「レーネ」
耳から意識を揺らすのは、また彼の声だ。その声はどこまでも優しいのに、どうしてか私の胸をざわつかせる。ゆっくりと浮上する意識、目を閉じたまま、私はこの眠りから覚める前の記憶を呼び起こそうとする。けれどそこには何もない。ここで目覚めるということは、眠る前にここで何かをしていたはずなのに、ぽっかりと抜け落ちたその記憶は頭を捻ろうとも思い出されそうになかった。
「……レーネ」
二度目の声は、どこか焦れたように。そこでようやく、私は自分がレーネであることを思い出す。眩しさに怯みながらも目を開けた。
少しだけ頭を傾けて声のした方を見ると、霞む視界に、見知った男を見つける。でもどうしても彼の名前が思い出せない。彼のことは、顔も、名前も、よく知っている、はずだ。なぜならこれは、もう何度も繰り返している光景なのだから。何もかもをうまく思い出せないくせに、それだけは確信めいている。
目を開けて、何度か瞬きを繰り返す私を、彼は何も言わずに見下ろしていた。そのうちにゆっくり手が伸びて来て、横たわる私を起こす。その拍子に寝かされていたベッドがふかりと揺らぎ、微かに軋んだ音を立てた。私は上半身を起こした格好で、部屋を見回す。
天蓋付きの白いベッドに、掛けられたレース。仰々しい木のドア。手の届かなさそうな位置にある、決して大きくはない窓。そして、私を見つめる名前のわからない男。
彼の呼ぶ通り、私は間違いなくレーネだ。ここはどこなのだろう。私は、どうしてここにいるのだろう。
「おはよう、レーネ」
そしてこの男は一体、誰なのだろう。
「……あ、なたは、?」
不安を隠さずに彼に尋ねる。一体いつから眠っていたのか、震わせた喉はあまり上手く声を出してはくれなかった。それでも言いたいことは伝わったらしい。彼はやわらかな笑みを浮かべたまま。
「俺はアーサーだ」
その返答に、私は彼をじっと見る。
ああそうだ、彼はアーサーだ。どうして忘れていたのだろう。でも、アーサーって、誰だろう。知っているはずなのに、わかるはずなのに、色々なことを、あまり思い出せないのだ。どうしてだろう。
「あー、さー……あなたは、だれ?」
息が吸いづらい。喋るのもままならない。声は掠れて、震えて、私は自分自身にまで不安になる。どうしてこんなにも胸が重苦しいのだろう。息を切らして表情を曇らせる私の頭を、彼はまるで安心させるように撫でた。
「俺はお前を愛している、ただの男だ」
「私を、愛して……?」
「ああ、そうだ」
まるで心から慈しむように頭を撫で、髪を弄ぶ彼の手はそのまま頭の形に沿って、それから私の頬を包んだ。私の頬と彼の手のひらがぴたりと合わさり、触れたところから温かい。その温度は私を安心させるような、懐かしい温度を持っている。なんとなく、この人の言葉は本当だと感じた。私を愛しているという彼の言葉。それをすんなり信じられるほどに、頬に触れるこの手は優しいのだ。
でもそれならば、この拭えない違和感は何だろう?
