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私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。







誰かが私の髪を引っ張っているような感覚に、意識は沼から浮かび上がる。薄く目をひらけば、目の前にあるものは白いレースでも天井でもない。目に入ったのは、床と、やわらかな色のナイティドレスを着せられた自分の下半身だった。どうやらなにか椅子に座らされていたらしいこの体は、意識を取り戻した途端に違和感を訴える。自分の意思で座ったわけではないから、体勢に少し無理があったのだろう。瞬きを繰り返し、重たい頭をわずかに動かせば、目に映ったのは私自身だった。


「……起きたのか」


声は頭上から降ってくる。そして彼と目が合った。状況を把握する。向かい合って見える私は、鏡に映る私の姿だ。鏡越しに目の合った彼は、変わらず優しい微笑みをこちらに向けた。いつもより何故かはっきりした視界、ドレッサー に向かって私を椅子に座らせた彼は、私の背後に立って甲斐甲斐しく私の髪をブラシでといている。髪を引っ張られるような感覚は、これだったのだ。


「質のいい獣毛のブラシを取り寄せたんだ。物も人も手入れが大事だからな。髪も同じだ」


どこか機嫌のいいふうに言う彼は、慈しむように私の髪を手ですくっては、質のいいらしいブラシで丁寧にとかしてゆく。私は何かを言いたいのだけれど、声が出せず、さらには体が動かないことに気が付いた。瞬きはできる。頭も少しだが動かせる。しかしその他は、足も、腕も、指先も、力が入らず動かせない。感覚はあるのだ。触れられればわかるのだけど、動かすことはできない。意識があるのに動けないことは、酷くもどかしい。


「お前が飽きないように、今日はシャンプーも違う香りに変えた。気に入ったか?」


もどかしくしている私のことなど知らぬ彼はそう言って、すくい上げた髪のひとふさに口付ける。そういえば今日はあのいつも香る薔薇の匂いはしない。漂うのは仄かな石鹸の香りだ。心なしか体もさっぱりしているような感覚がある。記憶のない間に私の体は入浴させられたのかもしれない。それは元来恐ろしいはずのことであるが、鏡越しの彼のどこか嬉しそうな表情を目にしてしまえば、さしたる問題でもないような気がしてしまう。ぼんやりとした頭も考えることを放棄しているのかもしれない。ともかく、彼のその満たされた表情は私に安堵をもたらすのだ。よかった、大丈夫だ、彼は今日も笑っている、きっと幸せなのだろう。


それなのに彼の名前がわからない。この人は一体、誰?


「もう眠る時間だ。お前の好きな童話を読んでやろう。きっとよく眠れる」


もう眠る時に童話を読んでもらう年でもないだろう、それなのに彼は微笑んでそう言った。
それからブラシを鏡台の上に置いた彼は椅子に座らされた私の体を横向きに抱き上げる。彼との距離が一気に近付けば、彼から香るのもまた柔らかな石鹸の香りだった。一歩、二歩と彼が歩いてすぐ、私は見慣れたベッドの上に寝かされる。そして、額に軽いキス。至近距離で私を見つめる彼の瞳はどこまでも優しい。思い出した、確かこの人は私のことを愛していると言っていた。

それでも拭えない違和感が私の中に広がってゆく。




彼は私を愛しているはずなのに、どうしてこんなにも怖いのだろう?正しいことをしなければいけない。彼の愛に応えるならば、恐れるなどあってはいけない。けれど本当はわかっていたはずだ、駆け出した時にはいつだってもう遅い。もう、遅かった。わからない、それはいつの話だろう。













What was (really) sacrificed?























まっくらだ。

私がそう知覚すると、闇は徐々に闇の様相を失った。気付けばそこは、今となってはもう随分懐かしい、家の庭だった。それは私の家であり、彼の家でもあり、私たちの家だった。警戒するようにあたりを見渡せば、目の前には見知らぬ男が立っていた。いや、全く知らないわけではない。どこかで見たことのある顔だ。きっと友人の知り合いの友人だとか、その程度の面識だろう。その男は私と同じように、いや、私よりも神経質にあたりを警戒しながら、白い封筒を差し出す。
私はこの場面を知っている。封筒の中身は、手紙だ。私宛の大切な手紙。それで、差出人は誰だろう。思い出そうとすれば景色が揺らぐ。思い出せない、思い出してはいけない?私は周囲に人の居ないことを確認して、その手紙を受け取ろうと手を伸ばす。けれどそれは叶わずに、途端に庭も男も手紙も消えた。






私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。























「レーネ」


そしてまた私は彼の声で目を覚ます。いつもと同じ薔薇の香り。目を開けば白い天蓋のレースに、天井。やけに意識がはっきりしていた。それでも体はまるで鉛のように重く怠い。
彼はいつもするように私を優しく抱き起こした。この人の名前は、何だろう。思い出せない。香った石鹸の香りは、あれはいつの記憶だろう?


「…あなた、は……?」


私の問いかけに、彼は口を閉じた。そしてうつむく。


「……俺は、アーサーだ」


そうだ、彼はアーサーじゃないか。どうして忘れてしまうのだろう。愛していると言ってくれるのに。


「アーサー」



私が彼の名を呼ぶと、アーサーはかすかに笑みを返す。それがなんとなく嬉しくて、私はもういちど彼を呼ぼうとするのだけど、それは彼がティーカップを差し出したことによって遮られた。真っ赤な液体の入ったティーカップ。違う、違うのアーサー。私はこんなものが欲しいのではなくて、こんなものは飲みたくなくて、


「ほら、飲め」



飲みたくなくて?

