エリカの愛情

※パラレル注意 

 閃光が瞬きと共に目に突き刺さってくる。一般の成人男性よりも遙かに背の高い男は記者たちからたくさんのフラッシュライトを浴びた。きっと明日の新聞の見出しには「怪物男、令嬢を殺す」と書かれるだろう。怪物男と巷から呼ばれている彼の名前は紫原敦である。彼は彼が殺した令嬢、なまえの屋敷の使用人であり、長年勤めていた。苗字家は爵位が与えられた華族であったが、ここ最近は段々と落ち目を迎えていると噂されていた。令嬢、なまえは蝶よ花よと育てられた箱入り娘であり、実直で謙虚であったため性格が仇となり、紫原に殺されたとは考えられなかった。紫原は何故なまえを殺したのだろうか。彼女の死因は溺死とされている。殺害現場は屋敷の近くの山中にある滝であり、なまえは滝に突き落とされ、殺された。その滝は轟音が地響きのように鳴り響く大きな滝であり、落下した場合よほどの奇跡が起こらない限り助からなかった。誰もが紫原の殺害動機について考えた。とある記者が令嬢は2年前に許婚と結婚していたという情報を世の中に流した瞬間、皆が揃って失恋による私怨から殺害したと予想した。若い男女が長年一緒に居たら、恋仲ぐらいにはなるだろう。しかしなまえは許婚と結婚し、捨てられた紫原は彼女を想い、妬むあまり殺してしまったと。一方薄汚れた服で無表情に写真を取られ続けている紫原は一言も喋らなかった。ただ無言でフラッシュライトを鋭く睨みつけ、見下しているだけだった。背の高い彼がそのような態度を取っているとより一層柄が悪く見えた。紫原は人々から恐れられたり、好奇心の塊である記者たちに写真を取られていても無関心を貫き通した。彼の頭の中には、あの日、別れ際に言ったなまえの言葉がずっと反響していた。



 時は10年前、紫原は同じ年の少年達よりも背が飛びぬけて大きく、おまけに性格は子供っぽく煽りに弱いせいか、自分の身長をからかってきた奴らを片っ端からぶちのめしていた。そのため周囲の人から扱いが難しいとされ、厄介事を抱え込みたくないと誰もが積極的に関わろうとしなかった。もうそろそろ雇われ、働き始めてもいい年頃であったが、彼は怠けた生活を送り、穀潰し当然の生活を送っていた。誰よりも力はあったし、背は高かった。けれど彼はどうして自分のことを差別的な目線で見てくるやつらのために働かなければいけないんだと決して働こうとはしなかった。しかし、そんな彼にも働き先が見つかる。苗字家の屋敷である。苗字家の当主は海外渡航の経験があり、彼ぐらいの背の持ち主なら海外にはたくさんいたと、彼の背の高さを気にも留めていなかった。紫原は美味しいものを食べて、毎日だらだらと過ごしたかったけれど、両親の猛烈な後押しや苗字家の屋敷は当時にしては珍しい海外の趣向を取り入れたものであり、そこの家ででてくる食べ物に興味を示していた。僅かであるが、自分を受け入れてくれたことにも恩を感じており、彼はそこで働くことにした。

 その屋敷で令嬢であるなまえと出会う。彼女は盲目であり、杖や人の手を借りないと移動に困難だった。紫原はなまえが散歩をしたりする際、手を貸す係りをすることになった。なまえは紫原の手に引かれながら、庭を散歩したり、町に出かけたりした。彼女は日光の強さや空気の匂い一つひとつに小さく喜んでいた。紫原はそんな彼女を見て、しょうもないことに喜ぶなと思った。日光の強さや空気の匂いを感じることよりも食べ物の匂いを嗅いでいるほうが絶対に得だと彼は考え、ある日、彼は町で団子を買ってその一本をなまえに与えた。彼女は団子の串を持って訝しげな表情をしていたので、紫原は彼女の口元に一つの団子を持っていき、食べさせた。すると彼女はとても嬉しそうな表情をしながら団子を咀嚼した。飲み込むと、静かに微笑んで言った。


