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私は誰かと手を繋いでいる。見上げれば、あの男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、自分と同じくらいの目線の少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。ぶんぶんと繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も後を追いかける。振り返って彼を見る。逆光で表情は伺えない。ふ、と少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。それは・たしかに・しあわせだ。














「レーネ」




微睡むような揺蕩うような混濁から、有無を言わさず私を引き上げたのは聞き慣れた彼の声だ。何もわからず、何も感じないようなその意識の麻痺、己の名前すら知覚しないなか、彼の声でやっと私は、自分がレーネであることを思い出す。
視線を投げると、焦点のうまく合わないうすぼんやりとした視界に、見知った男が映った。視覚よりもはっきりと私に訴えかけてくるのは薔薇の香りで、鼻腔を満たすそれに私の意識は奪われる。ひどく懐かしい香りだ。

横たわっているらしい私の頭上で彼が身じろぎをした気配に、ゆっくりと視線を上へ。未だぼやけた視界ではっきりとは見えないが、彼は私を見下ろしているようだった。
ほどなくして彼の手が伸びて来て、私の背に回る。温かい手だった。その手は背を支え、横たわる私の体を起こした。
移り変わる視界は天井から壁、そして自分のいるこの場所へ。見れば私はやわらかなベッドで横になっていたらしい。上半身を起こした格好で、自分のいる状況を把握しようと部屋を見回す。白い天井に白い壁、天蓋付きの白いベッドには同じく白いレースが掛けられている。視線を向こうにやれば、仰々しい木のドア。手の届かなさそうな位置にある窓。そして、目の前にいる名前のわからない男。



私は確かに、彼の呼んだ通り、レーネだ。ここはどこなのだろう。私はどうしてここにいるのだろう。


そしてどうしても名前の思い出せないこの男は、一体誰なのだろう。


「レーネ、」


意識を呼び戻すように、男はまた私の名を呼ぶ。再び彼へ視線をやると、判然としない視界で彼の翠の双眼だけがやけにはっきりと映った。


「……あ、」


何かを言おうと振るわせた喉は、しかしうまく機能しない。私の唇の小さな震えに反応した彼が、何だ、と呟いて、少し身をかがめてこちらに体を寄せる。


「あなたは、……だれ、?」


やっとのことで絞り出した声は掠れていた。男は苦笑のような憫笑のような、それでいて傷付いたのを取り繕うような、形容しがたい微笑みを浮かべる。その表情の意味を考える暇もなく、開かれる彼の唇に私の目は惹きつけられた。



「俺は、アーサーだ」




私は彼をじっと見る。ああそうだ、彼はアーサーだ。どうして彼のことを忘れていたのだろう。
でも、アーサーって、誰だろう。知っているはずなのにわからない。まだ寝惚けているのだろうか。色々なことを、あまり思い出せないのだ。



「アー、サー。あなたは、一体、」



一言発するたびに、なんだかひどく息苦しい。鳩尾のあたりの重苦しさに、肩を震わせて私はゆっくり息を吸う。そんな私に手を伸ばした彼は、優しく私の頭を撫でた。


「俺は、お前を愛しているただの男だ」


「愛して、いる?」



彼の言葉を反芻すれば、アーサーは頷く。頭がずきりと痛んだ。彼は、私を愛している?



「そんなことより、飲め」



もう少し何か話したいと開いた口は、しかし彼の言葉に制される。飲め、という言葉とともに差し出されたのは、飲み口の薄い華奢なティーカップ。私は促されるままに緩慢な動作でそれを受け取った。
両手で包むようにカップを持てば、手のひらがじんわり温かい。そこで私は自分の手が冷たいことに気づく。華奢なそのカップの中に揺らめくのは、毒々しく赤い液体だった。半透明でありながら濃い赤をしたその奥、ティーカップの底に描かれた薔薇の花が揺らめいている。それは私にとって見慣れた赤色だ。ぼんやりと、アーサーを見返す。


「アーサー」


「いいからはやく飲め」



彼にはもう話すつもりは無いのだろうか。諦めた私はその液体に目を落とす。赤い水面に、虚ろな目をした私が映っている。ゆっくりとカップを持ち上げ、無味無臭の生ぬるい真っ赤なそれを、飲み干した。



「いい子だ」


躊躇いもなくそのいやに赤い液体を飲み干せば、空になったカップを私の手から取り上げながら、彼はそう言ってまた私を撫でた。その手の感触は優しいのに、私は違和感で満たされる。

────どうして?


「どうして、アーサー、」



呟く私に彼はただ視線を寄越しただけだった。そこからは何の意図も、意思も、読み取れない。どうして私はここにいるのだろう。いったいいつから眠っていたのだろう。どうしてアーサーがここにいるのだろう。どうして忘れてしまうのだろう。あの赤い液体は一体、何なのだろう。


ぐるぐると考える私には構わずに、彼が背を向ける。


……どうして?



けれど私の思考はそこで途切れる。








私は誰かと手を繋いでいる。見上げれば、あの男がやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。男の体の向こうから、自分と同じくらいの目線の少年が顔を出す。しっかりとむすばれた少年の左手、彼の右手。少年は笑う。走り出そうとする。引かれて男が前のめりになる。私も笑う。ぶんぶ んと繋いだ手を振る。少年が手をほどいて駆け出す。私も後を追いかける。振り返って彼を見る。逆光で表情は伺えない。少年に視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。


“どうして”




私の意識は、沈んでゆく。











(211001)
(091203)



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