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レーネが俺を見上げる。しっかりとむすばれた俺の左手、彼女の右手。右側を見るとまだ子供のアルフレッドが、繋いだ手をぶらぶらさせている。しっかりとむすばれた俺の右手、アルフレッドの左手。アルフレッドは楽しそうに笑って走り出そうとする。急に腕を引かれて俺は前のめりになる。この馬鹿、そう言って顔を顰める俺を見たレーネが笑う。なんて幸せなんだろう。叶うならば今のこの瞬間を、永遠に縫い留めてしまいたい。不意にアルフレッドが、俺の手をほどいて駆け出す。レーネも慌ててそれを追いかける。待てよ、どこ行くんだ。レーネは振り返って俺を見て、眩しそうに目を細めた。なぁ、待てよ、行くなよ。行くな。俺を置いて、行くな――――――











びくりと体を揺らして目を覚ます。不明瞭な視界で暗い室内を捉えると、一瞬これが夢か現実かわからなくなる。しかし右手にも左手にもさっきまであったはずの温もりがない。現実だ。長く息を吐く。椅子に座っているうちに眠ってしまっていたらしい。右手で額を押さえて、椅子に深く腰かけ直す。


部屋の中は薄暗くなっていた。天窓を仰ぎ見る。夕暮れ時だろうか。視線を下に戻し、眼前のベッドで眠るレーネへ。まるで人形のように閉じられた目は長い睫毛に縁取られ、ほんの少しだけ開いた唇は動く気配もなく、彼女がどこまでも深い眠りに落ちていることを示すようだった。俺は飽きることなく彼女のこの寝顔を見つめている。



……なにもかも元通りだった。割られた窓は直したし、割れたティーカップも新しいものを買った。この部屋に付けていた監視カメラの映像は、何者かによって差し替えられていた。だから一体誰があの窓を割ってこの部屋に侵入したのか確認はできないが、そんなことをするのは十中八九アルフレッドだろう。この家に関する者の中に、内通者がいるのかもしれない。ハウスメイドから新聞配達員に至るまで、身辺調査をしてみたがそれらしい者は出てこなかった。レーネも最後まで、窓ガラスを割ったのが誰であるのか口を割らなかった。あくまで知らぬ存ぜぬの態度で通す彼女に苛立ちはしたが、別にいい。大切なのは今レーネが俺の元にいること、それもレーネ自身が選んでここにいること、それだけだった。

レーネを連れ出すためにアルフレッドが来たとして、そのまま彼女を置いて帰ったということは、レーネが行きたがらなかったのだ。彼女は自分でここにいることを選んだ。俺の側にいることを、選んだ。そう思うたび、笑みがこぼれそうになる。

相変わらずレーネはこの部屋にいて、俺は彼女に赤い”薬”を与え続ける。彼女も何も言わずそれを飲むし、元通り、俺の名前もなにもかも忘れてしまった。



手を伸ばす。眠る彼女の頬に優しく触れる。レーネがここにいる、本当に、これだけでいい。触れられる距離にいて、どこにも行かず、彼女の世界には俺だけしかいなくて、彼女に与えられるのも奪えるのも俺だけだ。





「レーネ」




小さく名前を呼ぶ。反応はない。次に目が覚めるのは今夜、遅くのことだろう。目覚めた彼女を抱き締め、髪をとき、好きな紅茶を飲ませてやろう。そしてキスをして、今は閉じられているこの綺麗な眼が俺だけを映すのを、うっとりと眺めるのだ。




アルフレッドは言った。アーサー、君は狂ってるよ、と。娘のように育てた彼女に固執し心身の自由を奪ってまで側に置く俺は、確かに狂っているのかもしれない。だがそんなことが誰にわかる?狂っていようがいまいが、俺は、俺とレーネはこうなることを望んだ。お前にはわからないだろう、アルフレッド。お前が出て行った後、俺とレーネがどういう時間を過ごしてきたか。誰がなんと言おうとも、俺は俺の方法でレーネを愛している。それだけだ。レーネも俺の愛情を受け入れた。だからこれでいい。俺たちは、絶望的な幸福に沈むことを選んだのだ。あの、幸福な日々は戻らない。どうしたって戻れない。
だから、新しい幸福に身を投じなければ、悲しみを捨てられない。その新しい幸福が、どんなに絶望的で救いのないものでも、彼女がもう俺に笑いかけてくれなくても、俺の名前も思い出も何もかも忘れてしまっても。


それでも俺は信じている。このままどこまでもどこまでも堕ちて沈んでゆけば、泥のような眠りの中きっといつか救われる瞬間が来るはずだと。レーネが俺のことだけを見て、俺の側から絶対に離れない、現にこの希望は叶えられたじゃないか。だからきっと大丈夫だ。これが俺たちにとっての幸せだ。パンドラの箱の奥底に、最後まで希望がこびり付いて残っていたように。どこまでも落ちた先に、それはきっとある。




































底は、まだまだ見えない。



















fin?
(211001)
(091226)


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