「貴方といると以前と違っていろいろな場所にいけて、毎日がとても楽しい」


 なまえの父親は当主であるため、仕事に忙しく、母親は彼女の幼い頃に病に倒れ、数年前に死去していた。彼女は紫原と出会う前に一人で出かけたことがあったが、段差に躓いて転び、怪我をしてからはもう一度そのことを繰り返すことが恐ろしく、家に閉じこもっていた。紫原と出会ったおかげで、なまえはもう一度外に出ることができた。一方、紫原はなまえの純粋さに心を打たれた。今まで彼に関わってきた人たちは彼のことを怪物のように扱った。唯一まともに人間として扱ってくれたのは苗字家の当主であるなまえの父親と、なまえだけだった。しかし、なまえは目が見えない。もし目が見えていたら、怪物のように背が高い自分を見てきっとおぞましい表情をするだろう。紫原はそう考えると、彼女の目が見えないことに安堵すると同時にどこか切ない気持ちになった。彼は心のどこかでなまえにも受け入れてほしいと思っていた。そのため、彼は賭けに出ることにした。ある日の昼下がり、二人が散歩していたときだった。先を歩いていた紫原がなまえに振り向いていった。


「手、伸ばして。オレの頭を触ってみてよ」


 繋いでいた手を離し、紫原はなまえの正面に立った。彼女は手を左右に動かして、彼の腹や二の腕を触った。肩を触ろうとたが、届かなかったため背伸びをしたら届いた。しかし頭には一向に手が届かなかった。紫原は言った。


「コレでわかったでしょ?オレ、怪物みたいに背が高いんだよ」
「ほんと、貴方は背が高い」


 なまえは手を伸ばすのをやめて、手探りで紫原の手を探した。彼の手を見つけ、繋ぐと微笑んで言った。


「でも、背が大きいことは前から知ってたの。だってこの手、私の手がすっぽり収まるほど大きいでしょ?貴方は背も手も大きくて、私にとっては誰よりも頼りがいのある人なの」


 紫原はこの言葉を聞いた瞬間、心の底から暖かい何かが溢れ出し、それは体全体を駆け巡った。これほど嬉しいと思った経験はなかった。これからもなまえの手を引いて、彼女を導いていこうと心から思った。


 それから5年の月日が経った。いい年頃に成長した紫原となまえは段々とお互いを意識し始めていた。紫原は時々働くのが嫌になって、サボりたくなる日も多々あったが、一生彼女の世話を見続け、隣で生きていくのだろうと頭のどこかで思っていた。なまえはお嬢様であって、本来彼にとったら高嶺の花の存在であった。しかし一緒にいる時間は当主であるなまえの父親や他の使用人たちよりも自分が一番長かった。誰よりも彼女を知っているし、彼女も誰よりも自分のことを知っていると自負していた。そしてこの世の誰よりも彼女のことが好きだった。傍から見れば相思相愛の男女と見えたが、真実はそうとは限らなかった。


 なまえに許婚ができて、最近その許婚が屋敷へと遊びに来ていた。黒髪に泣き黒子、おまけに容姿端麗ときたら煽情されない女性などいない。幸い、なまえは目が見えないので、相手の容姿など全く関係なかったが、その許婚は容姿性格共にスマートであった。慣れた様子でなまえの手を引き、二人は庭を散歩していた。その姿を紫原は遠目から見つめ、嫉妬していた。あの許婚の容姿が不細工だったら、思いっきり馬鹿にできるのと彼は悔しい気持ちでいっぱいだった。いくら粗探しをしようとしても完璧である許婚を相手には無意味なことだった。紫原はなまえと許婚が親密な様子に耐え切れず、自分がいなければ何もできないくせにと心の中で悪態をつき、何か仕返しをしてやろうと決心した。仕返しは単純なものだった。紫原となまえが散歩する道に片方は森、片方は町へと繋がる道がある。二つに分かれる道の真ん中には大きな石が置いてあり、正午頃、紫原はなまえをそこに座らせた。彼女は不思議そうな顔をする。


「どうしたの?」
「ちょっとここで待ってて。すぐ戻るからー」

 すぐに戻るといったが、それは嘘であり、彼はそのまま屋敷へと戻ってしまったのだ。これは自分がいなければ一人ではどこにもいけないことをもう一度思い知らせようと彼が考えた仕返しであり、屋敷に戻ると、庭に置いてある洋風の長椅子に寝転んで昼寝をした。眠りに落ちるまで、彼はわくわくしていた。今回の仕返しでなまえは紫原の存在の大きさを再確認し、彼がいなければ自分は何もできないと考え直すだろうと。彼が目を覚ましたとき、ぽつりポツリと生ぬるい雨が頬に降り注いでいた。しかもかなりの大粒だった。彼は急いで屋敷へと戻った。外は薄暗く、さすがに屋敷にいる使用人の誰ががなまえの帰りが遅いことを心配して探しにいっているだろうと思った。しかし、なまえの姿は屋敷中探しても、どこにもいなかった。それどころか使用人は誰もなまえを迎えにいってはいなかった。外は豪雨、地を這うような雷音が遠くから響いてきていた。紫原は顔色を真っ青にして、屋敷を飛び出した。土の泥濘に足を取られながらも全力疾走で駆け抜けた。紫原はなまえを見つけた。彼女はずっと岩の上に腰掛けていた。雨に打たれ、寒いのか両腕で体を抱きしめ、背中を丸めていた。紫原は居ても立っても居られなくなりなまえに駆け寄り、彼女を包み込むように抱きしめた。彼女は震える唇で言った。



「やっときたね……」
「ごめん、ごめんなまえちん。本当にごめん。オレ、なまえちんに嫉妬してたんだ。許婚の野朗と仲が良くて。オレが居なくちゃ何もできないじゃんって仕返ししたかったんだ」
「寂しかったんだね……」
「ねえ、あんな奴と結婚しないでよ。別に好きでもないんでしょ?オレならずっとなまえちんの手を引くよ。だから結婚なんてしないでよ」
「私も敦のことが好きよ。だけど、彼との結婚は絶対であって、これは感情の話の問題じゃないの。家と家の仲をより強く結びつけるために必要なこと。だから、私は彼と結婚することが使命であって、義務であるのよ。こんな目の見えない私を貰ってくれる寛大な一族だから、私は絶対に逆らってはいけないの。だからごめんなさい、私は敦とは永遠にはいれない」


 彼女はいつか誰かと結婚してしまう。令嬢で有るなまえと自分が結ばれることなんてないことを紫原はひどく思い知った。嫌だと駄々をこねてもいつか彼女はどこかへ行ってしまう。ならせめてなまえが許婚の家へ嫁ぐまで、彼女と一緒にいたいと願った。冷たい大粒の雨が彼等に降り注ぎ、涙は紛れて消えていった。



 その後なまえが許婚の家へと嫁いでいった。許婚の家はこの屋敷よりも遙かに遠いところにあり、安易に帰郷できるものではなかった。紫原は許婚となまえが一緒にいる姿を見たくないがため依然と屋敷で働いていたが態度は以前と一変していた。見るからにやる気がなく、毎日のほとんどが森へいって川の近くでぐうたらと過ごしていた。町にいったとしても甘いものを食べて、再びごろごろするだけであり、悪口を言ってくる少年達を相手に喧嘩していた。自暴自棄の生活といっても過言ではなかった。

 それから二年の月日が経った。久しぶりになまえが屋敷に帰ってくると連絡が入り、紫原はまるで別人になったかのように喜んだ。なまえが帰郷してくる日を彼は首を長くして待ち望んでいた。彼女が帰ってきたらどこへ連れて行こうか、何を話そうか、彼はいろいろと考え、一人でにやにやしていた。
そしてなまえが屋敷へと帰ってきた。紫原は彼女に会えたことに胸を躍らせていたが、なまえの顔色はどこか優れなかった。屋敷に居て、紫原が散歩へいこうと誘っても彼女は乗り気ではなく、天気がいい日も屋敷にひたすら引きこもり、憂いに満ちた表情を浮かべているだけだった。父親と話しているときでも表情はぎこちなかった。さらに許婚の家の話になると、露骨に顔色を曇らせたが、言葉はその反対で毎日楽しく過ごしていると言った。様子がおかしいと思った紫原はなまえの部屋へといって、彼女に真相を聞こうとした。
しかし、彼女は頑なに口を閉ざし、暗い表情をしているだけだった。それでも無理やり口を割ろうと半ば強引に問いただしてみると、なまえはぽろぽろと涙を零し、両手で顔を隠して言った。



