3







そしてぷつんと光景は途切れる。まっくらになる。ざあざあという音しかきこえない。ひとりぼっちだ。私は目を閉じる。それは一瞬のビジョン。私は目を閉じる。ひとりぼっちだ。ざあざあという音しか聞こえない。まっくらになる。そしてぷつんと光景は途切れる。
























「レーネ」



ゆるゆると、揺り起こされる。そこで私は私の体を知覚する。薔薇の香りが鼻腔をくすぐって、それがはっきりと覚醒をもたらした。重たいまぶたをこじ開ければ、白いレースとその奥に見える白い天井が、私の視界を埋める。瞬きを数回、ぎこちなく目線を動かすと、相変わらず明瞭でない目は、ついさっきまで見上げていた男がまた同じように私を見下ろしているのを捉えた。

まただ。覚めることの無い夢のように繰り返されるこれ。今まで何度繰り返しただろう?これから何度、繰り返すのだろう?朧な視界に苦しい胸、倦怠感に包まれる。動かしづらい頭を少し動かせば、体は軋むようだ。目をやったベッドサイドのテーブルに、置かれた花瓶の薔薇は白色のものに変わっていた。そのまま視線を上へ。頭上高くの窓からは小さく青空がのぞいている。ここからだと、綺麗なはずの空がよく見えない。


この男は、誰なのだろう。



「わかるか?俺は、アーサーだ」


心の声が聞こえでもしたのか、浮かんだ疑問は彼が自ら名乗ることで解消する。天井に向けていた目線を、アーサーへ。やっぱり彼の瞳だけが私の視界の中で鮮やかだ。ぼうっとそれを見ていれば、いつものように彼の手が伸びてきて、ベッドに横たわる私の体を抱き起こす。その手は温かい。私が忘れていた彼の名前は、アーサーだった。どうして忘れてしまうのだろう。

何かを言おうと思って、止めた。何を言っても仕方のないことだからだ。そしてじっと、あの赤い液体が差し出されるのを待つ。アーサーは私をはかるように見た。目が霞む。二人とも何も言わない。何の音もしない。ここは静かすぎる。
やがて彼は黙ったまま、ティーカップを差し出した。これもいつもの光景だ。私は何も言わずにそれを受け取る。中に揺らめくのは、見飽きた真っ赤な液体。



私はこれを飲まなければいけない。
私は、これを、飲まなければいけない。



重たい腕を動かして、カップを口元へ。薄い飲み口が唇に触れる。少しカップを傾けて、そこからためらわずにぐいと飲み干す。生ぬるい液体が口の中に広がって、味わう前にそれをごくりと嚥下した。彼が見ている。ためらってはいけない。飲まなくてはいけない。そうして彼を安心させてあげなければいけない。これはきっと“よくないもの”だけど。

カップはすぐに空になり、私はそれを緩慢な動作で彼に手渡す。いい子だ、と言ってアーサーは私の頭を撫でた。それが、あのいつも見る夢の光景と重なる。あの夢の……夢だろうか?あの光景の、手を繋いだ男はアーサーだ。じゃあ、アーサーともう片方の手を繋いでいるあの少年は?
知っているはずなのだ。だって私。



だって、私?


またじんわりとした違和感に襲われる。考えようとすれば頭のぐらぐら揺れるような感覚が気持ち悪い。でもこの違和感を徹底的に突き詰めたい。何かを忘れているのだ。何かが、足りないのだ。私はレーネで、彼はアーサーで、それではあの少年は?

そうこうしているうちにアーサーは私に背を向ける。私は彼を引き留めようと口を開く。なにか、言わなければいけない。言うべきことは山ほどある。訊きたいこともたくさんあるはずだ。けれどうまく言葉が出ない。喉元を圧迫されているような苦しさに、呻き声すら出せない。部屋のドアに手をかける彼、頭の揺れるような感覚は体全体に広がる浮遊感となり、思考はうまく束にならずに散り散りにどこかへ行ってしまう。ただでさえぼやけた視界が、段々と黒ずんで、意識が、途切れて。

















私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。


まっくらになる。ざあざあという音しかきこえない。私は目を閉じる。冷たい。雨だ。雨が降っている。私はゆっくりと目を開けようとする。けれどまぶたはぴくりとも動かない。まっくらだ。目が開かない。駄目、見てはいけない?