「さあ、飲め」
釈然としない私に、またそれが差し出される。また?私はこの光景を知っているのだろうか?いや、知らない。違う、知っている。何度も見たことがあるはずだ。この、薔薇が描かれた軽いティーカップも、そこに注がれた毒々しく赤い液体も。半ば無理やりに持たされるそのカップを受け取れば、人肌ほどの温度がじわりとカップを通じて両手に広がる。私はその液体に目を落とす。赤い水面に、虚ろな目が二つ揺らめいている。これは私?これは、私。これは……これは、この液体はきっと”よくないもの”だ。
それなのにどうして私はこれを飲むのだろう。どうして、飲まなければいけないのだろう。
アーサーを、見る。霞んでぼやけて相変わらずうまく見えない目でも彼の瞳はよく見える。彼はにこやかな表情のまま、逃げを許さないみたいに私を見つめていた。
諦めてゆっくりとカップを持ち上げる。口を付ける。真っ赤な温いそれが、私の体内にすべり込む。
「いい子だな、」
空になったカップを私の手から取り上げながら、アーサーはまた私の頭を撫でた。それはもう幾度も繰り返している、いい加減見飽きた光景。それなのに忘れてしまう光景だ。
どうして私はここにいるのだろう。どうして出られないのだろう。どうして忘れてしまうのだろう。あの赤い液体は一体、何なのだろう。
どうして。震えた唇からは何も発せられない。声の出し方はわかるはずなのに、言葉が何も出てこない。そのまま、彼が背を向ける。私の頭の中だけが、どうしてどうしてとうるさかった。静まり返った部屋に、はるか頭上にある窓からは、やわらかな光が降ってくる。
そして私の思考は途切れる。
私は誰かと手を繋いでいる。見上げれば、あの男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、自分と同じくらいの目線の少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。ぶんぶ んと繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も後を追いかける。振り返って彼を見る。逆光で表情は伺えない。ふ、と少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。
朝か昼か夜かもわからない。今のこの意識の浮上が何度目のことなのか、夢なのか現実なのか、私はなにもかもわからないままだ。白い天井と、壁と、天蓋のあるベッド、窓といえば天井の近くに小さなものがあるだけ。人が一人すり抜けられそうな大きさではあるが、その窓に手は届かない。ここからだと美しいはずの青空がよく見えないのだ。閉じ込められている?わからない。
しかし気が付けばそこに男がいて、私はいつも彼の名前が思い出せない。彼はそれでも優しい声で私を呼び、あの赤い液体の入ったカップを差し出すのだ。あれが何なのかわからない。きっとよくないものだ。しかし促されるままにそれを飲み続ける。飲まなくてはいけないからだ。飲まなくてはいけない、私は、なぜ?
何もわからないし、あまりはっきりと思い出せない。これは夢なのか現実なのか、どちらなのだろう。私はどうしてしまったのだろう。或いはきっと、あの赤い液体が原因なのかもしれない。あれはきっとよくないものだから……よくないもの?
そんなことを考えている間に私の思考はぼやけて途切れていく。そして気が付けばまた同じことの繰り返し。何回も何回も、同じことの、繰り返し。繰り返し。
けれど時々、その繰り返しの中でもおかしなことが起こる。それは突然やってきては、私を乱暴にかき乱し、途方に暮れさせる。
本当はよく知っているはずなのに名前すらわからないその男は、時折私の体を抱いた。犯されるという方が正しいのかもしれない。私はもちろん恐怖して、泣いて抵抗しようとする。しかしこの体では泣くことすらままならない。彼のことが嫌いなわけではない。触れられることにも、嫌悪感というものはあまり感じない。それどころか、彼とのその行為は私の体によく馴染むような、懐かしいような、本当に愛し合っているような気さえしてしまう。
ただ、望まぬまま、何もわからぬまま、力の入らない不自由な体を好き勝手にされることが恐ろしいのだ。私は誰で、彼が誰で、どうしてここにいて、どうして何もわからなくて、それなのにまるで恋人のように私を求める彼が、わからなくて、恐ろしい。彼の手つきや仕草からいくら愛情を感じようとも、意思と関係無しに体が快楽を感じようとも、その恐ろしさだけは拭えない。
それでも止められるわけもなく進められる行為に、彼は苦しいのと嬉しいのが混ざったような表情で、声で、私の名前を何度も何度も呼ぶ。そこでようやく、私は私を思い出す。その行為は確かに苦痛で、それでも私はされるがままになるしかない。そして私はその行為の時だけ自分の生を、なまなましく自覚する。こんなになにもかも、夢が現実かもわからないこの意識の連続の中で、それでも私は生きている。生かされている?
Don't even think, just sink.
抜け出せない。繰り返す。夢を見る。褪せた色彩。
私は誰かと手を繋いでいる。見上げれば、あの男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、自分と同じくらいの目線の少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。ぶんぶ んと繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も後を追いかける。振り返って彼を見る。逆光で表情は伺えない。ふ、と少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。そしてぷつんと光景は途切れる。まっくらになる。
ざあざあという音しかきこえない。ひとりぼっちだ。私は目を閉じる。それは一瞬のビジョン。
私は誰かと手を繋いでいる。見上げれば、あの男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、目線の位置が同じくらいの少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。 ぶんぶんと繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も後を追いかける。振り返って彼を見る。逆光で表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。私は手を繋いでいる。見上げれば、男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて 駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、笑顔を向ける。途切れる。私は手を繋いでいる。男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も追い かける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。途切れる。私は手を―――――
そして気付けばあの部屋にいる。繰り返しからは抜け出せない。私は、彼は、一体、誰なのだろう。
(211001)
(091205)
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