黄昏のふたり

 母の顔もしっかり覚えられぬまま、金のために妓楼に売られて早10年が経った。叱咤と体罰で仕事を覚え、涙を流しながら泥の中で生きてきたわたしは様々な芸を身につけている宮廷にいる妓女とは雲泥の差だ。売春を主に目的としたこの血と精液に塗れた妓楼はまさに屑の巣窟。そんな塵溜めみたいな場所に似合わぬ少女がやってきた。年はわたしよりも二つ三つ下。名を貂蝉といい、男が見たら一瞬にして目が奪われる可憐さとこんな場所にいても淡い光を纏っているかのような清らかさが何とも言えない魅力だった。冷血な女である仮母でさえ、その美しさには心を奪われ、宮妓のように芸を覚えさせようと嬉々とした表情で言っていた。勿論、男の汗と精液で汚されてきた先輩たちは貂蝉のことが気に入らず、隠れて彼女を苛めていた。骨まで凍りそうな冬の朝、冷水をかけたり、坂道でちょっと背中を押してこけさせてみたりと様々なことをしていたが、貂蝉は決してやり返したりはせず、頑なに我慢していた。わたしはというと、地獄の見世物としてその様子を見ていた。助けはしない。他人に優しく出来るほど温かい環境ではない。自分よりも他の女が客を取っていれば、格下に扱われ、飯の取り分も減る。いかに相手を蹴落として、自分の地位を確立することがこの毒壺での生き方だった。

 しかし気まぐれで一回、貂蝉のことを気にかけたことはある。転ばされて、仮母から貰った桃色の薄い布を土埃で汚し、地面に両膝をつける彼女にわたしは手を差し伸べた。ずっとやられっぱなしのところを見ていたため歯がゆい想いがわたしの胸の中にあったのに加え、美しい少女を自分の手で助けるという偽善心が疼いたのも確かだ。手を差し伸べたときの貂蝉の表情というと、今までにない目の輝きをしていて、満天の星空のようにキラキラと輝いていて、まるでわたしを救世主のように崇めていたので、気恥ずかしさと高揚感が体の底からぐんと突き上げてきた。

 それから貂蝉はわたしのことを姉のように慕ってきた。もともと妓女同士は姉妹のような関係であるよう仮母から言われていたが、こんなにも死んでほしいとお互い思っている姉妹は他にいないだろう。貂蝉はわたしだけに懐き、わたしだけに花も恥じらうような微笑を見せてくれた。当然、女の心さえ奪ってしまう美しさなので、わたしは段々と惹かれていき、満更でもない心情だった。ある夜、客への態度が悪いということで仮母にこっぴどく叱られたわたしは外に放り出され、木下で寝ていた。とても暑苦しい夜だったので、涼しいのは有難いが煩わしい蚊とごつごつとした根が背中にあたる寝心地の悪さはまさに罰にふさわしかった。一人外に放りだされたわたしを心配したのか、皆が寝静まったあと、貂蝉がこっそりと寝台から抜け出してきた。わたしは薄目を開けて、貂蝉のことを見る。

「勝手に外に出てると仮母に怒られるよ」
「いいのです。私も今夜はここで眠りたいと思っています」
「なら好きにしな」

 わたしは片腕を枕にして、貂蝉に背を向けた。しばらく無言の間が訪れる。疲れもあり、うつらうつらと舟をこぎ始めた頃、隣で同じように寝転がっていた貂蝉がふと口を開いた。

「いつか、ここを抜け出せる日が来るのでしょうか」
「抜け出したいの?家族に会いたいの?」
「家族の顔はもう覚えていませんが、いつまでもこの妓楼にいるのは嫌だと昔から思っています」
「確かに、貂蝉にここは似合わない」

 わたしは貂蝉と同じように仰向けになり、空を見上げる。

「わたしも昔からずっと逃げたいと思ってた。でも念入りな計画と準備が整ってなかったから、夢の話で終わってた。ここを出たら、何をしようかすら考えてないし。貂蝉は考えてるの?」
「私も……考えてはいません。けれど、ここを出ることが未来への道だとは確信しています。道具として見られ、使われる世界より、外の世界のほうがましでしょう」
「なら近いうちにでも抜け出そうか」

 貂蝉は驚いたのか、愛らしい目を丸くして、こちらを見つめてきた。

「どういうことでしょうか」
「計画は着々と練ってあった。あとは手助けをしてくれる人を探しててね、客の一人が協力してくれることになったんだ。そして貂蝉。同じ妓楼に信頼できる、仮母に気に入られている仲間が出来たから、これで準備万端。一緒にここを抜け出そう」

