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 2110年1月15日、佐々山の遺体が発見された。プラスティネーション加工されていたことから標本事件の捜査中に犯人に殺害されたとされ、彼の死は『殉死』で片付けられた。

 ナマエは佐々山が死んだという実感がわかなかった。何よりあっけなかったからだ。先日まであんなにピンピンしていた友人が無残な姿で発見されるとは思っても見なかった。遺品整理も狡噛と共に行ったが、本当は廃棄区画で生きていて、ひょっこり出てくるんじゃないかとばかり願っていた。

 しかし、日にちが経っていくうちに鬱陶しい紫煙の香りやウイスキーの匂いが靄の中にふらっと姿を消していくのを感じた。忘れてはいけない。そう胸に刻んだが、もう彼が過去の人物になったようで、死んでしまったことを認めてしまうような気がして、なるべく彼のことを考えたくはなかった。

 某日、遺品がなくなった佐々山の部屋に行き、ソファーに座る。黄ばんだファンや脂のついた壁を見つめる。こうしてぼうっとしていると、今にも彼が扉から疲れたなどうだうだぬかしながら入ってくるような気がして、ナマエは期待してしばらく待つが、来るはずがない。

 やっぱり死んじゃったんだと漠然と感じたとき、胸にぽっかりと穴が開いた。思い出が染み出てきて、傷口に塩を塗るかのように痛みがどんどん増していく。急に虚しくなってきて、涙が込上げてくるのを感じた。

 佐々山が亡くなってから、ナマエは今まで一度も泣かなかった。遺品整理をしているときに堪えたものはあったが、狡噛と共に淡々と、なるべく追憶しないよう一つひとつこなしていた。

 向かい側に座ってウイスキーをちびちびと飲む姿、紫煙を吹き付けてくる鬱陶しさ、髪の毛をくしゃくしゃにしたりとちょっかいを出してきたこと。もう二度とされることのない、楽しい、今となっては悲しい思い出だった。

 涙の雫が目の縁から毀れ、頬を濡らす。じんわりと熱い。写真を撮ってくれるんじゃなかったのか、まだいろいろと相談したいことや話したいことがあったのに。彼はもういない。

 出会った頃のことを思い出す。機械化保健局の研究者としか話したことがなかったナマエは最初の頃はとても人見知りで何を話していいかわからなく、ひたすら黙っていた。そんなナマエに佐々山は気さくに話しかけ、いろいろと面倒を見てくれた。

「お子ちゃまナマエちゃん」
「色気のねーガキにはわからねえよ」

 あのときは小馬鹿にしてくる態度や話し方にキャンキャンと犬がなくように食って掛かっていた。考えれば、佐々山がからかってきたからこそ、今のナマエが出来上がったのかもしれない。ナマエは両目にたまった涙を手で拭ったとき、ドアが開いた。慌てて、音がしたほうを見ると、そこには宜野座が居た。彼は少し気まずそうな表情をして、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「ここにいたのか……、仕事も終わったし、ついでだから迎えに来た」
「うん……」


 ナマエは鼻を啜り、頬を濡らしていた涙は指で拭う。宜野座は彼女がこんなにも悲しんでいるのに直面したのは初めてで、慰めるべきだと考えたが、泣いている人を慰める話術など彼が持っているはずがなく、どうしたらいいか口を開閉していた。


「……俺も今までいろいろと喪失を感じてきた。色相が濁る前にきちんとストレスケアをしたほうがいい。もしもカウンセリングが必要だったら、評判の良い先生を紹介する」
「ありがとう」


 ふと佐々山が言った言葉を思い出す。
「眠たくて、甘えたいときに人間ってのは人肌が恋しくなるもんだよ」
 悲しいときだって人肌が恋しくなる。現にあのとき、佐々山だって寂しがっていた。急に人の温かみが欲しくなって、とにかく誰かに縋りたい。ナマエは立ち上がって、宜野座の胸に額をくっつけた。突然の行動に驚いた宜野座は身を固くして、慌てた様子で言った。


「いっいきなりなんだ!!」
「少しだけ、こうしてたい」


 ぬくもりが心を癒していく。守られているような安寧をもっと感じたいと両腕を宜野座の背中に回す。先ほど収まったと思った涙がまたじわじわと込上げてきた。

 一方宜野座はどうしていいかわからず、手を中途半端に挙げ、視線は宙を描く。そういえばダイムも人肌が寂しくなったりするとこういう風にして擦り寄ってくるな、とふと考え、ナマエの頭を撫でてやるとナマエはぐっと力を強めたので、ぎこちない手つきだが続けた。

 彼女の髪の香りや感触が余計に強くなり、慰めることに集中しなければいけないのに、違うことに意識がいってしまい、体が熱くなるのを感じた。

 いままで女性に抱きつかれたことがない彼にとっては刺激が強かった。柔らかいと、彼は率直に思った。もしも素肌同士で抱き合ったら、滑らかな肌の感触や胸の肉厚に頭が逆上せてしまいそうだ。現に服越しでさえ、彼は胸が高鳴り、もっと強く抱きしめるべきか突き放すべきか感情が板ばさみになっていた。まだ理性があるせいか、一旦離せと声を出そうとしたが、胸のシャツにナマエの涙が染み始めていたため、そのまま落ち着くまで彼女の好きにさせておいた。


***

 佐々山の殉死は予想以上に一係、特に狡噛に影響を与えた。

 彼は佐々山が最後に発した「マキシマ」という言葉に妄執し、唯一の手がかりであるピンボケ写真を元に独断で捜査していた。己の色相を濁らせ、犯罪係数が上昇していてもお構いなしにどんどん深淵を覗く。ナマエは狡噛が潜在犯落ちすることを避けたかったが、同時に佐々山の死に関わっているマキシマという人物を突き止めたいとも考えていた。

 狡噛に一人で抱えさせるより、二人で抱えたほうが彼の負担も少ない。ナマエは勤務が終わったあと、狡噛と時間が重なれば、共にマキシマについて探っていた。あるとき、ナマエはピンボケ写真を呆然と見つめていた。何度も見たことある写真だが、見るたびに感想が違っていた。

 初めて見たときは見事にボケているぐらいしか思っていなかったが、段々と写真の人物が脳裏にこびりつき、忘れている記憶を鎖で繋いでいく。ナマエは思い出そうとした。彼女がはじめてみたもの、人、公安局に来てから出会った人、佐々山が死ぬ前に行った廃棄区画。パイプから滴れる廃水の音。仄暗い道を通った先に見えた錆がびっしりついている店。本、そして白髪の青年。ナマエははっとして言った。



「この人、どこかで見たことがあるかもしれない」
「本当か!?どこでこいつのことを見た!」


 ふと零した言葉に狡噛は予想以上に喰いついた。ナマエは慌てて言った。

「ごめん、期待させるほどいい情報じゃない!」
「ほんの些細なものでもいい、教えてくれ!」
「確かあれは標本事件のことについて調べてるときで……扇島の廃棄区画で見たような気がする…うーん…靄がかかってるみたい…」

 
 青年の顔を思い出そうとしても、顔の上に白い靄がかかり雰囲気しか思い浮かばない。けれどその雰囲気はこの写真の「マキシマ」と非常に似ている。浮世離れした、一人だけ世間から孤立しているかのような真っ白な存在。暗くて汚い廃棄区画では非常に浮いていた。狡噛はコートを羽織り、歩きながらナマエに声をかける。


「兎に角、扇島へ行くぞ」
「今から?ギノに伝えなくていいの?」
「あいつに心配はかけさせたくないからな」



 狡噛が運転する車に乗って、扇島の廃棄区画を目指す。古ぼけた店を目指したが、以前のようにたどり着けなかった。縦横無尽に入り乱れている廃棄区画の道を正確に覚えることができるとしたら、写真のように物事を記憶できる天才のみだろう。

 迷いに迷いながら記憶を頼りに店を目指す。日は段々と暮れ、廃棄区画は徐々に賑わい、至るところから電灯の光が二人が通る薄暗い通路に漏れてきていた。散々走り回り、やっとのことたどり着いたのはいいが、肝心の店はものの抜け殻だった。ナマエは慌てて店へと近づき、半開きのシャッターから中を覗き込む。もちろん真っ暗で何も見えなかったため、デバイスに付いているライト機能を使って照らすと、本棚はあるが、中身の本はどこにもなく、埃が幾らか積もっていた。ナマエは狼狽しながらシャッターをくぐり、店の中へと入る。人どころか物音一つなかった。狡噛も続いて入り、同じくデバイスを弄って照らす。


「あれ?そんな……確か本が沢山あったはずなのに」
「ずらかった後かもしれないな。中継器を持ってきて、ドローンに調べさせるか」
「それがいいかもしれない」


 ナマエは青年と対話した本棚の前へと行く。天井に届くほど積み重ねられていた本はどこにもない。あの青年一人であれだけの本を移動させた?もしかして以前立ち寄ったあの店は幻だった?狐につままれたような感覚だった。狡噛がデバイスを弄って、ドローンを一台要請しようとしたとき、彼の元に突如連絡が入る。その相手は宜野座だった。狡噛は溜息をつき、くたびれた表情をしてコールに答えた。