「あの家に帰るのが嫌だ、でもあの家に帰るしかないの……」


 彼女は子供ができないことと目が見えないことを理由に許婚の親族たちから辛辣な仕打ちを受けてきたらしい。唯一自分を助けてくれる許婚の男性は仕事で家を空けることが多く、彼女はこの二年間ほとんど一人ぼっちだった。ろくな話し相手がおらず、ひたすらの沈黙と浴びせられる罵倒に精神は擦り切れるところまで擦り切れた。移動するにしても誰も手を貸してくれず、わざと転ばされ、体はあざだらけだった。彼女はこの二年の間、ひどい人間不信に陥った。逃げ出したいと何度も思ったけれど、女に生まれ、盲目であるが故に結婚するしか親孝行することが出来なかった。しかも苗字家は最近落ち目を迎えており、許婚の家との繋がりは家の存続のために必要であった。家の面目を潰すことは絶対にできないため、どんなことがあっても彼女は耐え続けなければならなかった。そのため身体、心共にひどく疲れきってしまい、許婚の了承を得て、帰郷することができた。しかし滞在期間は僅かであり、再びなまえはあの家に戻らなければいけなかった。「もう全て終わりにしたい」見るからに病んでいる彼女を見て、紫原は気分だけでも変えさせようと何度も散歩に行こうと誘った。しかし彼女は首を縦に振ろうとはせず、ひたすら沈痛の面持ちで俯いていた。痺れを切らした紫原は強引に彼女を外へと連れ出し、屋敷の外へと彼女を連れてった。


 紫原はなまえの手を引いて、何年ぶりだろうと懐かしい思いで胸がいっぱいだった。彼は最近見つけ、気に入った場所へと案内した。それは森の中をぶらぶらと歩いているときに偶然見つけた川であった。彼女の手を引いて、川の上流へと案内する。なまえはこの川の音を気に入るだろうと紫原は考えていた。
案の定、川の上流へとつき、彼女に岩場に座らせるとなまえは少しばかり表情を明るくして、川の音を楽しんでいた。ふと紫原は言った。


「そんなに嫌だったら逃げちゃえばいーのに」
「逃げられるわけがないわ」
「家ってそんなに大切なの?なまえの姿見てると、その親戚達がむかつきすぎてヒネリつぶしたくなる」
「ヒネリつぶす………殺したいと何度も思った。けれど刃物を握ってもあの人たちがどこにいるかわからない。私は誰も殺せない。一生あの家に囚われ続ける運命なんだわ」
「逃げちゃおーよ、一緒に、二人でどこかへ行こう」


 紫原は明瞭な声で言った。彼にとってはずっと隣にいるという夢が叶う。家とか面目とか、鬱陶しい柵から解放されて二人で新天地を目指す。なまえだって望んで結婚したわけではなかった。きっと許婚の家に嫁ぐより彼の手に自分の手を重ねて生きるほうが幸せだったに違いない。なまえもそう思ったのか、「そうね……逃げてもいいわよね」と静かに微笑んだ。紫原はその微笑を見て、彼女との駆け落ちできると確信した。なまえのその微笑が自嘲するものだとは知らずに。なまえは小さな声で言った。


「本当にいいと思う?」
「今更?こんなめんどくさいところにいる意味ないじゃん。なまえちんは考えすぎ」
「家も、お父様も、何もかも考えずにこの苦しみから解放されていいと思う?」
「当たり前じゃん」


 紫原は今日からずっと一緒だと考えると、知らずと笑みを浮かべていた。ふと彼は喉が渇いたので、水を汲もうと川へ近づいた。そのとき、なまえが彼の背中に声をかける。その声は非常に重苦しく切羽が詰まったように聞こえたが、同時に喜んでいるかのように弾んでいた。



「ねえ、私のこと憎んでっていったら憎んでくれる?」
「なんかお菓子くれたら憎んでもいいかなー」
「先に謝っておくね……本当に自己中で、卑劣な人間でごめんなさい。一つ約束してほしいことがあるの」
「約束?」


 紫原はなまえに背中を向けたまま答えた。大して重要なことだと彼は捉えていなかった。しかしなまえの表情は非常に重苦しいもんだった。しかし口元は笑みを浮かべていた。絶望のあまり笑ってしまったともいえるものだった。