違う、駄目、私はこれを飲まなくてはいけないの。でも、どうして飲まなくてはいけないのだろう。この赤い液体は、何?知っている、これは“よくないもの”だって。それなのにアーサーはどうしてこれを飲ませるの?愛しているのに?

アーサーは反応をかえせない私の手を取って、無理やりにティーカップを持たせる。触れた彼の手も、ティーカップも、あたたかかった。或いは私の手が、冷たすぎるのだ。


「はやく飲め、」


急かすアーサーに、私の手は意志と反して憑かれたように動いた。鈍い動作で、カップを口元へと運ぶ。薄い飲み口に、唇を付けようとして、しかし唇が触れることはなかった。

考え事をしていたせいで手元が揺らいだのか、カップはあっさりと私の両手からすべり落ちたのだ。それは重力に従い、私の足を覆うやわらかな羽毛布団の上に零れ、白の上に不吉なほどに真紅の染みを落とした。アーサーが慌てて落ちたカップに手を伸ばす。ベッドの上に落ちただけのカップには傷ひとつ付いてはいないだろうが、布団の方は洗わなければ使えないだろう。


「レーネ、大丈夫か?」


「ごめ、なさい……」


カップは割れず、こぼれた液体も生温かったために火傷も負ってはいない。布団を汚してしまったことを詫びると、彼は緩やかに首を横に振って私の頭を撫でた。されるがままに撫でられながら、使い物にならない濡れた布団を見る。本当に、見れば見るほど気味の悪い赤色。幸い、私自身のどこにもそれは降りかかっていないようだった。


「……大丈夫だ。お前のお気に入りのカップが割れなくて、良かった。それより、布団を取り替えよう」


アーサーはそう言うと、私の掛けている布団をはがすように取り上げた。着せられていたナイティドレスは布団の中で少し乱れ、捲れ上がっていた。布団を取った拍子に、私の両足が露わになる。青白く、痩せ細ったふくらはぎが目に入った。記憶の中の自身の体とのあまりの違いに、私は一瞬それが自分の足であると知覚できずに動揺する。こんなにも不健康なからだをしていただろうか。


「すぐ、新しいの持ってきてやるから」


彼がそう話しかける声が遠い。私に返事などできぬことを知っているのか、返答を待たずに部屋を出て行くアーサーに一瞥もよこさず、私はただ自分の足を凝視した。重い腕をのろのろと動かし、足に触れてみる。間違いなく私の足だ。

ふと、左の足首、かかとの上のところに、赤く膨れた傷痕を見つけた。こんな怪我、いつしたのだろう。記憶にはない。不審に思って、おそるおそるそれを指先でなぞってみる。傷痕はくっきりとしており、周囲の皮膚は健康的な色を失い突っ張っていた。切り傷、だろうか。刺し傷、だろうか。なぞっただけでは痛みを感じないものの、かなり深い傷を負ったにちがいない。けれど私はそんな大怪我をした覚えはないのだ。無意識のうちに出来た傷ではない。打ち身や虫刺されなんてものではない、大きな傷だ。一体いつこんな怪我を……いつの間にこんなことに?そうだ、それよりも、いつから私はここにいるのだろう。どうして、ここにいるのだろう。あの赤い液体は?


記憶を呼び起こして考えようとするも、それを拒絶するように頭が痛む。私はレーネで、彼はアーサーで、それで……私は、彼は、何者なのだろう?
そこでふと、いつも私を襲うはずの強烈な眠気が来ないことに気付いた。視界は薄くぼやけているものの、意識はいつになくはっきりしている。そういえばさっき落としてしまったから、今日はまだあの液体を飲んでいない。やっぱりあれは、特別な液体だったのだ。眠くなるなんて、睡眠薬か何かだろうか。とにかくあれは“よくないもの”だ。何故、私を愛していると言いながらアーサーは、そんなものを私に与える?




嫌だ、これ以上は考えたくない。何も考えちゃいけない。私は何も考えない。それが一番良い。考えないことが一番幸福だ。違う駄目だ、考えなきゃ。考えなきゃ。何故、どうして?



重苦しい音がして扉が開き、私の思考はそれに奪われる。俯いたまま音の気配に集中すれば、彼がこちらに近づいて来るのがわかる。そのうちに視界に白が飛び込んできて、ふわりと、真新しい色の布団が私の足に被せられた。アーサーは私を覗き込み、気遣うような視線を寄こす。


「どうした?気分でも悪いのか?」


まるで壊れものを扱うように、彼は優しく私の頬を撫でた。その手が、あの夢の中の彼と重なる。目の前の彼とあの光景を重ねると、なぜか無性に泣きたくなった。
アーサー、どうして。愛していたのに、どうして……?


その続きが、出てこない。


「顔色が悪いな。寝た方が良い」


やんわりと、彼は私の肩を押してベッドへ寝かせる。どうしてのその続き、続く言葉を考えて、探して、何か言おうと唇を震わせる。けれどなんの言葉も掴めずに、胸の内に浮かんだ泣きそうな気持ちだけを残して、言いたいことはすべてこぼれ落ちてゆく。私は諦めて目を閉じた。






















(211001)
(091209)


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