 
「なんだギノ」
「狡噛!また槙島について調べていたのか!早く戻って来い!そこにナマエもいるだろ!」
「ちょうどいいところなんだ。片付けたいことが終わったら戻るから心配するな」
「今すぐ戻って来い。さもないとどうなるかわかってるだろうな」


 宜野座の声色は今までにないほど真剣で、且つ怒りが篭もっていた。こりゃ今すぐ帰らなきゃやばいな、と察した狡噛は渋々了承し、通話を切った。そしてナマエに向かって言う。


「お前、GPSついてるだろ?」
「へっ?あっ確かに…」



 ナマエのデバイスには執行官と同様GPSが搭載されていた。これにより監視官にはナマエがどこにいるか一目瞭然だった。狡噛はおそらく宜野座はナマエが廃棄区画にいることを知り、俺と共にいると確信したのだろうと考えた。彼は苦笑いを浮かべて言った。


「こりゃ帰ったら説教だな」
「説教……かあ……」



 二人は公安局に帰ると、宜野座が大部屋で待ち構えていた。
 そこからは彼等の予想通りお説教の時間だった。宜野座は米神に青筋を立てて、腕を組んで睨みつける。主にその視線は狡噛に向いていた。
 一方狡噛といえば、特に反省する気がないのか、だるそうにその場に立っていた。ナマエは恐る恐る隣に立ち、狡噛を見つめていた。段々と彼の雰囲気が佐々山に似てきているような気がした。狡噛は煙草をポケットから取り出し、吸い始める。佐々山のためにと最近吸い始めたのだ。狡噛と佐々山の姿がますます重なり、ナマエは少し顔を歪める。
 真摯で生真面目だった狡噛が徐々に佐々山のようになっていくことは、潜在犯へと近づいているという証拠だ。宜野座の嫌悪感はますます鰻上り。とうとう彼は耐え切れず啖呵を切った。


「存在するか否かすら不明な人物を追って何の意味がある!それよりも早急にセラピーを受けろ。じゃないと潜在犯になるぞ!」
「悠長にセラピーなんて受けてる暇はない。俺のことは放っておいてくれ。色相管理ぐらい言われなくても出来る」
「狡噛!槙島なんていない、お前は幽霊を追いかけてるんだ!そんな無意味なものに傾斜してどうするんだ!」


 狡噛はしばらく無言で宜野座を見つめると、含んでいた紫煙を吐き出して言った。


「白昼夢を追う者は危険な人間である。何故なら彼らは、目を開けたまま自分の夢を演じ、これを実現することがあるから」
「なんだそれは」
「アンドレ・マルローの言葉だ」


 そういうと、煙草を灰皿に押さえつけ、踵を返した。当然、宜野座の怒りはいまだ収まっておらず、背中に向かって「狡噛!」と怒鳴ったが、ふと振り返った狡噛の殺意、憎しみの篭もった瞳に思わず息を呑んだ。


「槙島は必ずいる……絶対に」


 狡噛はそう吐き捨てると大部屋を後にした。宜野座はまだ何か言いたげな様子だったが、ぐっと言葉を堪えていた。一方ナマエはどちらの味方をすればいいかわからず、おろおろとしていた。先ほどの廃棄区画のこともあり、記憶が確かなうちに狡噛の手伝いをしたほうがいいのかと宜野座に声をかけようとしたが、先に宜野座が言葉を紡ぐ。


「ナマエ、お前はこっちにこい」
「あの……さっき調べたことをちょっと」
「いいからこっちにこい。お前が出来ることなら狡噛にも出来て当然だろ」
「確かにそうだけど……」
「お前も狡噛の味方をするのか」



 氷柱のように冷たく鋭い言葉がナマエの心に突き刺さる。
 それに追い討ちをかけるように宜野座は軽蔑の瞳で彼女を見下す。
 ナマエは蛇に睨まれた蛙のようにどきまぎし、冷や汗がじわりと滲んだ。慌てて視線をはずす。お前は誰の味方なんだ?と問いかけられているようだった。勿論誰の味方でもなかった。狡噛の捜査に協力したいけれど、宜野座の言うこともわかる。二人が上手くいくように中立な立場でいるつもりだったが、今の宜野座がそんな答えを求めていないのは明白だった。俺か、狡噛か。彼の軽蔑の視線には僅かに自分の味方になって欲しいという懇願も含まれていた。ナマエは苦笑しながら答える。


「誰の味方でもないけど……今日はもう疲れたから家に帰ろうかな……ダイムにも会いたいし……」
「そうか」


 宜野座は幾らかほっとした。眼鏡のブリッジを上げながら言葉を続けた。


「ならちょうどいい、一緒に帰るぞ」
「うん……!」







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