一話

 人魚が本当にいると思う?伝説や御伽噺はごまんとあるけれど、人魚を実際に見たことがある人はどれくらいといわれたら、はたして答えられるだろうか。たぶん、答えられないと思う。

 だって人魚が出てくる話のほとんどは数百年前を舞台にしていて、時代遅れも甚だしい。人間の世界に携帯やインターネットが溢れてるように海の世界だって同様に発達している。巻貝の携帯に泡のディスプレイ、尾ひれの色だって今や自由に変えられる。どういう技術で出来ているかって?生憎その専門じゃないから上手に説明できるはずがないので、海の世界に招待されたときに頭のいいイルカ博士辺りに聞くといい答えが返ってくる。海の世界には学校も会社もきちんとあるよ。さすがに海水温の違いで出張とか修学旅行は出来ないけれど。


 そんなのが海にあるなんて知らなかったっていうコメントを待ってた。勿論、人間たちが住む近くに学校とか家とかはない。もっと奥深く、人の目が着かないところにひっそりとある。海と陸の割合は7:3。知らないことがあるのも当然。

 今の話で海の世界に興味が湧いたでしょ?行ってみたいとか思ったでしょ?わたしも同じ。人間の世界に興味津々。わたしのお母さんが5、60年前に留学していたらしいけど「いいところだった」って言ってるからもっと言ってみたくなった。だからわたしは陸に留学することにしました!



「なに馬鹿なことをおっしゃりますか!」
「亀じしい煩い!!わたしは行くと決めたら絶対行くんだから!言っとくけど、ちゃんと陸に上がったら足で歩ける練習もひっそりしてたし、正体がバレる心配も絶対ない!なんでって?だってわたしは株式会社海神の社長令嬢、海様だからね!……なにかあれば会社の力で何とかなるっしょ」
「ああ、どうしてこんなに……最近の若い人魚は尾ひれを桃色や金色に染めて、烏賊墨で目の周りを真っ黒にして挙句の果てに海のギャングと共に夜な夜な深海をドライブ……先祖が泣きますぞ……わしゃぁ今号泣ですわい……」
「だってー流行なんだもん。亀って甲羅だけじゃなくて頭も固いのね。とにかくわたしは行くから。もう用意できてるし。北の海のお姉様方が陸に出かけたときに手に入れた服とかお金とかわけてもらったんだからね」



 クラゲが編んだ半透明の美しい布を纏い、わたしは長く細い髭の生えた年寄りの亀、通称亀じじいにビシっと指を差して言い切った。一応、執事。亀じじいは頭を抱えて最終的に「わしゃぁ知りません」といって甲羅の中に閉じこもってしまった。比較的光が届いて人間がこないところに広がる住宅地にわたしたち一家は住んでいる。ここはけっこうお金持ちが集まっていて、厳選した白い石灰岩造りの四角い家は富と繁栄の証拠だ。普通はどんな家に?うーん。流木なんかで作った団地にでも住んでるんじゃないかな?陸に留学ということは父さんも母さんも許してくれた。一応ホームステイという形になる。母さんが以前お世話になっていた家にこの前(といってもかなり前)またお世話になりたいといったら「遠慮なく来なさい」と快く了承してくれたので、そこにホームステイすることになった。どんな家かはまったくわからない。


 地図の書いた石版を渡され、夕方に浜辺から陸へ上がる。歩くのは練習したから少しは慣れている。お姉様方から貰った服やお金の入ったリュックを背負い、石版を両手で持っていざ出陣。かなり濡れてるけれど、何とかしてくれるでしょ。

 こっちにいるときはどうやら学校にもいけるらしい。これは亀じじいの手配。なんだ、亀じじい人間に化けれたんだ。人間の世界は学校に通うのに書類など何だのいろいろと必要らしく、面倒くさい極まりないけれど、わたしの会社は大きいし、きっと何とかなったでしょ!


 橙色の光と紺色の影のバランス、水色と茜色がぼやーんと混ざった空。海の世界にはない景色に心を躍らせながら石版を手に進む。かなり地図がアバウトなので、行き止まりに着いたり、猫と呼ばれる毛皮がふわふわな生き物を触ろうとして威嚇されたりしているうちに空は真っ暗。こっちの暗さと深海の暗さはあまり変わらない。深海のほうが暗いんじゃないかって?いやいや、実はあっちも灯りがあるんですよ。アルバイトのチョウチンアンコさんたちが照らしてくれるんだけど、ときどきサボってるせいか、真っ暗な道もある。


 やっとのことで着いた家。木造の家。これからは石じゃなくて木に囲まれる生活をすると思うと、やはり陸の文化と海の文化は違うなと実感した。チャイムを鳴らす。音が不思議。あまりこっちに響いてこない。どんな相手かどきどきしながら待っていると、戸が開いた。そこには少年が一人。今のわたしの年齢や背格好は高校生なので、たぶん同じ年。何よりその少年は水に濡れていて、水着を着ていた。わたしははぁーと感心した。


「服は着ないの?普通服を着ているはずだって教わったけれど、もしかして貴方もわたしたちと同じような人だったりするの?」
「誰?」
「ああ、申し訳ないです。自己紹介が遅れたね!わたしは海、今日からお世話になるって亀じじいが言ってるはずなんだけど」
「……はあ?」


 小年は怪訝な目でこちらを見てくる。明らかに不機嫌。確か隣家のペットのウツボさんもいつもこんな顔してたなーなんて頭の片隅に思う。しかしそんなことを思い出している暇はない。わたしは持っている石版を突きつける。


「ここが貴方の家でしょ?以前、お世話になるっていったらいいよって言ってくれたはずなんだけど。あと、たぶんこの石版の住所で合ってるよね?」
「……人違いだ」

 
 少年はそのまま戸を閉めようとした。わたしは足を刷り込ませる。これは人間世界でよくあることらしい。しかし勢いよく閉められたせいか、足が痛い。



「人違いじゃない!絶対ここ!なんで?いきなり話が違うんだけど!これって何とかなるの!?」
「煩いな。俺はお前なんか知らないし、そんな話聞いたこともない。頭大丈夫か?」
「人間って、こんなに冷酷な生き物なの!?少しぐらい寛容になりなさいよ!!」


 わたしは石版をほっぽって戸に両手をかけて全力でこじ開ける。少年は必死に戸を閉めようとしている。海の世界なら戸をベキベキにするほどの力が出たかもしれないけれど、ここは陸の世界。人間に敵うはずがなく、結局戸を閉められてしまった。


 太陽が完全に沈んだ暗闇の中、木の扉を目の前に一人佇むわたし。こんなはずじゃないと、ポケットから巻貝の携帯を取り出して、お母さんに電話しようとする。けれどなぜか通じない。巻貝はうんともすんとも言わない。わたしは急いで戸を叩いた。


「すみません!お願いですから、電話貸してくれませんか!?今すぐちょっと電話したいんです!お願いします!貴方は優しい人だと信じてる!お願いします!お願い!開けてよ!開けろって!」
「うるさい」


 激しいノックと共に大声で叫んでいたら、超絶に不機嫌そうな少年が戸から顔を出してきた。わたしは笑顔になって巻貝を片手に言った。


「すみません、今、携帯の調子がちょっとおかしくて……普段は使えるんだけどね」
「……」


 少年は巻貝とわたしの顔を交互に見て、無言のまま戸を閉めた。わたしは唖然とする。再び戸をけたたましく叩く。


「ちょっと!!今の目は何!?頭がおかしい人だと思ってるかもしれないけれど、そんなことないからね!至って普通だって!今日ちょっと初めてここにきたからいろいろとテンパってて、だから少しの失敗とかぐらい、おちゃめだなってかんじで大目に見てよ!」


 そう叫んでも、沈黙が返ってくる。しょうがないから、戸を背もたれにして座り込む。どうしてって?行く場所がないから。今更海に帰ることは出来ない。なんでって?かなり面倒くさいから。ここまでくるのにいろいろと海流に乗ったり、深海の危ない町でナンパされたりと危険な目にあっている。

 それならここにいるほうがマシだ。いつまで持つかはわからないけど。まさか留学一日目からしてこんなことが起こるなんて思わなかった。でもどこかで何とかなる気がする。

 それからしばらくして、戸が開く気配がした。生憎、わたしが背もたれにしてるせいで開くことはなかったけれど。それでも無理やり開けてきて、僅かな隙間から声が聞こえてくる。


「まだいたのか。もう家に帰れ」
「家はここから遠いからそんな簡単に帰れない」
「親にでも迎えに来てもらえ」
「もうお腹が減って動けない……」


 足が生えたからって人間のように素早く動けるわけじゃない。人間が歩いて数十分なら、わたしは途中休憩を挟みながら歩いたとしてその二、三倍はかかる。しかもお腹が減った。気合を入れたせいで昨日もあまり眠れなかった。わたしは最後の気力を振り絞って、戸に向かって土下座をした。土下座という行為は自分をかなり謙った行為だと聞いたことがある。



「お願いします……!一日だけでもいいので……!ちょっと泊めてください!よくあるじゃない!田舎に泊めてくださいとかいうのが、こっちにもあるのでしょう!そのような感じで、どうか……どうか!!このままだとここで夜を明かすことになっちゃう!」
「………」

 
 少年は無言で戸からこっちの様子を窺ってくるような気がする。わたしは地面に額をつける。こんなに地面を近くに感じることは経験したことない。しばらくの静寂のあと、少年が戸を開けた。



「泊めないけど……電話は貸してやる」
「本当に?!やったー!ありがとう!」


 何とかなった!わたしはうきうきしながら、家の中に入る。靴を脱ぐことはきちんと忘れない。学習済みだ。少年、名前を聞いたら七瀬遙というらしい。七瀬という苗字は以前お母さんから教えてもらったのと同じだ。きっとこの家だと確信した。七瀬遙、通称ハルと呼ぶことにしよう。こっちのようが呼びやすい。

 ハルに案内されながら廊下を歩いていると、ふと水の気配がする。美女の誘惑のようにハルについていくのを忘れて、水がありそうなほうへと駆けてしまう。人間が長時間、水の中に浸かっていることが危険なように、海の生物だって陸に上がるのは危険だ。足を生やして人間みたくなっても、皮膚が乾いて長いこと水を浴びてないと罅割れが生じてしまう。何よりわたしは早くも”水”が恋しくなり、見事に釣られてしまった。曇りガラスの戸を開けるとそこには大きな水桶があった。わたしは目を輝かせて勢いよく底に飛び込む。そして勢いよく叫ぶ。


「あっつ!!!なにこれ!!南国の海?!それより熱い!!!海底火山でも近くにあるの!?」
「おい……!って……、お前……」
「うん?え?あっ」



 最初は服のまま飛び込んだことに驚いたのかと思ったけれど違った。慣れない環境からきた疲れとストレス、加えて気が抜けたせいか、わたしの足はヒレに戻っていた。鱗が水滴で輝き、ピチピチとヒレを動かしながら、固まるわたしとハル。今のわたしのヒレの色はハルの瞳と同じ青。せめて気合いれて金色にでもすればよかったのかな、と一瞬後悔したけど、衝撃すぎてわたしの頭もどうかしているらしい。これまでにないほどの重たく、凍りつく空気。海、陸に留学して一日目で人間にバレてしまいました。






   
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