 わたしは貂蝉に小指を差出した。彼女は目を潤ませ、「はい」と頷くとわたしの小指に自分の指を絡ませ、美しい夜空の下、わたしたちは契を交わした。

 計画はこうだ。協力してくれる客は他の奴ら、主に商人の男たちを引き連れて妓楼に遊びに来る。そして帰りにその集団の荷物に紛れ込み、門を抜け出す。何かあっても仮母には貂蝉が取り繕ってくれるため、大丈夫だろう。当日、貂蝉とわたしは見事に妓楼を抜け出せた。あまりにあっさりと抜け出せたため、門を過ぎたあとでもいまだに妓楼が追いかけてきているかのように感じたが、がたがたと揺れる馬車と遠くなっていく建物を見ると、確かに抜け出せたようだ。わたしと貂蝉は二人で大喜びし、隣町にいったら何をしようかとばかり話し合っていた。

 しかし、そんなに世の中がうまくいくはずがない。商人の一人が貂蝉の美しさに心を奪われ、裏切ったのだ。貂蝉が一人連れて行かれそうになり、わたしは必死に応戦した。わたしの馴染みの客はわたしのことをかばったせいで、商人が持っていた青龍刀に胸を切られ、絶命してしまった。他のやつらは蜘蛛の子を散らすように逃げたり、貂蝉をわが物と争ったりと罵詈雑言が夜の森の響き渡る。わたしは真っ赤に染まった男の死体にしがみつき、涙を流した。この男は唯一わたしを愛し、優しくしてくれた人だ。勿論わたしもこの男のことが好きになり、相思相愛になった。隣町に行ったあとも、この男についていくつもりだった。けれど、貂蝉を連れてきたせいで、男は死んでしまった。愛憎が複雑に入り組んだわたしの心は滅茶苦茶に混乱し、泣き叫びながら辺りを見回す。貂蝉は商人の手を振りほどくため精一杯暴れていたが、非力であるせいか徐々に引っ張られていた。必死にこちらへと手を伸ばす貂蝉を見て、わたしの体の中で何かがはじけた。近くに落ちていた刀を片手につかみ、商人へと斬りかかる。刀は腕の肉を切り裂き、痛みに顔を歪めた商人は手の力を緩めた。その瞬間、脱兎のように貂蝉が飛び出し、涙に濡れた顔でわたしに抱き着いてきた。わたしは急いで貂蝉を引きはがし、手を握るとその場を逃げ出す。目を血走らせ、息を切らしながら、森の中を走るわたしと貂蝉。刀が重く、疲れにより手の力が段々と抜けていく。いっそのことどこかに放ってやろうかとしたが後ろから商人たちが追いかけてくることを思うと、捨てるに捨てられなかった。わたしと貂蝉は後ろを決して振り向かず、ひたすら前を向いて走り続けた。


 そして帰ってきた場所はあの妓楼だった。


 わたしと貂蝉は仮母に脱走したことがバレてしまい、こっぴどく叱られた。わたしは棒打ちと鞭打ちの計を喰らい、背中が血塗れになり、皮が全部剥がれてしまった。貂蝉はというと、美しい少女の価値を削ぐことはしたくなかったのか、耳が痛くなるような罵倒と監禁の計を受けていた。結局、地獄の監獄である妓楼は外の世界から守ってくれる素敵な結界でもあった。仮母のいうことを聞いて、客と寝て、幾年幾年も変化のないくだらない毎日を生きていくことがわたしたち妓女の安定した人生だ。ずっと箱庭にて、ここで死んでいくのが、神が決めてくれた最上の生き方なのだ。

 それから数年、貂蝉はこの妓楼で有名な妓女となった。仮母の教育のおかげで芸や詩に秀ており、美の女仙に愛されているかのか、彼女は男たちの羨望の的となる。一方わたしは貂蝉とは真逆の立場におり、いつ首を斬られるかわからないような下賤な立場だった。雲の上の住民のような貂蝉と油虫のような汚らしいわたし。それでも二人の仲は続いていた。時折、貂蝉はあのときのことを思い出して、

「私が一緒にいたせいで、逃げることに失敗し、貴方の想い人を殺してしまった。私は貴方に恨まれ、苛まれても構いません。私のせいで、貴方の人生を壊してしまいました」

と訴えかけてきた。涙の粒がまるで宝石のように輝き、さめざめと泣く様子さえ、絵になってしまう。勿論わたしは貂蝉のことを多少恨んでいたが、苛む気はなかった。この妓楼から貂蝉という唯一の味方がいなくなってしまえば、わたしは一人ぼっちだ。

