右手。アルは笑う。走り出そうとする。引かれてアーサーが前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。アルが手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。アルに視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。


「可哀想に」


誰かが言う。これは夢なのか、記憶の中のことなのか、現実なのか、私にはもうよくわからない。
知らない手が私の額を撫でる。夢でも、記憶でも、現実でも、どこにも行けなくても、可哀想でも、何でもよかった。私は救われたいわけじゃない。救いなんか無いのだ。起きたことは覆らない。過ぎた時間は戻せない。ならば救いなどあり得ない。私はただ、彼の、私たちの平穏と幸福を守りたかった。けれどそれすら失って、だからもうひたすらに、幸福の続きを繰り返していたいだけ。それが夢ならば、せめて終わらない夢を。あなたの望む夢を。私が本当に望むものは、どうしたってもう手に入らないのだから。


















(211001)
(091215)


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