見たくない。


私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追い かける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す。






















「レーネ、」


眠りの淵から、引き起こされる。或いは、もっと深い眠りへと導かれているのかもしれない。さっきあの赤い液体を飲んだのは、あれは、どれくらい前のことだろう?
私の名を呼ぶのは、相変わらずあの声だ。ただ、誰の声なのかわからない。よく知っているはずの声だ。私を愛していると言った声。

ゆっくりと目を開ける。眩しさに身構えるも、予想に反して部屋は薄暗かった。今は夜なのだろうか。それを知る術は無く、感じたのは甘い薔薇の香り、途端に、ずしり、と体に重みを感じて、私は驚いてそれから逃れようとする。けれど、体に力が入らない。暗闇の中、手探りなのか、その手は私の肩や首に触れながら、体の形を確かめるように撫でる。ただ何も見えないことが恐ろしく、力を振り絞ってやっとのことで伸ばした手は、何者かに掴まれた。
そのまま、掴まれた手首に柔らかな唇が落とされる。驚いた私は肩を震わせた。お構いなしに、二度、三度と手首や手の甲に口付けられて、くすぐったさに手を引いた。掴む手の拘束は緩く、すぐに解けて私は伸ばした手を引っ込める。

ようやく、少しずつ目が慣れて、暗闇の中に彼の輪郭が浮かび上がる。真っ暗だと思っていた視界は、慣れてくれば天窓から漏れる月明かりのおかげでもののシルエットがわかる程度には明るく見える。そこで男と、視線がかち合った。昼間よりも幾分はっきりとした頭と視界に、彼は私に跨っているのだとわかる。そこで私は理解した。これから行われることを。


そのとき、男はいつも苦しそうな目をして、私を見るのだ。


彼は一度離した私の両手を再びゆっくり掴むと、ベッドに押さえつける。ぎしりとスプリングが軋む。むせかえるような薔薇の香り。甘く芳しいその香りは、嗅覚だけでなく頭までも支配するようだ。彼の触れる場所に感覚は集中して、ああ、彼の名前が思い出せない。優しく触れるこの手は、誰のものだろう?



「……や…」



抵抗は無駄だと知っている。知ってはいるが、おざなりな抵抗でもしないよりはましだ。そう思い身をよじろうとするも、やはり体に力が入らない。そうこうしているうちに彼の整った顔が近付いてきて、私の唇は塞がれる。


「ん、……っ」


口付けは甘く、優しく、触れた唇から嫌でも彼の愛情をひしひしと感じ取ってしまう。それでも、訳のわからないままになされるこの行為は苦しい。彼を嫌ってはいなくても。

怖い。

ただ、怖い。
この時の私はそれしか考えられなくて、いつもそうで、それでも彼が事を進める手を止めることは無い。
そのたびに泣いたり叫んだり暴れたりしようとするのだけど、体に力が入らなくて、失敗に終わる。だから私はされるがままに彼に抱かれるしかない。私は一体何なのだろう?目が覚めるのは大抵いつもベッドの上で、差し出されるままにあの液体を飲み、こうやって抵抗も許されぬままに彼の慰み物のように抱かれて。泣いてしまいたいのに、うまく泣けもしない。こんなのただの人形だ。人形。私は彼の人形なのかもしれない。そんなことを考えては、進められる行為から気を紛らすことができるわけもなく、だからもうただひたすら、私はただ何も考えないように努めるのだ。けれど男の熱を帯びたみどりの瞳に、いつだって負けてしまう。私の名を呼ぶ、その声の切実さに。


「…レーネ…っ…俺の、レーネ、」



熱に浮かされたように彼は私を呼ぶ。泣きたいのは私なのに、どうしてあなたがそんなに泣きそうな声で私を呼ぶの?問いは言葉になることはない。手で、指で、唇で、舌で、彼の体の全部で惜しげもなく体を開かれる私の口から出るのはもう意味など持たぬ甘いだけの発声でしかない。一層のこと、ずっとこうしてくれれば何も考えずに済むのに。ここまで行為も進んでしまえば恐怖は無く、溶けそうに熱い体に、思考まで溶かされてゆく。


不思議なことに。

好き勝手に蹂躙される本来は苦痛なはずのこの行為の間だけ、二人の息遣いのその隙間に、私は自分がちゃんと生きているのだと実感する。なんて皮肉なんだろう。それでも彼から注がれるものは身震いするほどの愛情だ。私は彼の熱量の前で、ただ震えてそれを受け容れるしかない。そして互いの肌と肌に触れ合うこの時だけは、彼の名前をみずから思い出すのだ。私は彼をよく知っている。悲しい、寂しい、懐かしい、愛しい、私の、大好きな……?


アーサー。
意味を成さぬ嬌声の合間に彼の名を呟くと、アーサーはぴたりと動きを止め、嬉しそうな笑みを浮かべる。その表情に、恐怖と苦痛と快楽と、処理しきれない感情とでぐちゃぐちゃにされる私の心はほっと安心できるのだ。彼が笑ってくれて、よかった。嬉しそうにしてくれて、よかった。これでもう────ないかもしれない。


なにを?



「愛してる、」



霞む思考に、アーサーの声だけが、響いた。










私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。



















遠くで、雨が降っている。









(211001)
(091206)


prev next


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -