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私は手を繋いでいる。アーサーがやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。彼の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれたアルフレッドの左手、アーサーの右手。アルフレッドは笑う。走り出そうとする。引かれてアーサーが前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。アルフレッドが手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。アルフレッドに視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。空のようなその瞳を見ていれば、曇りの日でも、雨の日でさえ、どこへだって行ける気がしていた。


















Show me the sky in your eyes…….

















それは戻らない幸福の記憶。あの時私は幸せだった。小さく弱りきって、忘れ去られ今にも消えそうな小国だった私を、幼い日のアルフレッドが見つけてくれた。アーサーが手を差し伸べてくれた。幸せだった日々。繰り返し繰り返し、そればかり夢に見る。私が、私たちが一番幸せだった頃の。私はそこから抜け出せない。抜け出したくないのかもしれない。後へも先へも動けないままで。繰り返し繰り返し、壊れた機械のようにそこだけを夢に見る。その先へ進んでしまったら、取り返しのつかない悲しみがあることを私は知っている。だから、ずっと繰り返す。





私は手を繋いでいる。アーサーがやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。彼の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれたアルフレッドの左手、アーサーの右手。アルフレッドは笑う。走り出そうとする。引かれてアーサーが前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。アルフレッドが手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。アルフレッドに視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。私は手を繋いでいる。アーサーがやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。彼の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれたアルフレッドの左手、アーサーの右手。アルフレッドは笑う。走り出そうとする。引かれてアーサーが前のめりになる。私も笑う。繋いだ手を振る。アルフレッドが手をほどいて駆け出す。私も追いかける。振り返って彼を見る。表情は伺えない。アルフレッドに視線を戻すと、きらきらと笑顔を向ける。繰り返す。私は手を繋いでいる。アーサーがやさしく微笑む。しっかりとむすばれた私の右手、彼の左手。私はずいぶん小さい。彼の体の向こうから、少年が顔を出す。しっかりとむすばれたアルフレッドの左手、アーサーの右手。アルフレッドは笑う。


そこで途切れる。何かが割れるような大きな音が響く。何かが壊される音だ。やめて、壊さないで。これ以上何も壊さないで。
















「――――レーネ」



呼ぶ声がする。擦り切れた幸福な記憶に沈む私の意識を、誰かが引き上げる。私を揺り起こすのはひどく懐かしい声だ。大好きな声。彼が私を呼んでいる。



「レーネ!」



ゆっくりと、目を開けた。いつも香るはずの薔薇が、匂わない。眩しさに瞬きをして、霞む視界が徐々に晴れるのを待った。横たわる私の真上にかかる誰かの影。もう一度目を閉じて、開く。心配そうな顔で、私を覗き込むアルフレッドと目が合った。


……アルフレッド?


「あぁ、よかった、気が付いたんだね。大丈夫かい?ガラスは飛んでない?思ったより派手に入っちゃったんだ」


一息で言ってから、彼はくしゃりと泣きそうに笑った。確かにそれはアルフレッドだった。記憶の中、最後に見た彼と変わらない。いや、それよりももっと大人びて見える。訳がわからず、ただ彼のうつくしい青い瞳を見つめた。
私はゆっくり上半身を起こそうとする。片肘で体を支えて起きあがろうとする私を、アルフレッドの大きな手が支えた。その助けを借りて半身を起こす。身の回りを確認すると、それはいつもの部屋のいつものベッドの上だった。見慣れた光景に、決定的に違うのはアルフレッドがいることと、天窓が割れていることだけだ。破片が床に散らばっている。さっきの大きな音は、これだったのか。見れば確かに彼の言う通り派手に割ったのだろう、ベッドの上にまで割れたガラスの破片が少し飛んできているようだった。ぼんやりと割れたガラスを見つめていると、アルフレッドは私を抱きすくめた。懐かしい匂いがした。


「会いたかったんだぞ……」


耳元で囁かれた声は少し震えていた。私を包むアルフレッドの体は温かい。その体温の心地よさに目を閉じる。
これは夢だろうか。夢の続きだろうか。それとも現実で、もしかしたらアルフレッドは、私たちのもとへ帰って来てくれたのかもしれない。彼が独立して長い時が経った。わだかまりだって融けて、また三人で一緒に暮らそうって、アルフレッドはそう言ってくれるかもしれない。だからここまで私を迎えに来てくれたのかもしれない。また昔みたいに、あの幸福な日々に、戻れる、だろうか。私の幸福、私たちの、幸福。


「あ、る……どうして…なんで、ここに……?」


久々に彼に会えた嬉しさと込み上げる期待に、おかえり、と言いそうになるのを飲み込んでやっとそれだけ、言った。アルフレッドは私を抱きしめる腕を外すと、記憶の中の優しい彼そのものの顔で笑う。


「君を、助けに来たんだ」


「……、助けに……?」


「ああ、……あの手紙は、読んでくれたかい?」



私はぼんやりと彼を見つめる。あの手紙とは、どの手紙のことだろう。思い出してみるけれど、それがいつのどの手紙を指すのかわからない。反応をかえせない私に、アルフレッドは浅く頷いた。


「随分昔に出した手紙だよ。返事が無かったから、それは拒絶の意思表示かと思ってたんだけど……手紙を預けた部下は行方不明で、何かおかしいと思ってずっと探ってたんだ」


そこで一旦言葉を切ると、アルフレッドは離した腕を再び伸ばし、私の頭を撫で、頬を包んだ。


「……あの後何度君に手紙を出しても、返ってくるのは判で押したみたいな返答ばかりで妙だった。アーサーに探りを入れてもはぐらかされるだけだし。ここに辿り着くまでに何十年も……随分長いことかかったよ。やっと君がここに閉じ込められてることがわかって、助ける機会を窺ってたんだ」


閉じ込められている。アルフレッドはそう言って辛そうな顔をした。違う、私は望んでここにいるのだ。アルフレッドのいない日々に幸福を繋ぎ止めるために、アーサーが壊れてしまわないために。あの赤い液体を含まされる毎日の中、過去を思い出してしまえば不安などなんてことはなかった。私は、私自身とアーサーの幸福を守るために望んでここにいる。私は、望んでここに閉じ込められている。


「……俺だって穏便に解決したくて、アーサーと直接話そうとした。だけど話にならなかったよ」


辛そうにそう言うアルフレッドの顔が、記憶の中、独立前夜の彼の表情と重なる。アルフレッドは、ここに帰って来るつもりなどないのだ。結局、幸せは戻らない。
それどころか彼はアーサーから私まで取り上げようとしている。わかっている、アルフレッドの行動は私を思ってのことだ。大好きなアルフレッド、彼はいつも私のことを思いやってくれた。兄のような存在だった。今だって私をこの状況から“救おうと”してくれている。でも、私にそんなことができるわけない。アーサーを、ひとりぼっちにするなんて。できるわけがないのだ。だって、私は一度アーサーを裏切った。行きたいと思ってしまったから。アルフレッドからのあの手紙を読んだ時、アルフレッドに会いたいと、彼の元に行きたいと……確かに思ってしまったから。もちろん私の心の中だけの秘密の思いだ。アーサーは知らない。けれどそれは裏切りだ。あの後私の脚は潰された。だからもう、私はアーサーを裏切れない。


「……レーネ?」


ただアルフレッドの顔をぼんやりと見つめるだけの私を不審に思ったのだろうか、彼は私の名前を呼んで、顔を覗き込む。大好きな青い目が私を、私だけを映している。どうすればいい?どうすればいいの?何をどうすれば、昔に戻れる?また三人で暮らせるの?




……アルフレッドも、ここに、閉じ込めれば、きっと。

浮かんだのは簡単な答えだった。私がアーサーの側を離れられないならば、アルフレッドに帰って来るつもりが無いのであれば、私がアルフレッドと二人でここに閉じ込められてしまえばいい。
アルフレッドからそっと目を逸らす。彼の眼は眩しすぎるのだ。逸らした先に、ガラスの破片があった。ベッドを囲む天蓋の柱に、束ねて留められたレースのカーテンの合間に引っかかっているそれは、アルフレッドが割った天窓のガラスの破片だ。私はそれに手を伸ばす。片手に収まるくらいの鋭利なガラス片だ。傷付けるに十分な鋭利さのそれは、私の手に馴染むようだった。それから視線を、アルフレッドに戻す。彼は警戒など全くしていないような顔で、それでも怪訝そうにこちらを見ていた。


「……レーネ?危ないよ、何して―――!」


彼が最後まで言う前に、止められる前に、私は手にしたガラス片を、至近距離にいたアルフレッドに向かって振りかざす。ほんの瞬きにも満たない時間、アルフレッドは目を見開いて、しかし彼の動きの方が速かった。アルフレッドの手が、破片を持った私の片手を掴む。掴まれた手はそのまま、宙で止まった。


「っ……何…するんだい……」


アルフレッドが目を見開いたまま、私を見返す。その顔には動揺が見てとれた。ショックを隠しきれないような表情だ。それでも掴んだ私の手から、すかさずガラス片を取り上げる。抵抗はしない私は、ただそれを見つめた。


「レーネ、どうして」


アルフレッドが皆まで言わぬうちに、私の瞳に予期せず涙が溢れ出す。流れたそれは頬から顎へと伝って、落ちた。まだ色濃く動揺の滲む瞳で、アルフレッドは口をつぐみ、黙って私を見つめた。
そんな目で見ないで。それは言葉にならない。そんな、悲しい目で見ないで、アルフレッド。私の大切な、私たちの大切なアルフレッド。私はただ、望んだだけだ。



「……昔に……戻りたい……」




震えた唇から漏れ出たのは消え入りそうな声だった。私の呟きに、アルフレッドはたちまち苦しそうに表情を歪める。また流れ出た涙が頬をすべり、落ちる瞬間、私の体はアルフレッドにきつく抱き締められていた。あたたかい彼の体も、なつかしい香りも、ここにあるというのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。


「……逃げよう。ここにいたら、君は駄目になる。君のことは俺が守る。だから逃げよう、レーネ……」



抱き締められているせいで表情は見えないアルフレッドが、囁くようにそう言った。その言葉が私の耳から、心を揺らす。アルフレッドと、ここから逃げる。それは未来の可能性だった。彼に手を引かれここを出て、彼の元で暮らすのだ。でもそうしたら、アーサーはどうなるのだろう。私がいなくなってしまったら。きっと今度こそ、壊れてしまう。アーサーをひとりにするなんて、私にはどうやったって出来ない。もう二度と彼を裏切るなんて、できない。それに彼への愛情だってあった。歪んでいても、正しくはなくても、アルフレッドのいない生活のなかで培ってきたアーサーとの関係は、嘘じゃない。アーサーは彼なりにいつも私を愛してくれた。私だって、娘のようにではなく恋人として、彼に向き合ってきたつもりだ。だからもう彼を、裏切れない。私は望んでここを選ぶ。ゆっくりと首を横に振った。

抱き締める腕の力が緩んで、アルフレッドはゆっくり私から離れる。今度は彼の目を見て、もう一度首を横に振った。それは明確な意思表示だった。彼は泣きそうな顔をして、私の手を取る。


「君とアーサーが恋人同士なのは知ってるよ。でも、君たちは離れた方がいい。お願いだよ、俺と来てくれ。そうじゃないと……!」


それでも私は頷かない。流れる涙はまだ止まずに、頬を伝う。一粒、また落ちて、それは私の手を包むアルフレッドの手の甲を濡らした。涙で霞む目で、私は一心に彼を見つめる。アルフレッドを見るのはこれが最後かもしれない。そんなことを頭のどこかで思う。それは私の胸を締め付けた。

大好きなアルフレッド。私たちの大切な、アルフレッド。お願いだからそんな顔をしないで。私には、アーサーとの幸福を守る義務がある。



「私は行けないの。どこにも、行かない」



小さな声で、けれどはっきりと告げた。絶望に染まる彼の瞳を見ていられなくて、私は目を閉じる。もう、小さくなる彼の背中を見るのは耐えられなかった。だから何も見ないようにして、彼の気配がそこから消えるのを待った。ひどく長い時間、そうしていたように思う。


どれくらい時間が経ったかわからない、やがて彼の気配は消えた。アルフレッドは消えてしまった。大好きよ、アルフレッド。私が呟いた言葉は彼に届いたのだろうか。今はもう知るよしもない。あなたの手を取れなかった私を、どうか許して。
















(211001)
(091226)


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