 糞みたいな妓楼で惰性に生き続けてきたわたしであったが、ついに仮母の機嫌を最悪に損ねてしまったせいか、首を刎ねられることが決まってしまった。鬼のような形相で壁にかかっていた刀を手にとり、わたしへと振りかざしてくる仮母にわたしはどうすることも出来ず、死を呆然と待つだけだった。やっと解放される。この妓楼から抜け出すことは死ぬことしか方法がない。瞼の裏に男の顔と貂蝉のことが浮かぶ。誰からも愛される彼女なら、きっとこの世界を上手に生きられるだろう。終わりを直観したそのとき、仮母が急に血を吐いて倒れた。背中は大きく縦に斬られており、仮母の背後から刀を持ち、顔を青くした貂蝉が現れた。どうやら貂蝉が仮母を切り殺したらしい。貂蝉は刀を地面に落とし、両手で口元に当てた。薄い桃色の袖には返り血がこびりつき、天女のように美しい彼女には不似合いな模様だった。貂蝉はわなわなと震えながら言った。

「お姉様、私は…!」

 貂蝉が仮母を殺した。この罪はさすがに貂蝉でも許されるはずがない。おそらくわたしは拷問の末殺され、貂蝉は首を刎ねられ見世物にされるだろう。荒い足音が聞こえてくる。わたしは咄嗟に貂蝉が落とした刀を手に取り、氷柱のように立ちすくむ彼女の手を取り、勢いよく走りだした。妓女、客、料理に楽器。全てを蹴散らしながら妓楼を抜け出す。門で見張っている男たちが最大の問題であったが、これも背後から強襲して斬り殺した。今までは躊躇していたことがあっさりと出来てしまった。人を殺すということはこんなにも簡単なことだとは知らなった。きっとその心情は貂蝉も同じだろう。切り殺した男の死に顔はいつまでもわたしの脳裏にこびりつき、肉の感触に手が震えそうになったが、それでも貂蝉の手を握り、走り続けた。この感覚はどんなに夜を過ぎたとしても拭えないだろう。

 妓楼が遠くなり、真夜中に森を走り続け、朝日が見えたころ丘陵へとたどり着いた。ここからは平地が一望できて、このときやっとわたしたちは我に返った。お互い袖が血塗れになり、顔は汗まみれ、足は疲労でパンパンに浮腫み、肺と心臓は使いすぎたせいか、今にもぴたっと止まりそうだった。

 二人で丘陵から平地を見下ろす。今まで生きてきた人生、ずっとここに閉じ込められていた。やっと脱出できたのだ。朝日が照っているのに、雨が降ってきた。日光を浴びて煌めく雨粒は仙女が大切にしている雫の宝石のように思えた。まるで昔みた貂蝉の涙みたいだ。ふと貂蝉の顔を見てみると、彼女は眉をハの字にして泣いていた。雨と涙が白い頬に溶け合い、濡れた髪が額や米神に張り付いているのが何とも艶めかしい。彼女の表情を見ていると、不思議と涙がこみ上げてきた。一気に不安が襲い掛かってきて、感情が牙をむくままわたしは心情を吐露した。

「もう死んでしまいたいと思っている。だって好きだったあの男は死んで、ここからどう生きていこうかまったくわからない。あんなに抜け出したいと思っていた場所でも、わたしたちを守っていてくれていたんだ。死にたい。死んでしまいたい。けれど、それ以上に生きていたい。生きて、やれなかったことをやって、生きていたい」

 すると貂蝉はますますさめざめと泣き、声を震わせた。

「ちゃんと前を向いているのですね」

 ここから見えるあの妓楼がわたしたちにとっての家でした。あの家から放りだされたのなら、死んだのも同然。外の世界との関わりを絶ってきたわたしたちにとって外の世界とは死の世界なのです。いつまでもあの箱庭の中で生きることがこの世を生きる術でした。なのにわたしは自らその権利を放棄してしまい、自由になってしまった。わたしは自由が怖いのです。一人でこの世を生きていく自信がありません。未来が不安でたまらないのです。

 貂蝉がそう言っているかのように感じたわたしは彼女の手を力強く握りしめた。貂蝉の不安をわたしも抱いていた。人間の汚いところをずっと見てきたからこそ、強く生きていける自信がない。けれど妓楼に戻るつもりはない。もう、わたしたちは箱庭に依存せず、歩かなければいけないのだ。

「わたしと貂蝉は姉妹だ。この先、何があろうともこの絆は消えない。お互い愛し合える男が見つかったとしても、真に理解しあえるのはわたしたちだけだ。未来なんてどうなるかわからない。自由が怖いのもわかる。一人で生きていくことは不可能でも、二人で生きていけばい。二人で、この世界を生きていこう」

 そういって、わたしは手を引き、歩き出した。

 後に貂蝉が王允の養女になり、連環の計を実行したときもわたしは隣にいた。共に生きるのならば、共に死ぬのも当たり前なのだから。





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