「お願い、私を憎んで。絶対に許そうとしないで」
「はいはい」


 紫原は以前と背を向けたままだった。川の音が大きいせいか、なまえが腰を挙げ、ゆっくりと歩いている音が彼の耳には聞こえてなかった。彼女は彼に言った。



「憎んで、憎んで……許さないで……でもまたどこか会いましょう」
「え?」


 紫原が振り向いたとき、もう彼女はその岩場には居なかった。その瞬間、川に何かが落ちる音が聞こえた。咄嗟に音をしたほうを見てみると、彼女は入水していた。着ている洋服のせいで彼女は沈み、溺れていたが、抵抗している素振りは見せていなかった。紫原の表情は一変した。彼女の名前を叫んで、手を伸ばして助けようとしたが、川の流れが速く、彼女は川に飲み込まれていった。その先には滝壺があった。彼は悲痛な表情を浮かべ、川に飛び込んで助けようとした。しかし、それよりも先に彼女の体は滝壺へと落ちていった。滝壺へと落ちていったなまえの姿を見て、紫原の頭は真っ白になった。ショックのあまり何も言葉がでなかった。頭を抱え、その場に蹲る。あまりの衝撃に彼は夢でも見ているのかと錯覚したが、胸を抉るような悲しみと後悔の気持ちは夢で味合うにしてはとてもえぐいものだった。紫原の脳裏になまえの言葉が反芻する。「お願い、私を憎んで。絶対に許そうとしないで」彼は何度も頭の中で繰り返し、やっと意味を理解した。その瞬間、自然と顔に乾いた笑みが浮かび、悲しいのに笑い声を上げてしまった。


「ほんと、ムカつく女」


 なまえは死ぬほど、殺したいほど許婚の親族たちを憎んでいた。しかし彼女は最後まで歯向かえず、囚われたままだった。心の中でとぐろをまいて体を蝕む殺意や憎しみの矛先は自分だった。紫原と一緒に生きる幸せよりも辛い思い出を抱いて生き続ける絶望のほうが彼女の中で勝った。そのきっかけは紫原が彼女にかけた言葉だろう。その言葉があったからこそ、彼女は家のことや許婚のこと、ましてや紫原のことから逃げようと決心した。なまえは苦しみから解放されるため、生きることをやめた。しかし彼女が入水自殺したと世間に知れると苗字家と許婚の家の名誉が大変傷つくことになる。名誉を守るためなら決してしてはいけないことだった。彼女もそれは十分熟知していた。けれど入水自殺した。なぜ彼女はできたのだろうか。それは紫原がその場にいたからだ。なまえは彼が自分のことを誰よりも愛し、大切に想っていること知っていたため、彼を信じ、また裏切った。
入水だと面目が潰れてしまう。ならどうしたらいいか。答えは簡単だった、紫原が彼女を殺したということにすればいいのだ。そうすれば両家の栄誉が傷つくことを防げるのだ。極限まで追い込まれた精神が彼女を狂わせた。自己中心的な行動のせいで紫原が一生彼女を恨んだとしても構わなかった。むしろ彼女は憎んで欲しいと言った。そのほうが気が楽だった。
もしかしたら紫原が殺したといわず、自殺したと正直なことを言うかもしれない。確かに子供じみた紫原はやってもいない罪をきせられたとしたら怒り狂うに違いないだろう。しかし彼は自白しようとは思わなかった。彼が本当のことを言っても、彼女はどこにもいないし帰っても来ない。「置いていかれた」彼はそう思うたびに叫びたくなるほどの憎しみがふつふつと湧いてくる。しかし憎しみの裏に彼女を恋しく思う気持ちが隠れており、どろどろに混ざった感情の渦が涙として外に溢れだす。紫原は泣くものかと歯を食いしばったが、涙が止まらなかった。「お願い、私を憎んで。絶対に許そうとしないで」彼女の声が、どこからか響いてきた。紫原は自嘲した。どうせ彼女がいないこの世にいつまでも生きていてもしょうがない。それなら喜んでなまえの願いを叶えてやろうと。




 そして紫原はなまえを滝壺へ突き落として殺したという犯罪を被り、逮捕された。事情聴取の際、彼は嘲笑し、心の底から憎しみを募らせた声で言った。


「心の底から憎んでたよ、あの女のこと」









人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -