私の心臓が止まるまで

【髭切:回想 その一】


 僕は地面に立つ、という感覚をその時、初めて味わった。
 刀だから足なんてあるはずないのに、いつもより目線が高いし、下を向くと棒が二本地面についていた。
 主のものをいつも見ているから、それが足だとすぐに気がついた。
 交互に出せば前に進み、地面を蹴れば飛んだ。
 この神秘的な体験に僕は気持ちが弾んで、縦横無尽に走ったり跳ねたりした。
 でも段々寂しくなってきた。
 そこには僕という意識以外にあるとしたら、"白"しかなくて、その白は徐々に身体の至るところへしがみついてきて、僕の存在を押しつぶしていった。
 不安で胸がいっぱいになった僕は白の中を手で必死にもがいて、何かを探した。
 僕と白以外の誰かいないのかな。
 誰か、返事をしてくれ。

 僕の精一杯の嘆きに心をうたれたのか、神様は目の前にこれまた白い桜を用意してくれた。
 これも白だけれど、何かあったほうがましだ。僕はその桜に向かって突き進んだ。
 枝垂れた枝は笠みたく地面を覆っていて、ふと目を凝らすと着物が見えた。
 暖簾のように枝を潜ると、そこには美しい少女がいた。
 美しい、っていう言葉を簡単に使ってしまうと、逆に安っぽく聞こえてしまうかもしれないけど、やっぱりその少女を見て一番似合った言葉は"美しい"だった。
 白地に藤色の雪柄がちらちらと散っている。
 白く柔らかい手に、か弱い肩。うす開きの双眸の色は落ちた首についている濁った目の色を、全てきれいさっぱり浄化してしまうほど澄んでいて、蕾のような唇は桃のように潤っていた。
 艶のある髪はきらきらと輝いていた。
 会った事ないのに、どこかで見たことあるような気がした。
 僕は思わず、声をかけてしまった。
 それが僕と彼女の始まりだった。


【髭切:回想 その二】


 彼女の名前はなまえといった。
 それ以外はわからなかった。
 僕も詮索をしようとは思わなかった。
 彼女とはとてもくだらないお天気の話や季節の話などしていた。
 昨日は晴れていた、とかもうすぐ雨が降りそうだ、とか。
 主がもしこの話を聞いていたら、さぞかしつまらなそうにするだろう。

 けれど、僕は楽しかった。

 僕は刀であるから、僕の声は誰にも聞こえない。
 主の姿を見て、色々と思ったりするところはあるけれど、どんなに語りかけても決して答えてはくれない。
 けれど、彼女は違った。
 この空間にいる彼女には確かに僕の声が届いていた。
 これはとても素敵ことで、世界にたった一人しかいない、運命の相手といっても過言ではないほど彼女の存在は輝いて見えた。
 この夢から覚めても、僕は彼女のことを忘れなかった。
 彼女の風貌からして、貴族の娘なのだろうか。
 なら、現実に彼女は存在しているのか。
 それとも僕だけに見える神様なのか。
 
 彼女との逢瀬は月の満ち欠けと同じだった。
 満月なら会える時間が長いし逆に新月は会えない。
 あぁ、そうか。彼女は月に住む天女なんだ。
 僕は確かな自信を持って、「君は天女なの?」と彼女に尋ねる。
 彼女は「天女ならいつか私は空へと還るのね」とくすくすと笑った。
 曖昧な返答に首をかしげそうになったが、彼女が天女でも天女じゃなくてもよかった。
 僕の目の前にいてくれるだけで、幸せな心地を感じた。


【髭切:回想 その三】


 段々、彼女はしきりに願いを口にした。

 「飼っていた犬が心配」
 「きれいになりたい」
 「新しい衣装が欲しい」

 どれも僕は叶えられそうになかった。
 僕は刀だから彼女の飼っていた犬の場所へはいけないし、彼女をきれいにすることも出来ないし、新しい衣装も買えない。
 けれど彼女の「恋がしたい」という願いは僕でも叶えられそうだった。
 恋というものはよくわからないけれど、真似事なら出来ると妙な自信があった。
 彼女と約束を交わし、月が群青に昇る夜は本当に心が跳ねているんじゃないかってぐらい、わくわくしていたけれど彼女は一向に来なかった。

 それから何度天が巡っても、桜の霞だけしか待ってくれなかった。



 なまえが失神してから数日後、雨がやんだ。
 一時は寝たきりだったなまえだが、今は以前と変わらぬ仕事振りを見せる。
 しかし一つだけ変わった点があった。
 ふとした瞬間に見せる瞳には、疑心暗鬼の湖が広がり、ポツンと何かをきっかけに水面が揺れれば一気に湖は氷の海へと変わり果て、見たものの背筋をぞっと凍らせた。
 
 そしてなまえはしきりに髭切を近侍に任命した。
 以前は呼ばれてもないのになまえの元へと足しげく通った彼だが、近侍になった瞬間ピタリとやめた。
 その光景を見て、一番最初に口を出すのは忠誠心の高い長谷部で髭切の態度に詰め寄ったが「僕は長生きしてるから色々とあるんだよね」の一言でいつもかわされてしまっていた。

 とある夜。皆が寝静まった頃、なまえは一人水鏡の前に立っていた。
 なまえはふと水鏡に手を伸ばしては、ひっこめ、数分後また同じことを繰り返していた。
 髭切が過去について教えてくれなければ、直接自分で確かめればいい。
 けれど、それは審神者としての自分を捨てることであって、ここを潜れば、二度と戻ることはできない。
 最近になって徐々に信頼を得てきた刀剣男子たちを裏切るのは、なまえにとっても非常に心苦しいことだった。
 心苦しく、彼等のことを想うのなら引き返すことが最善の道だが、その心の裏側には不信感と喪失感が影を潜めていた。
 自分が何者かもわからず、本当かどうかもわからない記憶を頼りに日々を過ごすことは予想以上に酷なものだった。

 意を決したなまえは右手だけ水鏡に潜らせた。
 その瞬間、爪を鋭い刃物で無理やりはがされ、全ての皮膚が焼け爛れるような痛みが彼女の右手を駆け抜けた。
 あまりの痛みに失神しそうになった脳裏にとある情景が駆け巡る。
 桜の木、白い花、霞、そして髭切。そのまま意識が黒く染まりかけたとき、ふと左手を誰かに引かれ、無理やり水鏡から引き離された。
 そのまま、床の上へと押し倒され、首元に刀を当てられた。
 涙に濡れた瞳で刀の主を見上げた。

 「髭切……私を殺すのね」
 
 髭切は無言でなまえを見つめた。
 その瞳はまるで人形のように感情の色が一つも見えなかった。
 なまえは荒れる呼吸を宥め、瞳を閉じた。
 元々水鏡を潜ろうとした時点で、命など二の次だった。
 ある意味、ここで全てを終わらせて、解放されるのも悪くはなかった。

 しかし髭切の手は一向に動かない。夜の冴えた空気が二人を包み、無音が時をじらす。なまえが再び目を開けると、人形の瞳はゆらゆらと悲しみに惑い、ついに刀を床に投げ捨てた。
 震える手でそっとなまえの両頬を包む。
 人形の仮面が剥がれた髭切の目から一粒の雫が彼女の肌に落ちる。
 なまえは左手を伸ばし、彼の目元の涙を拭った。


 「願いごとを、私が忘れていてごめんなさい」
 「僕は君に思い出してもらいたくなかった。なまえなら僕が君を殺そうとした理由がわかるよね」
 「貴方が突然時の政府から送られてきたのも、私が余計なことを思い出したときに始末するためだった。きっと本当の記憶を取り戻せば、私は確実に敵対する、ということなのね」
 「そうさ、君は肉体を与えられただけじゃない。肉体と同時にまやかしの記憶も与えられたんだ。だけど、僕はそれでよかった。何知らずに、穏やかな日々の中で幸せに生きて欲しかった」
 

 髭切は眉をハの字にしながらも目を細めた。

 「約束の続きをしよう。ゆっくりと長く、季節が巡りすぎて飽きるぐらい、お互いに恋をしよう。本丸が刀で溢れかえって、そのうち好敵手とかが現れてさ。全てが終わったら、一緒に消えよう」
 
 なまえはしばらく無言で彼の頭を撫でた。
 そしてそのまま胸に抱き、優しく言った。

 「そうね……それがいいわ」

 その言葉に髭切はなまえの背中に手を回してきつく抱きしめた。
 月光に照らされたなまえの口元には淡い微笑みが、瞳には仄暗い灰色の月が浮かんでいた。


 そして、なまえは彼等を裏切った。



【なまえ 回想:始まりの記憶】


 私が生まれた村はそれはそれは深い山奥にあった。
 壁のように生茂る木々は天を覆い隠し、夏でも冬でも年がら年中仄暗いのは変わらなかった。
 加えて同じところをぐるぐると巡ってると思うぐらい、何処もかしこも景色は似ていて、たまに平地にいる人が山草を取りにやってきては迷っている。
 大概はそのまま餓死して、死体を獣や蛆に荒らされている光景はよく見る。
 もちろん稀に脱出している人もいる。
 そういう人は二度とここには近寄らない。
 

 だけどこれはまだ"入り口"の話であって、森を抜けた先にはそれは立派な家や畑に田、果樹園が広がっている。
 私たちの暮らすところはきちんと日が当たるし、狭いなりに高さを生かして、段上に家が並んでいる。
 嘗て私の先祖が汗水垂らして開拓したらしい。
 ならどうして私の先祖たちはここを開拓したのか。

 私たち一族は皆不思議な力があった。動植物や木霊の声が聞こえるのだ。
 いや聞こえる、というよりも身体に響いてくる。

 おいしい
 ちょっと痛い
 楽しい
 明日は天気が崩れる
 もうすぐ雨が降る


 人間の他愛のないお喋りのように些細な話題ばっかりだ。
 だけどその些細な話題が、地滑りを回避したり、毒を見分けたりと日常生活の役に立っていた。
 こういう力があったから、先祖たちは都から逃亡した。
 都は醜い欲望を人型に溶かした泥人形たちが沢山いて、力のことを"予知"と崇めた。
 権力に巻き込まれることを恐れ、山奥へと篭もった私たちのことを、裏切ったと勝手に勘違いした都の人々は口々に鬼と蔑んだ。

 だからこの山は鬼の山、と呼ばれ忌み恐れられていた。

 私の力は月の満ち欠けに左右するけど、村の中では力が強い方だった。
 一番強かったのは私の祖母だったけれど、数年前に亡くなってしまった。
 
 予知をしたあとの祖母の口癖は「決して外の者を招き入れてはならぬ」だった。
 私はいつもその口癖を聞いて、心のどこかで祖母のことを軽視していた。
 鬼の住む山に好き好んで遊びにくる物好きなどなかなかいないし、まず村の者以外が入り口を抜けられるはずがない。
 自然の声を聞くことができる私達だからこそ、ここに住めるのだ。
 
 外から刺激がないから、この外界と隔てられた、自然に恵まれた箱庭の世界で生まれて死ぬことに誰も疑問も違和感も抱いていなかった。
 

 変化のない、時が止まったような日常がいたずらに流れ、これからもずっと続くと思っていた。
 けれど、始まりがあれば終わりがある。
 万物には必ず生と死がやってくる。
 それはすすきが秋風にさらさらと揺れる頃だった。 村に変化が訪れた。後に思うことは、これが全ての元凶だった。
 
 私は村のみんなで面倒を見ていた犬に取れたての野菜をあげていると、村の入り口に、お隣の家の青年が足を怪我した妙齢の女人の肩を担いで歩いてきた。
 私はぎょっとしてしまった。
 村の掟で森を迷っている人を見かけても絶対に手をかしてはいけないという項目がある。
 だから村人は子供でも見殺しにしてきた。
 村の青年はついにそれを破ってしまったのだ。

 外の人を見て、いけないと思いつつ、私はとてもわくわくしてしまった。
 溢れ出る好奇心を抑えることができず、思わず入り口へと駆け寄って、不安げな大人たちの背と背の間から垣間見た。
 
 足を怪我した女人はとても美人だった。
 鍬を持ったことのないような柔らかい手に、か弱い肩。
 切れ長の瞳は清流のように清くて、蕾のような唇は桃のように潤っていた。
 艶のある髪はきらきらと輝いていた。
 でも着物は古臭く、薄汚れていて、どこか違和感を感じた。
 その違和感はその女人から溢れ出る神秘性なのかどうなのか、外の人はみなこうなのか。
 私はまじまじと見つめてしまった。
 
 招き入れてしまってはしょうがない。
 みな美人に弱いのか、とりあえず足の治療をしようと村長の家、つまり私の家へと移動した。
 家の入り口には野次馬が溢れ、まるで祭りのようにけたたましかった。
 私の母がその女性の足を治療し、傍で見ていた私の身体に木霊の声が響く。


 「そのひとはあぶない」


 ぎょっとして辺りを見回す。
 柱の向こうに木霊がじっとこちらを見てくる。
 母は気がついていないようだ。
 私は木霊に目配せしつつ、女人のことを見つめる。
 無事助けられて、安心したのか、入り口で見たときよりも顔色が良かった。
 やはりきれいな人だった。
 とても危ない人には見えない。
 危ない人というのは、もっと顔が怖くて、皺という皺に憎しみが籠められているような人だ。
 もう一回木霊へと視線を移すと、すでに姿はなくなっていた。
 ぼんやりと木霊がいなくなったあとを見つめていると、女性に声をかけられた。
 声さえも神様に愛されたのか、まるで鶯が鳴くかのようにきれいだった。

 足が治るまで村にいることになったが、結果として、私はこの女人に懐いてしまった。
 他愛のないお喋りをして、平凡な日常に花が咲いた。
 姉がいたら、こんな感じなんだろうな、と想像してしまった。

 他の村人も同じようで、誰もがこの女人に魅了されていた。
 中でも一番はやはり助けた張本人である、隣の家に青年だった。
 このまま求婚してしまいそうなほど首っ丈の彼は、彼女の足が完治し、元いた村へと戻るとなったときは一晩中泣き腫らした。
 そして、見送りも自分ひとりで見送ると独占してしまった。
 私は青年に大層むかついてしまった。
 寂しいのは彼だけじゃないと唇を尖らせたのだった。
 その夜、結局私も青年と同じく、寂しくなって一人泣いてしまった。
 今思えば、本当に無意味な涙を流したのだった。


【なまえ 回想:落陽の記憶】


 女人が元の村に帰ってから一ヶ月後、私の村は消えた。
 その日もいつもどおり、犬と遊んでいた。
 何事もなく、平和に一日が終わると信じていた。
 森のほうから煙が上がり、喧騒たる声と足音が地を這い、私の身体に響いてきた。
 劈く悲鳴が聞こえてくる。
 それは木々や動物たち、木霊、そして村の人々のものだった。
 村の入り口へと目をやると、いつも取れたての果物をくれた叔父さんの胸に矢が突き刺さっていた。
 地面へと倒れ、ぴくぴくと震える叔父さんを踏みつけ、鎧を着た勇ましい、獣よりも醜い男たちが一気に雪崩れ込んできた。

 犬が吠える。
 ダメよ、殺されてしまう。
 私は犬にそう声をかけたが、逆上している生き物に対話なんて通用しないのは人間も犬も同じで、私の声を振り切ってそのまま坂を下りていった。
 必死にその背中を追いかけ、転がるように駆け下りた。
 ダメ、戻ってきて、お願いだから。
 泣きそうになりながらそう願ったけれど、犬は兵士の足のそのまま噛み付いた。
 唸りながらも必死に牙を食い込ませ抵抗したけど、そのまま振り払われ蹴られてしまった。
 犬は地面に倒れ、口から血を吐いてそのまま動かなくなった。
 同じ年の子供が村にいない私にとっての唯一の友達。
 命の灯火がゆらゆらと揺れて消えそうになっているのを見ていられない。
 私の心は憎しみと悲しみでぐちゃぐちゃになり、かっと頭に血が上って近くにあった鍬を持った。

 しかしそれよりも先に母が私の手をとって、ぐいっと引っ張った。
 置いていきなさいと言わんばかりの力に私は持っていた鍬を地面に落とし、そのまま母の背中を追った。
 坂を上へ上へと上がっていく。
 入り口が塞がれたのだから、上へ上がるしかなかった。
 上へ上がればそのまま山道へと入り、森の中に紛れられる。
 背中から迫ってくる死の足音に背筋が凍り、鳥肌がたった。
 一所懸命に足を動かして、坂を駆け上ったけど、大の男の足に叶うはずがなく、私の髪の毛がぐいっと引っ張られ、母の手を離してしまった。

 そして母は斬られてしまった。
 返り血が飛んできて、顔にかかった。
 鉄臭い汗が私の頬を濡らす。母の身体から血が流れている。
 今すぐ止めないと。
 手遅れになってしまう。
 私は必死に母に駆け寄ろうとしたが、掴まれた髪の毛が紐のように私を繋ぐ。
 今すぐ切り落としたい。
 何なら頭皮が剥がれてもいい。

 私は今までにない力を出して、全力で暴れた。
 小石や小枝が私の顔に擦り傷や切り傷をつけようと別に構わない。
 血は大地にしみこんでいって赤黒くなっていく。
 今なら間に合うから。急がないと。
 神様、もしもいるならこの男たちを殺して代わりに亡くなった大切な人を助けてください。
 代償が必要なら、髪でも手足でも目でも心でも何でも差し上げます。
 だから力をください。

 だけど鬼に神様が微笑むはずがない。
 急に迸った足の痛みで私は我にかえった。
 痛みの箇所を手で押さえると、血がどくどくと流れてきた。
 右足にまったく力が入らなかった。
 傷口を見て、腱を切られたとはっきりわかった。
 私はそのまま担がれ、血をぽたぽたと地面に垂らしながら、涙まみれの顔で村を見渡した。
 炎が、人を、家を、村を包む。
 生きている人は誰もいない。

 私の故郷は今日、消えてしまった。

 私はどこかへと連れて行かれた。
 目隠しをされていたため、景色はわからない。
 はずされたときには座敷牢にいた。
 そこは薄暗く、じめじめとしていて時折入り口から光が入るくらいだった。
 毎日渡されるものは食事と包帯だった。
 初めは食べる気も失せて、このまま餓死して死にたいと願っていたけれど、このまま死んだとしたら、この怒りはどこへと行くのだろう。
 せめて死ぬときは村を襲った奴らの首ひとつ天国へ手柄として持って行きたい。
 私は出された食事に少しずつ手を出し、包帯で斬られた腱の場所に当てた。

 少し話せるようになった頃だった。
 私を攫った奴らの狙いは私の不思議な力だった。
 この予知を帝に貢献したいらしい。
 勿論、私は黙った。 黙り続けた。
 この力は私のものだから、顔も知らない帝のためなんかに使いたくない。
 毎回尋問にくる奴らも無理強いはせず、黙る私に苛つき、呆れ、そして去っていった。

 
 そんなある日のことだった。
 光が射さない、新月の真夜中。
 松明を片手に来訪者が現れた。
 それは死んだと思っていたお隣の家の青年と村でしばらく世話をしていた女人だった。
 二人は助けにきた、といって座敷牢を開けてくれた。
 私は私を知っている人が生きていてくれたことが本当に嬉しくて、ぽろぽろと涙が毀れた。
 すると女人は白くて細い指で汚い私の頬に垂れた涙を拭ってくれた。
 それはまるで天女みたいに神聖で、美しくて、汚らしい泥と汗まみれの自分が惨めに思えてきた。
 私は青年に手をひかれ、こっそりと屋敷を抜け出した。
 ああ、どこへ行くんだろう。村に戻れるのだろうか。
 それともこのまま三人で暮らすのだろうか。
 期待と希望に胸が膨らむ。もう二度とこのぬくもりを失いたくない。



 そうして、私が連れて行かれたのは地獄だった。


【なまえ 回想:銷魂の記憶】


 私たちは大きな屋敷へと到着した。
 それはとても立派で青年と女人はここに住んでいるのか、と憧れてしまった。
 しかし私が連れて行かれたのはそんな屋敷のはずれにある、暗闇の塊が住んでいるような貧相な蔵だった。
 ここに隠れるつもりなのか。
 まだ治りきっていない右足を引き摺りながら、二人について行く。
 そして蔵に入ると、縄が用意してあった。
 青年は松明を女人に渡して、縄を私の片足に巻いた。

 今思えば、足枷を作っていたとすぐにわかるけれど、このときの私は二人が何をしているのか、まったく理解できなかった。
 青年は縄を結んで、外れないよう壁に杭を打ちつけた。

 疑問と衝撃で頭の中が壊れそうになった。
 松明を持った青年は女人の手を掴んで、背中を向けた。
 全身の血が失せるような感覚だった。
 待ってと声を上げると、青年は悲壮な表情を浮かべて私の頬を打った。

 痛みは身体よりも心に響いた。
 裏切られた。
 私は裏切られた。
 助けれくれると思った人に裏切られた。
 この世に裏切られた。
 悲しくて、つらくて、私はわんわんと泣いた。
 青年も辛そうに顔をゆがめていた。
 けれど女人のほうは冷たい瞳で私を見下した。
 その瞳の冷たさは一瞬、私の涙を止めてしまうほどだった。
 そうして二人は蔵を出て行き、何もない、全てを飲み込むような黒だけが私を包んだ。


 それからは痛みしか覚えていない。

 蔵の板と板の隙間に日光が差し込む。
 朝が来た。すると見知らぬ男がやってきて、何か予知しろといってきた。
 勿論私は黙った。
 私を裏切った奴らに力を使うはずがない。
 口を一文字に紡いで膝を立てて俯いていると、突然身体に衝撃が走った。
 蹴られた。
 男は私を殴って、蹴った。
 嗚咽と涙が同時に出てきて、苦しくて苦しくて、私は必死にやめてといった。

 けれど、男はやめない。
 骨を折られ、内臓が壊されるような痛みに私は亀のように丸くなって、耐えた。
 けれど、耐え切れなくなって、ついに力を使うといってしまった。

 すると、男の暴行はぴたりと止まった。
 顔をあげるとにんまりとおぞましい男の笑い皺が目に入った。
 恐ろしくなって、私は俯いて必死に耳を傾けた。
 鳥の声が聞こえる。
 二日後に雷雨がくると鳥は言っていた。
 私はそう伝えると、男は満足したようで、何かを投げてきた。
 食べ物だった。
 食べ物といっても、以前の座敷牢で出されていたものとは全く異なり、土の付いたままの野菜だった。


 「鬼にはこれで十分だろう」

 その言葉に惨めさと怒りで身体が震え、ついに咽び泣いた。
 私は鬼じゃない。
 鬼じゃないのに、どうしてこんな目に。

 いっそのこと食べずにいたらどうなるだろうと放っておいたら、逆にまた殴られた。
 痛みに耐えながら、必死に野菜を頬張る。
 固くて、歯が毀れそうになりながらも必死にかじりついた。
 見知らぬ男は嘲笑いながら、また鬼と中傷した。

 見知らぬ男が来る日は大抵力を使った。
 少しでも渋ると鞭が飛んできたり、刀で傷を付けられた。
 皮が剥がれ、血が滴る。
 光が射さない、埃塗れの蔵で私は傷つけられた箇所を必死にいたわった。
 唾をつけたり、手で押さえたり、痛みを緩和しようと色々なことをした。
 けれど、どんどん傷は増えていって、肌か傷かわからなくなってきた。

 もう足音が聞こえると、無意識に身体が震え、両手で身体を包んで蔵の隅に蹲った。
 怯えても、笑っても、無表情でも、どんなことをしても私は一方的に傷つけられ、何時しか心も身体も何もかもが崩壊しかけた。


 闇の中で私は過去のことを思い出し、幸せだった記憶に縋った。
 日差しのにおい、花のかおり、おいしい果実の甘み、犬のやわからい毛。
 全てが愛しく、美しかった。

 しかし、目を開けたとき、飛び込んでくる黒は地獄を突きつけてくる。
 何もかも、なくなってしまった。
 私は一人。
 ここで人間という畜生に苦しめられるんだ。

 頭がおかしくなりかけた頃、私は亡くなったみんなのためにお墓を作ろうと思った。
 今もみんなの死体はあのまま置き去りにされて、野ざらしにされているだろう。
 だからせめて私が弔わなければならない。
 割れた爪で地面を掘って、土を集めて小さな山を作った。
 こんな日の当たらない場所でごめんなさいと必死に心の中で懺悔した。


 ある日、見知らぬ男の代わりに青年がやってきた。
 そして涙を流しながら罪の告白をしてきた。
 青年は女人に誑かされ、村への道順を教えてしまった。
 そして一番力が強いのは私だということも言ってしまったと。 
 だから、絶対に出口へとたどり着けない森の迷路がいとも簡単に破られたのか、そして私だけ生かされつれてこられたのか。
 私の耳には少しつづ青年の言葉が入ってきたけれど、返す気力がなかった。
 憎しみも悲しみも何もかも、まるで自分じゃない自分が感じているかのように、遠く思えた。
 青年は女人と一緒になれると思って、いろいろと協力したけれど最近冷たいらしく、そのことも言ってきた。
 心底どうでもいいと私は意識を彼方へと飛ばした。
 気がついたときにはもう青年はいなかった。


 次の日、見知らぬ男が来て、恐怖に震えた私は力を使った。
 そして食事が出された。いつもの野菜くずだと思ったら、皿に乗って出てきたのは焼かれた肉だった。
 仰天していると、見知らぬ男は食え、と命令してきた。
 おいしそうな肉のにおいに我を忘れ、私は獣のようにそれに喰らいついた。
 おいしいと涙を流しそうになった。


 見知らぬ男はにたにたと笑って見下し、こういった。

 「仲間の肉は上手いか」と。

 その瞬間、身体が凍りついた。
 そして込上げてきたのは激しい嘔吐と後悔だった。
 地面に顔をつけて、胃の中にあるものを全て吐き出していると、見知らぬ男はぼさぼさの私の髪を掴んで、囁いた。

 「お前の仲間は浅ましくも私にお前を解放しろといってきた」
 「私の娘にも懸想しているらしい」
 「塵のままにするのも惜しいので、こうして肉になってもらった」
 「鬼は共食いが好きだと聞いて」

 地獄は痛み以外にもこんなにも狂気に満ちていたのか。
 もう何も考えられない。
 男は私の吐瀉物を見て、笑った。

 「仲間の肉を塵にするとは、この男も報われない」

 その言葉を聞いて、私は吐いたものを見つめた。
 涙はもう流れない。
 地割れを起こした大地のように心は砕け、粉々になる音が聞こえた。
 見知らぬ男の笑い声が遠くに響く。
 月の光すら届かない暗闇に抱かれて、私は静かに目を閉じた。
  


【なまえ 回想:夢の記憶】


 私の夢の中はそれはそれは綺麗なところだった。
 まるで白珠のような霞が私を包み、穢れも汚れも、醜いと思える全てのものが最初からなかったかのような心地を感じる。
 足にぐるぐるになっていた縄はいつの間にか外れていて、着ていたざらざらとした布切れはとても可愛らしい、肌触りのいい着物に変わった。
 ぼさぼさで、野生の狼よりも汚い髪の毛は艶で輝いたものに代わり、顔に手を当ててみると傷も瘤も何もかもなくなり、絹のようにすべすべとしていた。


 私は嬉しくて嬉しくて、思わず跳ねてしまうほど興奮していた。
 くるくると回り、大声を上げて笑いながら、白の中を駆け回る。
 いつしか目の前にそれは大きな桜が見えて、撓っている枝を潜り、根元に腰を下ろした。
 ひらひらと落ちてくる花びらは枯れた心に落ちた瞬間、水を張り、湖のように潤わせた。
 手を伸ばして触れると、雪が溶けるかのように消えていった。
 所詮は夢うつつ。そう考えた途端、私は急に誰かと話したくなった。
 幻の中さえも一人は寂しかった。

 誰か、誰かいませんか。


 私は必死に願っていると、足音が聞こえてきた。
 いつも私のことを傷つけ、虐めるものの足音ではない。
 静かで、こつこつと聴いているだけで、この人は上品な人だと感じた。
 枝に手で払いのけてやってきたのは、それはとてもきれいな青年だった。
 神様の使いかと思うぐらい、顔も佇まいも何もかもが整っていて、黒ばかり見ていた私の心をぱっと明るくする、黄みがかった白の髪の毛、琥珀色の目が印象的だった。
 
 それが髭切との出会いだった。

 髭切との時間はとても楽しくて、幸せだった。
 夢が覚めて、指を折られたり、目を潰されたり、酷く虐げられる度に私は清い彼のことが恋しくなって、切なくなって、助けてほしくて、彼を強く願った。

 本当は私、虐められてるの。
 少しでも予知が外れるといつも私の事を斬ったり、殴ったり、蹴ったりして私の身体中は傷と痣だらけなの。
 私は何も悪いことしてないのに、こんなに憎い人さえも殺してないのに。
 髭切に伝えたい、この痛くて痛くてたまらない思いを、私はいつも腹の底深くに沈めて、一人抱える。
 汚いものは隠したい。
 ここは夢うつつ、髭切の目に映る私は天女だから。
 天女の皮を剥いだ、醜い鬼の私を見て欲しくない。
 だから悲しいこと、つらいことがあっても藤色の雪柄が涙となって、頬の代わりに白地の上を伝う。
 

 髭切、今日の天気はどう?――雨だと身体が痛むのは内緒。
 ねぇ、飼っていた犬が気になるの。――私の代わりに天へ昇ってくれたかな。
 新しい衣装が欲しい。――でも誰も買ってくれないのは知ってる。
 きれいになりたいの――蛆が湧いた私を蔑まないで
 
 恋がしたい――私を愛して


 希望を口にする度に、虚しくなって、やるせなくなって、消え去りたくなった。
 本当は助けにきてほしい。
 ここから私を救いだして、誰も私のことなんて知らない、山奥深くで守ってほしい。

 血と蛆の泥人形が涙を流しても、雫は毀れない。
 闇だけが音に出せない悲鳴を癒してくれる。
 髭切、髭切。
 何度も掠れた、老婆のような声で名前を呼んで、願った。


 でも何時からか、髭切を想う度に心が砕けた。
 髭切は、私を求めてない。
 夢で会うきれいな私を求めている。
 かつて憧憬した女人のような可憐な天女と恋をしようとしている。
 化け物は必死に扉を叩いても、表に出ることは誰も許さない。
 鬼の私が、恋なんて出来るはずがなかったんだ。

 会えない。会いたくない。
 でも会いたい。文の内容だって考えた。
 髭切に天晴れと言わせたい。
 彼の心を掴んでみせるから、私を離さないで欲しい。
 けれどそれは鬼の考えた言葉を天女が代弁して結ばれるだけ。
 鬼は、天女には勝てない。


【なまえ 回想:黒の記憶】


 潰された片目がまだあるかのように感じた。
 あったとしてももう何も見えない。
 煩わしい羽音がする。
 獣の糞のような臭いが篭もっている。
 痛みはもう、感じない。
 身体は動かない。

 水を、食べ物を。
 願っても、黒は嘲笑うだけ。
 ひどく眠たくなってきた。
 結局文の内容は言えなかった。
 命が終わる音がした。

 最後に髭切に会いたかった。

 けれど、今日は新月だった。

 村での思い出がぐるぐると蘇った。
 幸せだった。きれいで、美しい髭切のこと、忘れたくなかった。

 せめて、最後に、本当の願いを、言えばよかった。



 全身の皮が剥がれ、切り刻まれ、酸を垂らされ、煉獄に焼かれるような痛みだった。
 断末魔を上げて、転げまわって、ぴくぴくと痙攣する。
 死んだほうがまし、ともいえる感覚になまえは発狂しそうになる。
 頭には溢れんばかりの記憶の波が押し寄せ、海となり、ずんとなまえは奥底へと沈んでいった。

 髭切、一緒に消えてくれるといってくれて嬉しかった。
 彼女は両腕で自分の身体を抱いた。
 審神者のときは、幸せだった。
 信頼、愛情、温かくて心地よい感情を全部もらった。
 痛みなんてどこにもなかった。
 けれど業火よりも罪深い、憎悪の炎が善の感情を全て燃やしつくした。

 水鏡を潜り抜けた先は幼い頃によく見た森だった。
 なまえは両足で大地を踏みしめる。
 
 「けれど、ごめんなさい。最後まで、誰も私を救ってはくれなかった。死んでも尚、冒涜され続けた」

 だから、私が私自身を救いに行く。
 なまえは徐々に消え去る時の狭間に背を向け、二度と振り返ることはなかった。



 審神者であるなまえの逃亡から数日後、すぐに新たな審神者が時の政府から送られてきた。
 刀剣男子たちはいなくなったなまえを恋しく思いながらも、使役される身としての自覚は忘れていなかった。

 行き先は、なまえの故郷である村。
 任務は歴史修正主義者と、なまえの討伐。
 各々が準備をし、装備を身につけている中、髭切だけは一人桜の木の下にいた。
 己の分身ともいえる刀の波紋をじっと見つめ、そっと撫でる。
 新たな審神者と共に送られてきた膝丸が、何時までも準備をしない兄に痺れを切らしたのか、声をかけた。

 「兄者、そろそろ出陣の準備を」
 「そうだね、えーっと」
 「まさか、また忘れて……」
 「そんなことないよ、あっ膝丸だ。膝丸、元気かい。ちゃんと僕は準備をしたから大丈夫だよ」
 「元審神者とはいえ、生まれは鬼。心してかからねばな、兄者」
 「そうだね、僕もケリをつけなくちゃ」

 髭切は刀を鞘にしまい、桜に背を向けて歩く。
 白い花びらは雪のように溶けていった。



【髭切:回想 零】


 今日は少女の腱を切った。
 血と泥と汗が染み込んできて、少しだけ傷ついた。
 そのまま斬り殺すかと思ったら、少女のことを捕縛して屋敷に連れ帰った。

 主は腱を斬った割りに、その子のことを考えていて、故郷も親も奪ったことに心を痛めているのか、少女が回復するまでひどいことはしてはいけないといっていた。
 部下は不満そうで、僕は主の言ったことに対してこんな表情をするこいつのことを疎ましく思った。

 その後、彼女がいなくなった。
 主は怒って、部下に探せと命じたけれど、一向に見つからなかった。
 僕はある夜、二つ、妙な気配がしたことを思い出した。
 ついでのこの部下の気配も感じた。
 けれど、僕には口がないから、主に教えることはできなかった。
 主はとても少女のことを気にしていたけれど、僕は彼女のことを霞みじゃないかと思った。
 霞ならいつ消えてもおかしくないからだ。



 なまえのいた時代へと降り立った刀剣男子は立ちはだかる敵と対峙した。
 普段は軽々と倒せるはずなのに、審神者であったなまえの力がまだ僅かに残っているのか、いくら斬っても傷口は癒えていった。

 隊長の歌仙がまとまって行動するよう、呼びかけた。長谷部は主命のため、と己の身を削って敵へ突撃した。
 膝丸は鬼は消えるべし、と容赦なく斬っていった。
 髭切は一人なまえがいると思われる、村の社へと向かった。
 一匹狼のように孤立し、わき目もふらず、線のように真っ直ぐと進む髭切を誰もが止めるが、どんなに傷をつくっても、切り刻まれても彼はその足を止めなかった。
 今すぐ、彼は会いたかった。
 今度こそ、なまえのために、と髭切は疾風の如く駆けて行った。



【髭切:回想 その四】


 主が陰陽師から、「待ち人来たらず」といわれた。
 僕の待ち人も一向に来なかった。
 桜の霞が鬱陶しくなり始めた頃、何やら珍しい力を得て、貴族たちに好かれた部下が逃亡して、おかしな信仰を始めた。
 真っ当なものではなくて、鬼を祭る邪まな信仰なのに信者が増え始めたから、主は朝廷の命令で討伐に向かうことになった。
 
 場所は以前行ったことのあるところだった。
 懐かしい森の香りをくぐった先には荒れ果てた村があった。
 確か、ここで霞みのような少女を斬った。

 主は部下を引き連れ、ずいずいと奥へと進んでいった。
 その表情は今にも僕を叩き折りそうなほど、怒りに満ちていて、心なしか僕を握る拳は氷のように固かった。
 僕は記憶が曖昧なほうだから、こんな大きな社があったかどうか覚えていないけれど、その中から鬼に力を借りた、といってる信者たちが虫みたいに湧いてでてきた。

 勿論、僕はそれを斬って行く。
 鬼の力なんて、大したことはなかった。
 僕はつまらなかった。
 逢魔時が近づいてきたのか、松明がゆらゆらと揺れた。

 今日は満月の夜だ。

 何となく、僕はなまえと会えるような気がした。


【髭切:回想 終】


 大きな社の中に入ると、逃亡した部下は一人地面に倒れていた。
 自分で腹を切って死んだらしい。
 主は顔を顰めた。
 部下の死体ではなく、その奥にあるものを見て。

 僕はそれを見た瞬間、刀なのに吐き気を催した。
 土色のかぴかぴとした皮で覆われた骸が悲壮な表情を浮かべながら、台座に佇んでいた。
 僕の目の前はぐるぐる回って、もしも身体があるのなら、それはがたがたに震えて、獣のような叫び声をあげていたに違いない。

 流れない涙が訴える。
 なまえだった。
 夢であったなまえとは程遠い、ひどく醜い姿だったけれど、骸に残る魂の残り滓から、むせるほど嗅いだ桜の香りがした。

 決して信じたくはなかったけれど、僕は刀であるから人間が感じることの出来ない霊魂がひどく身体に響いてくる。
 彼女は泣いていた。
 僕の前では笑っていたけれど、本当は泣いていた。
 この身を壊したくなるような激しい後悔が津波のように押し寄せ、僕を飲み込んだ。

 点だったものが全て線で繋がった。
 僕が彼女を斬ったから、彼女は苦しみ、死んでも尚、心も身体も冒涜され続けた。

 主は苦しげな表情をして、その骸を見つめた。
 そして僕の柄を握った。
 僕は出来もしない抵抗をした。
 斬ることが救いだとしても、二度も彼女を斬るなんてことはしたくなかった。
 やめてくれ、と頼むけれど、刀の懇願なんて主の耳に届くはずがない。
 ゆっくりと僕を上げて、主は意を決して、僕を彼女の首へと食い込ませた。

 「まさに鬼だ」

 刃が脆い骨を砕いた瞬間、彼女の痛みの記憶が僕に流れ込んできた。


 主、彼女は鬼なんかじゃないよ。
 なまえが抱いた苦痛と悲しみが染み込んできて、気付くことの出来なかった自分に絶望して、同時にこの世への怒りが湧いてきた。

 どうしてなまえが死ぬ。
 彼女はただ、奪われただけだった。
 こんな悲しい結末を用意した、神を恨めしく思った。
 そして同時に、僕は願い、祈った。

 もしも、なまえにもう一度会えるのならば、僕が彼女を幸せにしたい。



 なまえは社の中で静かに台座を見つめていた。
 そして嘲笑した。
 記憶を取り戻せば、なまえが裏切るという時の政府の読みは見事に当たっていた。 本丸では感じることのなかった、寂しさと憎悪の感情が彼女の全てを包み、別のものに作り変えていた。
 遠くから地響きのような馬の足音が轟いてくる。
 相手は時の政府なのだから、こちらに勝ち目はないことは十分にわかっていた。
 審神者としての力が段々となくなってきているのか、壁となる敵の数が減ってきている。
 それでもなまえは決して引く気はなかった。
 むしろ私を殺しにくるのは誰だ、と一人の刀を思い浮かべながら、淡い期待を抱いた。

 そして社の扉が開いた。
 なまえはその姿を瞳に映した瞬間、穏やかな笑みを浮かべた。


 「さあ、私が大将よ。貴方になら、首をあげるわ」
 「なまえ……」


 服が破け、身体も切り傷だらけ。
 肩で息をして今にも倒れそうな髭切はゆっくりとなまえに歩み寄る。
 刀の柄に手をかけたのを見届け、なまえは瞳をゆっくりと閉じた。

 しかし次の瞬間、ごとりと何かが放られる音がして、つられて目を開けると、一面に白が飛び込んできた。
 ふわりと髭切の手がなまえの髪を撫で、その懐からは桜の香りがした。


 「君は綺麗だ、醜くなんてないよ。誰よりも綺麗だ」
 「髭切」
 「救いたい。君を一人で死なせたりしないさ。恋というものがわからないといったけど、僕はずっと前から君に恋をしていたんだ。もう僕は君の元から離れたくない」
 「でも、地獄に落ちるのは私一人でいいわ。貴方はきれいだから、地獄に落ちてはいけない」
 「君がいるところなら、どこでも極楽さ。黄泉へと下る道もきっと幸せに違いない」
 「…髭切」
 「君を助けたい」
 「ありがとう……」
 
 
 なまえはぎゅっと髭切の背中に腕を回した。
 二度と離れないよう、呪いをかけているようなきつい抱擁。
 この人は、私を助けてくれる。
 こんなに醜い私を姿を見ても尚、恋をしてくれている。

 貴方はやっぱり、きれいだ。

 なまえはそう思い、そっと涙を流した。
 社へと響いてくる足音と怒号に二人ははっとして、髭切は地面に投げ出した刀を握った。
 なまえを自分の背へと庇い、扉へと対峙する。

 
 「僕だけが君を守る」
 

 社の中に、後続隊が踏み込んできた。
 歌仙はなまえを見つめ、悲しそうに眉を顰めた。
 長谷部は主命のため、と唇を噛み締める。
 膝丸は相対する兄に問いかけた。

 「兄者!鬼の味方など乱心したか!」

 乱心もなにも、まず彼女は鬼じゃない。
 僕の大切な人だ。
 そう言葉に出そうと口を開いた、その瞬間だった。
 ふと耳元にかすったのはなまえの優しくも、泡沫のように儚い声だった。

 「貴方だけは、きれいなままでいて、髭切」

 そうして髭切の身体の力は抜けた。
 ごとりと地面に落ちる。
 見下ろす彼女の瞳は初めて見たときみたく澄んでいて、慈愛に満ちて温かくも、悲しみの湖が佇んでいた。

 髭切は声を上げた。
 しかし、音にならなかった。
 なまえは自分に残っていた審神者としての最後の力を使って、髭切を刀の姿に戻したのだ。
 裏切り者の烙印を押され、地獄に落ちるのは私一人でいい。
 彼女はそういっているかのように微笑んだ。
 一粒の透明な涙は月が泣いているかのようだった。
 今までに髭切が見てきた中で一番きれいで、苦しそうな笑顔だった。

 目の前にいる歌仙が柄を握り、抜刀した。
 
 『やめて、やめてくれ、頼むから』

 嘗てのように懇願したけれど、詮無き事だった。
 彼女は為すがままに両手を広げ、太刀を待っていた。
 時が止まったかのような、物音一つたたない静寂があたりを包んだ。

 そして、刀は振り下ろされた。
 命が絶つ音が聞こえた。飛び散った鮮血は髭切の鞘を濡らし、どくどくと床に血溜りが染み渡っていく。
 光をなくした鉛の瞳に血まみれの自分が映された瞬間、髭切は絶望に顔を歪めた。

 『うわああああああああ!!!』

 
 身を切り裂くような叫び声。それはやがて嗚咽に代わり、消えていった。
 

【終幕】


 髭切は桜の下で落ちてくる花びらを眺めていた。
 膝丸は相変わらず呑気な兄に呆れながらも、春日和を楽しんでいた。
 髭切はふと、思い出したかのように声を上げた。

 「そういえば、桜の下には死体が埋まっているらしいって主が言っていたけど、ほんとかな?」
 「そんなもの迷信に決まって……って、兄者。何を掘っている」
 「実際に掘ってみればわかるって思ってね」

 汚れひとつない手袋に土がこびり付いていくが、特に気に止めず掘り進める髭切。
 膝丸はやめさせようと屈んだときだった。

 「あれ、何かみつけた」

 髭切は何かを掘り出した。
 それは黄色く痛んで、変色した紙だった。
 開こうとしたが、くっついているため中々剥がれない。
 ついにはひっぱりすぎて、びりっと破いてしまった。
 
 「しまった、もしかしたら宝の地図だったかもしれないのに」
 「そんなはずなかろう。兄者、俺が解読しよう……わ、た、し、の、ね、が、い……駄目だ、読めん。誰かの悪戯だろう、持ってても意味がない。明日塵と共に燃してしまおう」
 「それは駄目だよ、うん、駄目な気がする」


 髭切は違和感を感じていた。
 新しい審神者がきて、膝丸たちと共に平和な時を過ごして幸せな髭切だが、彼には前の審神者がどんな人物か思い出せなかった。
 けれど、思い出せないということはきっと必要のない記憶だろうと頭の片隅で考えた。
 加えて千年を超える時を過ごしてきた彼にとって、記憶が曖昧なのは常だったので大して気にしていなかった。
 気にしていないはずなのに、この襤褸切れを見ていると温かくも悲しくなった。
 何時まで経っても拭えない血がこびり付いているかのごとく、心残りを感じた。
 
とても大切なことを忘れている気がした。
 
 「これは、僕が持っておく」
 「兄者、どうして泣いている?」
 「泣く?あっ涙が流れているね」


 土埃でも目に入ったのかな、と手で擦る。
 すると頬に余計な土汚れが出来て、膝丸が急いでそれを拭った。

 「源氏の重宝が土汚れなど……あとは俺が元に戻しておく」
 「いや、せっかくだから……お墓を作ろう。なんか枝でも差してさ。もしかしたら本当に死体が埋まってるかもしれないでしょ」

 髭切はボロボロの紙を懐にしまうと、そういって土を盛った。
 白い花びらがちらちらと舞い落ち、そっと土の上へと溶けていった。
 



 繰り返される戦はついに終結した。
 新しい審神者の元、世に平和を齎した刀剣男子たちは皆、各々の場所へと帰る準備をしていた。
 一人、また一人と時の狭間に消えてゆき、がらんとした屋敷だけが虚しくも、ひとつ取り残されていた。
 膝丸は髭切と共に時空の狭間へと旅立とうとしたが、髭切は桜の下に座りこみ、やんわりと微笑んだ。


 「僕はここにいるよ」
 「何を馬鹿なことを……兄者、もうここの空間も閉まってしまう。このままここに居れば、やがて空間と共に兄者も滅んでしまう」
 「それでも、僕は待っている人がいるから。膝丸、また会えたら今度こそ名前は忘れないようにするよ」
 「兄者……!」

 髭切と離れたくない膝丸は彼の腕を引っ張り、無理やりでも連れて行こうとしたが、髭切はびくともしなかった。
 空間が閉まる、最後の最後まで膝丸は髭切を連れて行こうと尽力したが、その願いは叶うことはなく、膝丸だけを時空の狭間は飲み込んでいった。


 誰もいなくなった。
 しんとした桜の霞が髭切を包む。
 花びらは風に乗ってひらひらと運ばれ、遠くにある白の空間へと消えていった。
 土色は段々と白の絨毯へと染まっていき、かつて感じた、むせ返るような桜の香りが涅槃と共にやってきた。

 髭切は目を閉じて、愛しい少女のことを思い出す。

 君の魂は今、どこにあるだろう。
 魂がどんなに流転していても、還る場所はここだって、僕がきちんと君を待ってなきゃ。
 君が僕を忘れていても、僕は君を二度と、絶対に忘れないから。
 魂が滅んで、僕の存在がこの世から消えて、誰にも思い出されなくなっても、
 僕には君への想いがあるから平気さ。
 いつか、巡り巡って、もう一度君に会えたとしたら、僕はあたらめて君に恋をするよ。
 だから、僕の元へと還ってきて。


 僕の文は今も昔も変わらないよ。

 
 いますぐ、君に会いたいんだ。







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