5








そしてぷつんと光景は途切れる。まっくらになる。ざあざあという音しかきこえない。雨。目を閉じる。開く。広い荒野にひとりぼっちだ。ちがう、ひとりぼっちなんかじゃない。違う、違うわ。あなたはひとりぼっちなんかじゃ……



あなたって、誰のこと?








私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。


途切れる。





幾分大人びた少年が、私をじっと見つめている。ひどく悲しそうな、辛そうな、今にも泣き出してしまいそうな顔だ。その表情を見た途端に、胸が痛んだ。私は彼に対峙している。彼は何か言いたげに口を開く。私は目を閉じて耳を塞いだ。彼の口から発せられる言葉を聞きたくない。これから起こることを、なにも見たくない。心を閉ざす私をどうか許してほしい、どうせこの望みはもう叶えられないのだから。

少年の気配はしばらくそこにあった。けれどやがてその気配は消えた。少年は消えた。彼は、消えてしまった。私はそれでも目を閉じて耳を塞いでいた。そのままそうしているとどこか遠くで銃声が鳴った。


“あれは間違いだった”



私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。それは・たしかに・しあわせ・だった。

















誰かの話し声がする。私はその声をよく知っている。自分が今いる場所が夢か、現実か、わからない私はじっとしてただ聴覚に意識を集中する。






「……突然来るなんて言われても困る。いつも言ってるだろ」





彼の声だ。よく知る声。でもいつも私が聞いているような柔らかい声色ではない。どこか硬質な声。聴覚にばかり集中しているうちに、他の感覚がじんわりと存在を主張し始め、私は閉じたまぶたの向こうに薄明かりを感じて目を開く。目に入ったのは天蓋の白いレース。これは夢ではなくて現実だ、ぼんやりとそう思う。
すっきりとした目覚めだった。それになんだか長い夢を見た。今しがた見ていたはずの夢の光景は、しかし目を覚ました途端に掴めそうで掴めない煙のように溢れて散ってゆく。忘れないようにと慌てて夢の中の少年の顔をちゃんと思い出そうとしてみても、悲しげな彼の表情を思い出して胸が痛むだけで、その胸の痛みだけが鮮明に残り、後は朧げになってしまった。

あの男の子は、どうしてあんなに悲しそうだったのだろう?



「あいつはもうお前には会いたくないって言ってるんだ。体調も良くないしな」



その声に、視線をベッドの向こうへ投げ掛ければ、見知った彼の背中が見える。天窓から落ちる鈍い陽光が、彼のくすんだ金の髪を照らしていた。どうやら誰かと電話をしているらしい。



「……わからないやつだな。なんで俺が嘘なんか吐くんだよ。もういい、来るなら相手はしてやるけど、あいつはお前とは会わないと思うぜ」



何の話をしているのだろう。私にはわからない話だ。彼の背中を見つめていれば、電話を耳に当てた彼が視線に気付いたのかこちらを向いた。


「……好きにしろ。切るぞ」


私へと視線を注いだまま、ぶっきらぼうに言い放った彼はそのまま電話を切る。ため息を吐いてから、切り替えるみたいにこちらへ微笑みかけた。


「レーネ」



名前を呼ばれて、私はただこちらに近付く彼を見つめる。今の電話の相手は誰だとか、何の話だとか、気にはなったけど私が聞いてもいいようなことなのだろうか、そもそも彼は答えてくれるのか。

そんな思考を遮るように彼の手が伸びてきて、私の体を起こした。されるがままに上半身を起こされた私は、瞬きをして彼を見つめる。この人は、誰だろう。知っているのだ。私のよく知っている人。私を愛していると言う人。夢の中でいつも手を繋いでいてくれる人。彼の名前が、もう少しで思い出せそうな気がする。だから私は、彼に名前を尋ねなかった。きっともう少しで思い出せる。ふと目をやると、花瓶の薔薇は赤に変わっていた。そこにある花が白い薔薇だったのは、どれくらい前のことだろう。



「気分はどうだ?」



彼の問いかけに、私は小さく頷いた。何か言おうと思ったのだけれど、すぐには言葉が出なかった。そのまま黙っていれば彼はまた、あのティーカップを私に差し出す。



「さあ、飲め」



見飽きたそれに視線を移す。ゆらゆらとゆらめくその液体は、絶対に“よくないもの”だ、何か、私の体を蝕むような。私はこれを、飲んではいけない。違う、飲まなくてはいけない。けれど、飲みたくなかった。飲むのが怖いと思った。彼は、私を愛していると言う。ならば飲まないということも、許してくれるのではないか?

カップを受け取ろうとしない私を見かねてか、彼は私の手を取ってカップを持たせようとする。このままだといつもと同じだ。私は両手を結んでそれを拒否した。見上げると彼は、困ったように表情をしかめる。


「レーネ、」


促すように彼は言った。それでも私は、ゆっくりと首を横に振る。


「わがまま言うな。ちゃんと飲め」


まるで諭すようなその口振りに、私はじっと翡翠の目を見つめて無言の訴えをする。その瞳は透き通るように綺麗で、宝石のようだなどと場違いにもそらで思う。何か、説得力のある何かを彼に言おうと思ったのだけど、思い付きもしないし、踏み出せもしなかった。
彼はいよいよ困ったようで、肩をすくめてため息を吐く。


「……わかった。今日は強情だな。また後で来るから、その時はちゃんと飲めよ」



それに対して頷くことも首を振ることもしなかった。そのことをさして気にも留めない彼が私に背を向ける。もう行ってしまうのだろうか。私が、赤いあれを飲まないから。本当に、彼は私にあの液体を飲ませるためだけにこの部屋に来たらしい。それはあんまりだ。私はずっとここにいて、彼からもたらさられるものを受け取ることしかできないというのに。

無意識のうちに、重たい手を伸ばしていた。彼のスーツの、背広の裾を掴む。あまり力の入らない指先でも、彼は掴まれたことに余程驚いたらしく、びくりと肩を震わせて振り向いた。驚いたのは私も同じだった。どうして引き留めたのだろう。引き留めてどうするつもりだったのだろう。



「レーネ……?」


目を丸くしてこちらを見る彼の、そこには困惑が見てとれた。私も困惑して、何も言えずにただ彼を見上げる。言うべき言葉をぐるぐると考える。


「……行か…ない、で…」


数秒のあと、やっとそれだけ言った。自分でも予期せぬ言葉だった。しかし心の底からの言葉なのかもしれない。不安だった。私が何故ここにいて、彼はいったい誰で、あの赤い液体は何のためで、どうして私にそれを飲ませて、ここはどこで、あなたは何のために?それらすべて、いつもより冴えた頭で考え始めると不安で不安で仕方ない。この状況のすべてがわからないのだ。きっと彼は答えを知っている。この状況を作っている張本人であるかもしれない、それでも、私は彼しか知らない、彼を頼るほかないのだ。


彼は呆けたように私を見ていた。言葉を失っているようにさえ見えた。


やがて我に返ったようにまばたきをして、彼は優しく微笑む。私の手を取り、そっと口付けた。落とされる唇はやわらかく、それはどう見たって恋人にするような甘やかな仕草だった。


「悪いな、今日は忙しいんだ。後でまた、来るから」


それから男は再び背を向け、いつものように部屋を出て行く。いつものように。いつものように。いつものように。












……思い出した、彼の名前は、アーサーだ。





(211001)
(091213)


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