10

 二係での勤務が終わったあと、ナマエは佐々山に部屋に来いと呼ばれた。部屋に呼ばれることは多々あることだったが、先ほどの佐々山の表情はどこか影を含み、暗かった。ナマエは若干訝しげに感じながらも、いつもと変わらず接し、佐々山の部屋へと訪れた。佐々山は既にウイスキーのボトルを開けており、グラス片手にソファに寝転がり、ぼんやりと天井のシーリングファンを眺めていた。ドアノブの音に顔を挙げ、「よぉ」とナマエに声をかけた。佐々山はソファから起き上がり、キッチンへと向かう。

「まあ、座れって。何か飲みたいものはあるか?」
「ジュース」
「残念だな。酒しかねえ」
「じゃあ水!」


 ナマエは向かい側のソファに座る。佐々山はしぶしぶ冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、テーブルに置く。先ほど寝転がっていたソファに座り、他愛のない話を始める佐々山だったが、空元気であり、心のどこかに沈鬱な想いを抱えているように見えた。それを誤魔化すようにロックグラスを傾ける。ナマエは目を伏せていった。

「今日は呑むペースが早いね」
「そうだな」


 佐々山は視線をはずして、ぼうっと空虚を見つめる。しばらくして煙草に吸い始め、ソファに寝転ぶ。ナマエは水を少しずつ飲んで、同じくぼんやりとしていた。気まずくない沈黙が部屋を包む。ふとしたとき、佐々山はナマエを手招きした。


「ちょっとこっちこい」


 ナマエは言われるがままに佐々山の傍へと行く。佐々山は起き上がり、ナマエに隣に座るよう指示した。座ったナマエの膝の上に佐々山は頭をのけて、またぼんやりとシーリングファンを眺め始めた。ナマエは佐々山の顔を覗き込んでいった。


「眠いの?甘えたいの?」
「眠たくて、甘えたいときに人間ってのは人肌が恋しくなるもんだよ」
「どうしたの?」


 今まで一緒にいて、ここまで弱った彼を見たことがなかったナマエは思わず尋ねてしまった。佐々山は生返事を返し、気だるそうにスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出した。その写真には少女が写っており、幸せをはにかむような笑顔を浮かべて映っていた。ナマエは思わず顔が綻ぶ。


「可愛いね!目元が佐々山に似てる」
「俺の妹だ」
「へぇー」
「先日死んだんだ」


 ナマエの体はかちりと固まった。一方佐々山は相変わらずぼんやりとしているが、瞳は悲壮な色を帯びていた。


「死んじゃったの……?」
「自殺らしい。寂しいって遺書に書いてあったらしいんだ」
「そんな……」
「大切なものは手元には置かない主義なんだ。最初から手に入らないよりも手に入れたものが失われるほうが悲しいだろ、妹も失いたくないから距離を置いていた。こうして執行官として生活するのも気に入っていた。けれどそれに満足していたのは俺だけで、ずっと妹のことを一人にしていた。結果、これだ。俺は……」


 佐々山は前腕で目元を覆った。いつも飄々としている佐々山がこんなにも弱っているところを初めて見たナマエは黙って頭を撫でる。「佐々山がこんなになるなんて、明日は雪かな?」なんて軽口は決して叩けぬほどの重い沈黙だった。しばらくして、佐々山がぽつりと言った。

「この写真を捨ててくれ」
「……わたしには出来ないよ。涙はストレス成分が含まれてるから泣いていいんだよ」
「バーカ、大の男がそんな泣くわけないだろ」


 前腕に覆われていない口元は笑みを浮かべていたが、隠れた目元はおそらく涙の粒がじんわりと縁に滲んでいただろう。



 聞き込みを開始して、廃棄区画の住民に被害者である少女の写真を見せてまわるが、身元特定など元々雲を掴むような話である。全く手ごたえがないことに疲れ始めていたナマエは溜息をついて空を仰いだ。ネオンライトに照らされた汚らしいビルと屋台の出す油と煙の匂いがナマエの頭上を覆い、空を濁らす。


 ふと仄暗い裏路地へと続く細い道をぼんやりと見つめる。小指ほどに小さいが、人の背中が見えた。白銀の髪に白を基調としたコートを着ている男性で、薄汚い廃棄区画よりも高級住宅が似合うような人物だった。まるで彼の周囲だけ空間が切り取られているかのように雰囲気が異なっていたことに自然と興味が湧いたナマエはその後姿を追いかける。幸い、今は各自散らばっても良い聞き込み調査であったので、多少の移動は可能だった。

 ナマエは仄暗い裏路地を小走りで歩く。そこは非常に閑静としていた。廃棄区画にある繁華街の音も段々と消え去り、ナマエの足音と時折水の滴る音が暗闇の中で響いていた。途中でその男の背中を見失ってしまったが、ほとんど一本道であったし、二つに道が分かれていても無意識のうちにどちらにいったかがわかった。決して足跡が残っていたり、人に聞いたわけではないのにナマエは男がどこへ向かっているか、テレパシーを随時受け取っているかのようにすいすいと進んでいった。

 裏路地を抜けてやっとたどり着いた場所には土ぼこりとサビが付着した古ぼけた店があった。薄汚いシャッターが半分ほど下りており、中から白熱球の光が染み出ていた。ナマエはシャッターをくぐり、店の中に入るとそこには見渡す限り本があった。本棚が3列並んでおり、びっしりと隙間なく本で埋まっている。それでもまだ収納しきれないのか、本が至るところに無造作に積み上げられていた。どの本も古本で、紙は茶色く染まっていた。まるでここは本の墓場のようだ。数歩歩み、適当に本を引っ張り出す。なかなか力が必要だった。何とか引き出した本の背表紙を眺める。


「ジキル博士とハイド氏か」


 ふと横から声が聞こえてきた。ナマエははっとして声がしたほうを見据える。そこには先ほどの男性がいた。彼は穏やかな笑みを浮かべていた。


「ずいぶんと珍しいお客さんだ。どうしてここへ?」
「えーっと、道に迷って……」


 貴方を追ってきました、なんて言えない。ナマエは斜め上を向いて誤魔化す。男はしばらく彼女を見つめたまま微笑していた。彼の双眸はナマエの意図をすぐに見抜いていたが、特に気にするそぶりは見せなかった。


「道に迷って、ここに来れたのはある意味運がいいのかもしれない。ここはシビュラに有害と指定された本が数多く眠っているんだ。現在の本という概念が完成したのはいつ頃だと思う?」
「うーん……」
「およそ六世紀頃だと言われていて、1600年程歴史があるんだ。最近は電子書籍が台頭してきて、紙の本に触れる機会が少なくなってきている。僕はもったいないと感じるよ、1600年も廃れなかった一種の芸術作品が消え失せ始めていることに」
「確かに、なくなっちゃうのは残念です」
「君は公安局の人間かい?」
「へ?あっ…と……一応……公安局のようで…そうじゃない…ものです」
「ならここのことは秘密にしておいてくれると助かるな。もしも紙の本が気になるなら、しばらくここで本を読んでいくといい」
「はあ……ありがとうございます」


 勿論、そんな悠長に読書なんてしている暇がないのをナマエは承知していたため、ジキル博士とハイド氏の本を開き、パラパラと適当に眺める。古本の香りは不思議と心を落ち着かせた。ナマエはちらりと男を盗み見る。その男は読む本を吟味しているのか、じっと本棚を見つめていた。ナマエはこの男と初めてあった気はしなかった。今日初めてあったはずなのに、近くにいても緊張も何も感じなく、自然と体がほぐれていくのを感じた。宜野座や狡噛、佐々山を前にしたときよりも心がどこかで落ち着いているとナマエは感じた。男はふふっと微笑んだ。


「そんなに見つめられるとどういう表情をすればいいか戸惑うね」
「いやっその、どこかであったかのように感じて」
「君は既視感を僕に抱いているのかもね」


 男はナマエのほうを向く。


「フロイトがいうには、既視感いうのは既に見た夢だそうだ。彼の言葉に沿うと僕と君は一度夢の世界であっているということになる」
「そしたら会ったことがあるかもしれないです。夢の世界……もしかしたら……もっと前に」
「その物言いだと、君はまるで記憶喪失を患っているみたいだね」
「記憶喪失もなにもわたしに記憶なんてほとんどないんですけどね」
「なら君はどこからどうやって生まれたんだ?最近、出始めた試験管ベイビーなのか?」
「そういうのは全然わからなくて」
「そうか」


 男はそれ以上は喰い付かず、目を伏せた。男はポケットを漁り、角砂糖ほどの透明なキューブを取り出す。


「このメモリには無意識の海に沈んだ記憶を再び脳内で具現化させ、定着させるプログラムが入っている。もしかしたら、君の過去を知るルーツとなるかもしれない」


 今となっては珍しい白熱球の光を浴び、キューブの角は淡い黄色を帯びていた。男は「僕が持っているよりも君が持っているほうがこのメモリも喜びそうだ」と差し出した。ナマエは自然と手を伸ばし、それを受け取る。とても小さいのでうっかりしているとなくしそうだった。ナマエは別に自分の過去に興味なんてなく、知る気もあまりなかったが、せっかくくれるというのだから、素直に好意に甘えたほうがいいだろう。宜野座がこの事を知ったら「知らない人から物を貰うな!」と怒りそうだ。秘密にしておこう。帰ったら志恩にでも渡そうと頭の片隅で考え、スーツのポケットにしまったとき、通信が入った。相手は宜野座からだ。ナマエはすぐさま出る。


「こちらハウンド5」
「今日は一旦ここで区切りを付ける。指定した座標の場所に戻ってこい」


 通信が途切れ、宜野座から座標が送られてきた。ナマエはそれを確認し、男へと顔を向けた。



「いろいろとありがとうございます。本当にこれ貰っていいんですか?」
「ああ、かまわないさ。僕が持っていてもいずれは捨てる羽目になる」
「すみません…それでは、ここであったことは秘密にしておきます!」


 ナマエは意気揚々とそう述べると、踵を返し、本の貯蔵庫のような店をあとにした。男はその後ろ姿をどこか意味ありげな笑みを浮かべて見つめていた。


***

「ずいぶんと廃棄区画の奥まで行ってたんだな。何かわかったことはあったか?」
「いやー……とくに」
「そうか」


 青年との約束もあり、ナマエはあそこであったことは秘密にしていた。あの落ち着いた、心地よい空間は誰にも介入されず、ひっそりとしているべきだと短時間しかいなかったナマエでさえ、そう感じさせたのだ。宜野座とナマエの前には相変わらず見えない壁があり、彼の一言で報告は終わってしまった。


 もっと何かを話さなければ、とナマエはあれこれ脳内で会話を考えたが、早足で去っていく宜野座の背中を戸惑いながら見つめることしか出来なかった。露骨な態度に肩を落としていると、背後から佐々山が彼女の頭に手を置き、指先で髪の毛をくしゃっと掴む。


「あれからギノ先生と仲直りは出来たか?」
「仲直り……できたのかなー……出来てない」
「ギノ先生のことが好きだろ」
「好き?」
「もっとくっつきたいとか、話したいとか、自分だけ特別に想って欲しいとか、どうだ?考えたことないか?」
「考えたことある!」
「なら、好きなんだな。まあ、お前にはいろいろと教えてやらないとなー」


 佐々山は胸ポケットから煙草を取り出して、口に咥える。ゆらゆらと揺れる紫煙を見つめ、一息つくと黒い塊に囲まれた狭い空を見上げ、ぼそりと言った。


「お前は幸せになれよ」
「佐々山だって、幸せにならなくちゃ」
「執行官の俺が幸せを求めてもねー。新しく入ってくる子たちがオレ好みの女なことを賭けるぐらいしか望めねえよ。まぁ、オレ好みの女だったらきっとギノ先生も一目惚れしちゃうかもな」
「どうしよう、それは困る!」
「はは、オレの好みとギノ先生の好みがかぶると思うか?それより何だかんだお前らは相性いいと思うぞ」
「いやー、そんなー……でもたぶんあっちはわたしのこと嫌いかな……」
「脈はあると思うけどな。オレが手助けしてやれることはやってやるさ」
「うわー!佐々山ぁー!ありがとう……!あのね、最愛の人が死んじゃって、今はとても悲しいと思う。けれどいつか、いつかは佐々山にも幸せになってもらいたい。そのためにわたしも手助けする」
「期待できないな」
「ひどい!」
「今回の事件が解決したら、お前の写真、取ってやるよ。何だかんだ、お前といると気が楽だ。まあ、これからもよろしくな」


 煙草を咥えながらそう微笑んだ顔を見たのはこれが最後だった。





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