九話

 大会前日、ハルはなかなか寝付けず、外を走っていた。頭の中に浮かぶのは大会のこと、凛のこと、真琴や渚、怜のこと、そして海のことだった。あれからずっと海はハルの前には現れなかった。最初はいつもの日常が戻ったと思っていたが、その感覚もすぐに終わる。鯖を調理しているときに後ろから覗き込んでくる鬱陶しさ、人が風呂に入っていてもお構いなしに扉をあけてくる図々しさ、学校の課題がわからないと嘆きながらも次の日にはケロっとしている神経の図太さ、何かあるたびに「ハル」と名前を呼び、無邪気な笑顔を浮かべる海の声。全てが懐かしく感じて、一人でいることが寂しいとまで思うようになった。

 一番仲のいい真琴に相談しようとしても、出来るはずがない。彼女は人魚なのだから。それは海とハルの秘密だった。水に触れていると、あの日、夜の海に潜ったことを思い出す。彼女はキラキラと輝いていて、目が合うと夜空を映した瞳の中に取り込まれそうになったのをよく覚えている。誰かに対して、こんな気持ちを抱いたのは初めてだ。ハルはそれを忘れるかのように無心で走った。


 四人で泳いだリレー。凛との長年の蟠りも解け、健やかな日常が帰ってくる。はずだったのに、海と出会ったしまったせいで、ハルの日常は未だに灰色だった。色が足りない。海の色だ。いつの間にか自分の中で大きくなっていた彼女の存在。海の色が欲しくて、海に行けば満足するかと思えば、海さえも灰色のままだった。何も魅力を感じない。凛や真琴たちには親元に一旦帰っていると言っておいた。"一旦"と。もしかしたら、このまま彼女は一生海にいて、ハルの色が足りない生活はだらだらと続くかもしれない。

 ハルは時折彼女に貰った巻貝の貝殻を手にとって眺める。最初出会ったとき、彼女はこれを携帯だといっていた。始めはただの頭のおかしい奴にしか見えなかったが、真実を知ってからはこの巻貝が携帯に見えるようになってきた。ハルはそっとそれを耳に当てて、彼女の声が聞こえないか試してみるが、聞こえるのは波の音だけ。留守電に繋がらないコールがずっと続いているようだ。当たり前か、と諦めるが、残る希望はこの貝殻だけだった。


 部活の練習が終わり、スーパーで鯖を買って、家へと帰る。家には自分ひとりしかいない。鯖を調理して、ご飯を食べて風呂に入る。ひょっこり帰ってくるんじゃないかと期待するが、静まり返る家の中。この気持ちを言葉で綴るとしたら、短い言葉で表現できるが、それをしたくないのがハルの本音。もやもやとした心の中でひたすらもがく。今日は満月の日だった。ハルは久々に貝殻を手にとって満月を見ながら、波の音を聞いていた。まだ一ヶ月しか経っていないのに、もう一年たったような気がした。今日も何もなし、と貝殻を耳から離そうとしたとき、ふと波以外の音が聞こえた。とてもか細く、聞き取りにくいが、確かに言葉だった。海の声だった。ハルの心の一部に、海の色が戻る。ハルは慌てて言った。


「おい、海か!いまどこにいる」



 海は何か話しているが、波の音にかき消されて何を言っているかよくわからない。微かにわかる単語は、海。その言葉だった。ハルは急いで家をでて海へと駆ける。もしかしたら、海がいるかもしれない。途中で息が切れて、胸が苦しくなったが、それでも駆け続けた。はやく行かなければ、海がいなくなってしまうようで、怖かった。浜辺につき、海を見つめる。穏やかな波とその上に浮かぶ満月だけが静かに佇んでいた。海はどこだ、と辺りを見回す。すると、浅瀬で脛ぐらいまで海に浸かる人影が見えた。急いで近づく。見慣れた格好だった。ずっと求めていた姿だった。その人影は手に巻貝を持っており、ハルに向かって微笑みかけた。


「ほらー、いったでしょ、これ携帯だって。ちょっと陸だと通話が難しいけど、きちんとわたしの声、聞こえたよね!」


 ハルはしっかりと彼女の姿を目に焼き付ける。ずっと恋焦がれていた。ゆっくりと彼女のほうへと近づき、目の前に立つ。海は彼がずっと待っていた、無邪気な笑みを浮かべた。


「ただいま、ハル!ちょっと遅くなっちゃったって……えぇ?!どうしたの!?」


 ハルは海の声を聞くと同時に彼女の背中に手を回した。どうしてだか、海の笑みを見ると、抱きしめたくなってしまった。これは人魚の魔力のせいではない。人間誰しもがもつ、恋の魔法による作用だ。ハルもやはり人間だった。無言で抱きしめてくるハルに最初は焦った海だったが、すぐに背中に手を回して、それを受け止めた。


「ただいま、ハル」



******



「お父さんにはすごく怒られたよ。こんな記事をかかれてって!でもそれってかなりオーバーな記事だったんだよねー、人魚姫伝説再びかって。人魚姫伝説再来って可笑しいよね!……まあ、一ヶ月間の謹慎も解けて、母さんの説得もあり戻ってこれたわけなんだけどね」
「人魚姫伝説って、すごい記事だね……どこの週刊誌?」
「それは秘密だよ、渚」
「えー、教えてよー!」
「というか、週刊誌に書かれるほど、すごい有名人だったの?!」


 今日は鮫柄学園との合同練習の日だった。岩鳶高校は鮫柄学園で一緒に練習して、その帰り。今日も夕日が綺麗だった。学校内のベンチに座りながら、わたしは渚と江ちゃんと話していた。ちなみにわたしも一緒に泳ぎ、百年に一人の逸材と鮫柄学園のコーチを唸らせた。だって、わたし人魚だから、泳ぐのが速くて得意なのは当たり前だ。他愛のない話をしていると、ぞろぞろとハルたちがやってくる。真琴、怜、凛も一緒だ。これから一緒に帰って、ご飯を食べるのだ。帰り道、自然とわたしはハルの隣になる。わたしたち以外の集団は少し前を歩いていて、橙色の光をたんまりと浴びている。ハルはぽつりと言葉を零した。


「そういえば、前いってたな」
「何が?なんか言ったっけ?」
「魔法のこと」
「ああ、海と陸だと魔法の力が違うってこと?あったねー」
「陸で使うとどうなるんだ?」
「いろいろとあるからなー、例えばキスのことだと、陸でしちゃうと、罰としてしばらく海に戻れなくなるんだよねー、金槌になっちゃって本当に泳げなくなっちゃうらしいよ」
「そうか」


 ハルはそういって、しばらく黙る。そして「海」と名前を呼ばれたので、ハルのほうを見ると、肩に手を置かれ、ハルの顔がゆっくりと近づいてくる。拒否する時間もなく、わたしとハルの唇は重なる。拒否する時間はあったかもしれない。でもわたしがそれを拒んだ。一瞬時が止まったかのように感じた。唇が離れ、ハルの瞳を見つめる。海の色だ。青い、澄んだ青空よりも綺麗な、海の色。わたしはこの色が大好きだった。ハル、と名前を呼ぼうとした瞬間、凛の怒声が響いてきた。


「おい、ハル!!てめえ!!」


 凛が近づいてきて、ハルのことを掴む。真琴たちのほうを見てみると、やれやれと苦笑いをしていたり、目を輝かせていたりと、どうやら見ていたらしい。恥ずかしい。わたしは顔がどんどん熱くなるのを感じた。夕日のせいだと思いたいが、それだけでこんなに赤くなるはずがない。


「おい、海も何顔赤くしてんだよ!」
「えへへ」
「お兄ちゃん、どんまい」


 わたしはハルのことを見る。ハルも少し恥ずかしいのか、一瞬目を合わせ、すぐに避けた。ハルのそういう仕草を見ると、心が溶けてしまうかと思うぐらい嬉しかった。わたしはだらしない笑みを浮かべる頬を両手で押さえた。



 陸の人魚姫の話だと、人魚姫は最後、悲しい結末で終わったらしいが、海の人魚姫の話は全然違う。海の人魚姫の話は、人間の男に恋した人魚姫がその人間の男と陸へ駆け落ちする話だ。だから週刊誌は人魚姫伝説再来か!と書いたに違いない。今後、わたしはその人魚姫になるかって?それはわからない。ハルは水の中が好きだから、わたしは海に引き込んじゃうかもしれない。そしたら、そのときは紅梅色のタイにでも、祝ってもらおうかな。








   
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