戀に二度目があるならば
はらはらと、雪のような白い花びらが地面へと舞い落ちる。
枝垂れた柳桜はゆったりと二人のことを覆いかぶさり、僅かにできる影はまるで周りとの壁のようだ。
少女は言った。
「また私に会いにきてくれる?」
少女と相対するものは微笑んで頷いた。その瞬間、ざぁっと旋風が二人の間を裂き、千の花びらは厚い隔たりとなって、一面を白く染めるのであった。
それが目覚めの合図だった。
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なまえが直ぐに感じたことは、蘇ったというよりも使役されているという義務感だった。
『死んだまま、放っておいてほしかった』
なまえがそう呟くのにも理由がある。
彼女は鬼と呼ばれる一族の出身であった。
鬼といっても角はない、肌は赤くないし青くもない。
ただ貴族たちと反りが合わなかっただけでそう蔑まれ、世間の悪評の対象となり、山や森に逃げざるをえなくなったのだ。
人の形をしているのに、鬼という記号を与えられ、不気味な存在として蛇蝎のごとく嫌われてきた彼女にとって、審神者になり付喪神である刀を率いることには違和感しかなかった。
刀の中にはかつて鬼を斬り殺したものもいるだろう。たとえ鬼を斬り殺していなくても、鬼に率いられることを誰が望んでいるか。
悶々とした感情を胸に抱きながらも、審神者として選ばれたのだから、しっかりと役目は果たそうとなまえは腹をくくった。
初めに時の政府から送られた刀は歌仙兼定だった。正直に鬼と呼ばれたと話してみたが、彼は特に気にする素振りを見せなかった。
予想と違ったことに困惑したなまえだったが、どんどん増えていく刀たちの反応からして、審神者が過去にどのようなことがあったかはさほど興味がないようだった。
それからはほどほどに親しくし、深く介入しすぎないよう、適度な距離を保ってなまえは刀たちと接していた。
本当のことを言うと、なまえは距離感というものが良く分からなかった。ろくな交流経験をせずに、病にて死んだなまえは身体は少女とも女性のも言える物を与えられたが、精神が追いついていなかった。
しかし、上に立つものとしては凛々しくありたいと毅然とした態度を試みた。
そんな中、一人の刀が時の政府から送られてきた。
「源氏の重宝、髭切さ。よろしく」
「今日から宜しくお願いします」
「次の主がこんなに美しい人だなんて、意外だなあ」
「はぁ……」
「手もこんなに小さくて、きれいだ」
突然ぎゅっとなまえの手は髭切の両手に包まれた。目を丸くすると同時に近侍に任命していた長谷部が二人の間を割ってはいった。するりと解ける直前まで髭切の指はなまえの手の甲、指先に触れていた。
「主に対して失礼だろう」
「確かに、いきなり女人の手を触ることは不躾だったかもね。ごめん、主」
「いえ……大丈夫です」
偶然手が触れ合うことがあっても、意図的に触られることは滅多にない。加えて髭切の指の這わし方。肌ではなく、その下にある心に直接触れるようで、なまえは動揺していた。
それと同時に髭切に対して少し違和感を抱いた。
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白い花びらは何枚落ちていったのであろうか。
雪のような枝垂れ桜以外、何もない、白が絶対的支配者である空間で彼は待っていた。
舞う花びらにそっと手の平にかざすと、雪のようにそっと肌へと溶けていった。
花びらが途絶えることはない。
何千枚も何億枚もはらはらと散っていく。
まだかまだかと、期待と歓びが穏やかな時を刻む。
彼は何時までも彼女のことを待っていた。
とある昼下がりの屋敷。本日は戦もなく、数日前に遠征組みが帰ってきたこともあり、屋敷の中は短刀たちの賑やかな声や諸々の他愛のない話し声でいっぱいだった。
自室で一人、時の政府から来た便りを読んでいたなまえの元へ髭切がやってきた。
「主、犬を飼ってみたくないか?」
「犬?飼ってみたいといわれれば…」
生前の記憶を思い出す。村のみんなで餌付けをしていた犬は私が死んだあと、どうしたのだろうか。なまえはその犬を人一倍可愛がっており、今でも柔らかな毛の感触は忘れていない。
「そうか、そうか」
髭切はその回答に満足したのか、本丸を後にし、数分後戻ってきた。
「ほら、主。犬を持ってきたぞ」
嬉々とした表情の髭切の手に抱えられているのは鳴狐の傍にいるお供の狐だった。廊下の向こう側でどたどたと慌てる足音が響いてくる。髭切の手中で身体をくねらせ、暴れる狐は必死な声を上げた。
「あっ主様!この者に今すぐ離すよう、お頼み申してくだされー!」
「髭切……離してあげなさい」
「主がいうのなら……」
髭切が床に下ろした瞬間、狐は後ろから走ってきた鳴狐の肩へと飛び乗った。鳴狐の首の後ろから顔を覗かせて髭切を睨みつけているところから、相当怖かったらしい。
「髭切、無理やりつれてきたの?」
「いや、屋敷の廊下を犬が歩いていたから抱いただけさ」
「あれは狐です。今度からは鳴狐の了承を得てからにしてくださいね」
「わかったよ」
髭切の顔に反省の色はなく、むしろ達成感に包まれていた。次もなにかしでかすだろうと、なまえはじと目で彼を見つめた。
その予想は案の定早くやってきた。
万屋へと必要物資を買いにやってきたなまえだが、隣にはついていくといってなまえの手を離さない髭切と、その髭切の監視と荷物持ちの長谷部が歩いていた。
さすがに大の男に挟まれて買い物するのは心地が悪いため、早く済ませようと手際よく進めていた。
しかし、途中で髭切が髪留めや帯締などが売っている出店に目を光らせ、なまえの着物の袖を引いた。
「主よ、あの簪など貴方の髪に似合いそうだ」
実物を手にとり、なまえの髪にかざす。白い桜の簪だ。確かに綺麗な品物だとなまえもうっとりとしたが、無駄使いはいけないと髭切の手を制止する。
「私を飾っても何も得なんてないですよ」
「主が困るようなことはやめろ、髭切」
「自分の主が美しくなるのは嬉しいことじゃないか、後輩」
「主は十分に美しい」
「恥ずかしいのでやめてください、長谷部。第一に髭切、貴方はお金を持ってないでしょう」
「………それなら主、たまには自分を着飾ることに金を使うのもいいと思うよ」
「審神者として、まずは自分のためではなく皆のために資金は使いたいのです」
「そうかそうか。なら店主、この紐とそれを交換してほしい。源氏の重宝の一部さ。この簪よりも価値は高いはずだよ」
突然髭切は上着の胸元にあった金色の組紐を差し出した。店主の手に渡しそうになる前になまえはその手を掴む。
「何をしているのですか!」
「お金がないと買えないというなら、こうするしかないと思ってね」
「それでも貴方の一部をこの簪に変えることはできません」
「それでも僕はこの簪が欲しいんだ」
「分かりました……私が払います」
組紐を上着の元の位置に戻し、店主から品物を受け取ると、髭切はそれをひょいっと奪うと軽やかになまえの髪を結って簪を挿した。
「うんうん、似合ってる」
「……ありがとうございます」
「髭切、少し我侭の度が過ぎるぞ」
「十分に美しい主がもっと美しくなったからいいじゃないか」
全く悪びれていない髭切に長谷部は詰め寄る。なまえはそんな二人を眺めながらそっと胸元から手鏡を取り出し、簪を眺める。
控えめだが、上品な白い花びらが殺風景な髪に映える。お洒落をすることなど審神者とは無関係と思ってはいたが、この簪には心が擽られた。
思わず慎ましく、優しい微笑みを浮かべたなまえだった。
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「恋をしてみたい」
少女はふと声に出した。
その言葉は雪桜の中に埋まってしまいそうなほど儚いが、しんと、深く心に響いた。
「恋?」
「そう、恋。恋とはどんなものだろう」
「僕も詳しくは分からないけれど、主はよく文を交わしていた」
「文を交わせば、恋は育めるもの?」
「試してみようか」
二人の瞳が合う。その瞬間、ふふふと声に出して笑いあった。
「それはいい考え。貴方がどんな文を書くか楽しみだわ」
「とはいってもよくよく考えたら僕は文を書けない」
「それなら、文にどんなことを書こうとしたか、発表しましょう」
「どちらが上手な恋の文か、勝負だね」
「負けないから。次会うときが楽しみだわ」
そうして二人の姿はうっすらと桜の霞の中に紛れていった。
ふと息をついて顔を上げると本丸の庭が見えた。刀も審神者も時が止まっているはずなのに、庭の景色だけは傍観者を置いてぐるぐると季節を巡っていた。
屋敷の縁側にひらりと白色の花びらが一枚舞い落ちてきた。満月の光に照らされ、ぼんやりと光っているように見えた。なまえは灯りを消して、縁側へと歩いていき、花びらを摘んだ。
手の平にのせた瞬間、光を失った花びらは枯れたように撓っていた。鬼には神聖なものは似合わない。そう月から告げられたようで、なまえは舞い散る桜に決して手は翳すまいと思った。
花びらの元となる桜の大木へと視線を移すと、その下には髭切が一人、佇んでいた。背中を向けているため、表情は見えないが月夜にふと消えてしまうような寂しさを見せていた。
なまえは庭へと降りて、控えめに声をかける。
「髭切、具合が悪いのですか」
ゆっくりと振り向いた髭切はいつもと変わらないように見えたが、月光の淡い光が彼の顔に影を落とす。
「大丈夫、ちょっと月を見ていただけ」
「そうですか、今日は満月なのですね」
「なまえ」
地面に落とした視線が再び髭切を見つめる。今、名前を、と言い出す前に髭切はなまえの両頬を掴んだ。そのまま上下左右にぐりぐりとする。
突然のことに目を白黒させながらなまえは必死に髭切の手首を掴んでやめさせようとしたが、中々解けない。やめてください、といっても意味のわからないひらがなが口から出てしまう。
そのうち、なまえの変顔に耐え切れなくなった髭切の顔が破顔し、腹を抱えて笑い出した。
「ははは!いつも冷静で石のような主の顔がここまで柔らかいとは」
「髭切!何をするのですか!」
「主の顔の体操だよ」
「痛かったですし、無理やりでしたね」
「それなら主も僕にやればいい」
髭切はなまえの手を掴むと自分の頬へと導いた。なまえは髭切の頬を摘んだ。じっと見つめる。彼はにこにこしたままだった。
主導権を握られっぱなしでは納得いかないとなまえは両頬を左右に伸ばした。髭切の頬はまるで餅のようで、思わずクスッと笑ってしまった。
「笑ったから、はい、終了」
「…不公平です」
「そんなことはないよ。僕だって笑ってしまったからやめた」
「なら最初から言ってください」
「ごめんごめん、いじけないで」
頭をぽんぽんとなでられて、なまえははっとした。私は何をしていたんだろうと。審神者として冷静沈着にいなければならないのに、幼子のようにくだらないことで拗ねてしまうなんて。
彼女は恥ずかしさのあまり、髭切から顔を背けた。その瞬間、髭切は肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「恋をしてみたいと思わないかい」
「はっ!?」
なまえは思わず両手で口を塞いだ。大声で驚いてしまうなんてはしたない。飛び跳ねる心臓を深呼吸で押さえ、髭切を見つめた。こんなにも誰かが至近距離にいることは初めてで、離れたいがなんと言えばいいかわからないほどなまえは混乱していた。
「僕はまだ恋というものがわからない。だけど、主を見ているととても暖かい気持ちになる。これが恋なのかな、それとも違うのかな。審神者である主なら刀の気持ちぐらいわかりそうな気がするけど」
審神者である主、という台詞になまえは何とか答えようとしたが、納得できる言葉は見つからなかった。なぜなら、なまえ自身、恋というものがどのようなものかわからなかった。
恋という感情を味わう前に病に伏せ、世を去ってしまったなまえにとって、恋とは感情ではなく言葉。文字と意味しか知らない。むしろ髭切のほうが知っているのではないかと逆に問いたくなる心地を抑え、口を開いた。
「私には貴方の気持ちはわかりません……」
「そうか、主も知らないのか……それなら、これから二人で恋について知っていこうよ。まずは手始めに文など交わしてさ」
「それは審神者として何か意味はあるのですか」
「僕に恋をすれば、毎日が楽しくなると思うよ」
審神者にそれは必要なのか、と問おうとしたが閉口した。髭切はきっと必要だと答えるだろう。そしてその理由を尋ねればまた毎日が楽しくなる、に戻る。意味のない堂々巡りを続けるほど詮無き事はない。
どうしたものか、と口を噤む。髭切は悶々と悩むなまえの頬をなでた。
「軽く考えればいいよ。最初は文からさ、楽しく愛を語らい合って、気楽に知ってこうよ、ね」
「頬をなでる必要はあるのですか」
「すべすべしてて気持ちいいからさ」
なまえは無言で髭切を睨みつける。あまりの鋭さに彼は蛇に睨まれた蛙のようにぎょっとして距離をあけた。なまえは小さく溜息をつき、背を向けて言った。
「文から、というなら付き合ってあげてもよいです」
「本当に?嬉しいなあ、やっぱり主は優しい」
髭切は嬉しさのあまり、手を伸ばしたがそれは虚しくも宙をかいた。なまえはそのまますたすたと縁側へと歩いていき、本丸の奥へと隠れてしまった。髭切は掴めなかった先を呆然と眺めながらもやがてはやんわりと笑みを浮かべた。
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文を書いた。
書いた、というには語弊があるので訂正する。
文を想像した。
恋というものは未だ漠然としていて、霞のように掴めないものだが、時折主の文を垣間見て、何とか文らしきものはできた。
僕はいつでも君に会いたい。夢で会うだけでは物足りないから、うつし世にて姿を見たい。
叶うなら、君が願ったこと叶えさせてあげたい。そうすればきっと君はもっときれいに笑うと思うから。
彼女はなんて書いたのだろうか。
少女の影はまだ見えないが、待つということがこれほどにも幸せなことだとは思わなかった。
彼女が文の言葉を穏やかで優しい、子守唄のように心地よい声で口にして、一つ一つが枯れた大地に降る雨のように染み渡っていくだろう。
彼女はまだだろうか。
枝垂れ桜の根元に腰を下ろして、花びらの絨毯に手を埋める。
枯れることのない、桜の木の下で。
果たして、恋の文とはどのようなものなのか。なまえは一人頭を抱えていた。
書いたことのないものを書くほど手が進まないことはない。
墨をつけた蚯蚓がいる紙はくしゃくしゃになって辺りに散乱し、何時も整理整頓をかかせないなまえにとって珍しいことだった。
どうしたものか、と紙の上に立ち止まった筆から墨が滴り黒点が出来始めた頃、本日の近侍である歌仙がなまえの部屋へと入ってきた。
歌仙は部屋の散らかり具合を見て、顔を顰めた。
「主……これは雅ではないね」
「ごめんなさい、すぐに片付けます」
「こんなにも主を悩ますとは、一体何に苦心しているのかい」
「それは……」
恋の文を書こうとして、と口に出そうとしても喉奥に言葉が詰まり、ひっぱりだそうとしても中々でてこない。
恋はしていないのに、気恥ずかしさから思わず俯いてしまった。
歌仙はもじもじとするなまえを見つめ、床に散らばっているくしゃくしゃになった紙を広げ、はっとした。
「主は恋文を書こうとしたのか」
「違います。違わなくはないけれど、恋文であって恋文ではありません」
「落ち着きなさい、主」
「私は十分に落ち着いています。ただ恋心とは何か考え、それを文にしているだけであって、実際に恋など……その前に恋とは何ですか……全くわかりません……」
「そういうことなら是非僕が力になろう。なんせ僕は風流を愛する文系名刀だからね」
「歌仙は恋をしたことがあるのですか?」
「恋をしたことがあるかは置いといて。形としての恋文について最初は学んでみようか」
「形として?」
それから歌仙による、かつて人々はどのような和歌を残したのか。
かの有名な人物が詠んだ唄は、と長々と説明が続く。
あまりに矢継ぎ早に話すためか言葉に飲み込まれぼーっとしてしまった箇所はあったが、好きなことについて目を輝かせて語る歌仙を見ていると集中して聞かなければならないような気がして、なまえはじっと彼のことを見つめた。
その後、彼の言うとおりに恋文の例文ともいえるものを教わり、何とか恋文らしきものは完成した。
苦労して作った甲斐があったと、紙を手にして達成感に溢れたなまえの瞳は光に溢れた。
それを傍で見ていた歌仙人はふと言葉を零した。
「主は思った以上に乙女であるんだね」
「……乙女?」
夢見心地が一瞬にして冷める。訝しげに歌仙を見つめる。
「私が、乙女……ですか?」
「そうだね、初めて会ったときは落ち着いた方だと思ったけれど、今こうして改めて見てみると女性というよりも少女だね」
「そう…ですか………では、もう少し行動を改めて落ち着くようにします」
「いや、無理に落ち着かなくて良いんだ。わざとらしいのは優美ではないからね」
「出来る限り、善処します」
なまえは手紙を折ると髭切に見せに行くため、歌仙に御礼を述べ、自室を後にした。
なるべく渡すときは一人のときが、と周りに人がいないことを祈りながら髭切を探していると、彼は桜の下にいた。
周りには誰もいないため、今がいい瞬間だと庭へと降りて、彼に声をかけた。
「髭切、例の恋文というものが出来ました」
「おや、意外と早かったね」
なまえの手から恋文を受け取った髭切はそれを広げて読み、すぐに閉じた。
つまらなそうな表情になまえは眉を顰めた。
「どうしたのですか」
「これは君の気持ちかい?」
「いえ、かの有名な歌人の恋文を参考に……」
「うーん……だめだね、やり直し」
「やり直しですか?」
「僕は主のことを想って、恋文を書いたからね。主にも僕のことを考えて想って、文を書いてほしいな」
「それなら髭切の文というものを見せてください」
「うーん……それもだめだね」
「理不尽です……」
「主」
髭切はなまえの後頭部に手を当てると、ぐっと引き寄せた。
「僕宛の恋文を先に他の人に見せてしまうなんて、ずるいじゃないか」
琥珀色の双眸はやんわりと細くなり、髭切の唇がなまえの耳たぶに触れそうになるぐらい近づき、囁かれた声はなまえの背筋を甘く痺れさせ、思わず腰が抜けそうになった。
「もしも嫉妬のあまり僕が鬼になってしまったら、主の手で斬ってほしいな」
「何を馬鹿なことをいってるのですか」
口元に笑みだけ浮かべた髭切は身体を離す。そして視線を斜め上に向けて陽気に言った。
「というわけで、僕の文はまだだめだね」
「……そうですか」
彼を前にするとどうしても調子がくるうなまえは今だに煩わしい胸の鼓動に手を当て、澄ました顔で取り繕った。
いつか髭切を同じような心地にさせたい。
動揺した彼を見て、したり顔をしたい。
じとっと彼の顔を見つめ、脳裏で歌仙の言葉を思い出す。
『主は思った以上に乙女であるんだね』
これは違う、乙女とか、そういうものではない。
なまえは必死に言い訳を考え、頭の中の世界でぶつぶつとそれを繰り返す。
このまま髭切の前にいても埒が明かないのでくるっと踵を返すと背中越しに呟いた。
「次は一人で考えます」
「それは楽しみだなあ」
どこまでも余裕綽々の髭切の声を背で受け止め、なまえは再び机へと向かうのであった。
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「私は私に嫉妬する」
やっと現れた彼女は両手で顔を覆い隠し、その一言だけ残して消えてしまった。
僕は彼女が現れるまでに何千、何億の言葉を考え、花びらが顔を埋めてしまうまで積もってしまうんじゃないかって程この大木の下に座っていたのに。
幸福が段々懐疑へとすり替わるほど気が遠くなる時間だった。
彼女は本当に恋をしたいのだろうか。
彼女の真意を問いただしたくなる言葉はむせ返るような桜の香りに飲み込まれていった。
髭切からの宿題ならぬ恋文について考えるのはいいが、審神者としての本業を見失ってはいけない。
今回から干渉する時代が平安へと移った。時の政府から送られてきた指令書にあった言葉を見て、なまえは顔を顰めた。
『反逆する鬼側につく歴史修正主義者の討伐』
ついになまえの生まれ故郷が戦場となってしまった。
死んだ後、父や母、それに隣人や可愛らしい犬はどうなったのだろうか。
指令書にある言葉から、本当の歴史を歩めば父や母はおろか村の全員が討たれるだろう。
血の惨劇により故郷が消滅する。反逆という文字から、悲痛な叫び声が残響となり、なまえの脳内を揺らした。
審神者が私情で戦を見てはいけないと頭では理解しているが、心には沈鬱の雨が降り注いでいた。
近侍の歌仙に今回の編成について、淡々と命令した。
「歌仙は隊長として他の子たちを宜しくお願いします」
「恐悦至極」 「それと……ここの戦場ですが……」
戦場の様子を見に行くことは可能でしょうか。
なまえの言葉は腹の奥底に飲み込まれる。
審神者が実際に戦場へと赴き、その地に足を下ろすことは禁忌とされている。
こんなことを言っても詮無き事、しかしどうしても気になってしまう。
なまえの視線は宙を彷徨っていたが、歌仙の「主?」との声に気を引き締める。
「敵が以前よりも強くなっていますので、盾兵の装備を重点的に行いましょう」
「盾兵か……確かに実用的だけど、雅さにかけるね」
「今回は守備を強化する予定なので、雅さは求めてません」
「…わかったよ、主のいうことだからしょうがないさ」
なまえから指令書を受け取った歌仙は腰を上げた。
一方なまえは庭にある桜を見つめ、考えていた。
攻撃に重点を置き、一気に攻め立てたほうが苦痛は少ないのだろうか。
守備に強化する、とはいったがあまり攻撃をしたくない本音が見えてしまっているかもしれない。
これからここに敵が現れるたびに戦は起こる。
その度になまえは嘗ての仲間や家族のことを葬る。
雨はやまない。ざあざあと地に染み込むように心の奥底へと滲んでいった。
何度も戦は繰り返される。血の池は干乾びることはない。
燦々としていた日和はいつの間にか重苦しい灰色の雲の中へと隠れてしまい、仄暗いしっとりとした雨が屋敷を包む。
雨音が寝てもさめても身体の内へと響きわたり、嫌気が差した刀剣男子たちは雨がやまないと口々に不満を零した。
「雨がやまないのは、主の心が晴れないからだね」
「私の心が?」
暇つぶしになまえの自室へと来ていた髭切は窓枠から空を見上げた。
「何か理由があるんじゃないかな」
「……生まれ故郷が戦場となるので、少し気が滅入っています。それと父や母はどうしているのか気になってしまい……
「それなら郷の村の様子とか親族の姿はあえて見ないほうがいいんじゃないかな。辛い光景は瞼に焼き付いて中々消えてくれないからね」
「様子を見たほうが早く雨があがると思いましたが、確かに髭切の言うことには同意します」
「雨については……そうだね、そのうちやむと思うよ。主だって何時までも落ち込んでいるわけではないだろう?」
「そうですね、何時までも落ち込んではいられません」
髭切の助言に納得したなまえは村の様子は見ない方向に進みそうになったが、後から自室にやってきた本日の近侍、へし切長谷部にも同じように意見を求めた。
「主が見たいというなら、私が村の近くまで参りましょう。時の政府からもらった水鏡を使えば私の瞳越しに村の光景がわかるかと」
「しかしそれでは貴方を危険に晒すかもしれません」
「いえ、主のためなら何処へでも私は赴きます。それに主の心を悩ますこの雨を晴らすことが出来れば尚更、ご協力します」
「ありがとうございます、長谷部」
結局のところ、好奇心のほうが勝ったなまえの中では長谷部の意見が採用された。
後日、長谷部を隊長に結成された部隊はなまえの生まれ故郷へと派遣された。
今までに五、六回は戦っているため、誰も大きな怪我をせずに勝てるだろうと予想は立てるが、かといって油断は禁物。
なまえは介入する時点や軍の引き際を見極めるため、目の前にある水鏡を覗き込み、気を引き締めた。
この水鏡は一見華美な装飾をした姿鏡に見えるが、鏡の部分に指先で触れてみると水のように流動する。
この鏡を潜れば、過去の世界へといけるが審神者がこの鏡を潜ることは難しい。
少しでも鏡の表面に触れただけで、そこから皮膚が剥がれるような痛みが迸る。
激痛を我慢したとしても、纏わり付く水は審神者の力を徐々に奪い取っていく。
つまり審神者自身が過去に赴くことはその存在意義を失うに等しい。
時の政府から送られてきた資料によると、嘗てこの鏡を潜った審神者の大半は痛みに耐え切れず亡くなった。
辛うじて生き永らえたとしても、反逆者と見做され討伐対象となり、確実にこの世から姿を消している。
禁忌を犯せば死が待っている、と時の政府に宣告されているように感じた。
今回も無事に鬼側の敵を倒し、怪我人も出さずに済んだ。
本来ならこの場で帰還するのが普通だが、なまえは長谷部に鏡越しに語りかけ、村が一望できる場所まで歩いてもらった。
団体で行動すれば、残党に発見される確立が高いため、長谷部一人で見つからず、且つ介入が許されるギリギリの地点まで進んでもらう必要があった。
長谷部が辿りついた場所は切立った崖の上だった。
周りに木々が生えているため、いざとなれば身を隠しやすく、村を見るには理想の場所だった。
長谷部の瞳越しに村を見つめる。
村は轟音と炎に包まれ、ほぼ壊滅状態だった。
女性の劈くような悲鳴が響き渡る。
矢が身体中に突き刺さった死体が地面や壁にへばりつき、目を逸らしたくなる光景だ。
生き残りはいないだろう。
父も母も、可愛がっていた犬も隣人も皆死んでしまった。
改めて突きつけられた現実に心は鈍器で殴られたかのような衝撃を感じていた。
髭切の言うとおり、見ないほうがよかったかもしれない。
少しばかり後悔しかけていたときだった。
ふと新たな悲鳴が近くで聞こえた。長谷部が木の影に潜みながら声がした方向を見る。
それは崖の下にある小道での出来事だった。
一人の女性が少女の手を掴み、必死に山道を駆け上がっていたが、後ろからは立派な鎧を纏った隊長を筆頭に二、三人の兵が後を追っていた。
岩のように屈強な男たちは柔らかい線の女をいとも簡単に飲み込んだ。
手を引いていた女性が振り向く。
辛うじて人の顔がわかった。なまえの母だった。
なまえは思わず小さい悲鳴を上げてしまった。
只ならぬ主の様子に何か察したのか、長谷部は柄に手をかけたが、歴史への介入は必要最低限しか許されていないため見ていることしか出来なかった。
男たちの手は手前にいた少女の髪を掴み、母と引き離す。
振り返り、立ち止まった母の身体を兵士はばっさりと斬った。
身体中から溢れ出る赤褐色は地面を染めていき、目の前で自分の母が絶えた光景に凄まじい悲しみと絶望感が刃となってなまえの心をずたずたに切り裂いた。
彼女の身体は震え、歯ががたがたと揺れる。
少女は母親に駆け寄ろうとするが、髪をつかまれているため、もがき苦しむだけだった。
怒りを剥き出しに暴れる少女を地面に押さえつけるが、それでも抵抗をやめないため、仕方あるまいといった様子の隊長は柄に手をかける。
その刀は見覚えのある刀だった。
でもまさか、と目を見開いたとき、男は片足の脹脛の腱に一太刀いれた。
その瞬間、少女の動きが一変し、斬られた腱を両手で抑え、痛みで顔を顰めた。
ぴくぴくと身体が震えている。
男は刀を振って、血を拭うと鞘に収めた。
やはり、となまえの驚きは確信へと変わった。
しかし、この時代に存在していたのなら、鬼の討伐に参加していてもおかしくはない。
何よりもこの少女がなまえには可哀想だった。
仲良くしてきた村人は皆殺し。
同じ場所へと葬られるかと思えば、殺さず、生された。
彼女は奴隷となって売られてしまうのだろうか。それは死より恐ろしい、生き地獄に違いない。
なまえは憔悴しきった顔でじっとその光景を見つめた。
しかし、少女の顔を見た瞬間、なまえの身体の震えはピタリと止まった。
震えどころか、まるで時が止まったかのように固まった。
ぶわっと冷や汗が滲み、ドクドクと破裂しそうなほど脈を打つ胸の音が鼓膜に直接響いた。
可能性を否定しながらも、彼女はこの少女の存在に違和感を感じた。
月朧のように漂うなまえの生前の記憶の中で、自分と同じ年の子供はいなかった。
つまり。
「違う!」
なまえは頭を左右に振って、必死にこの考えを外に追い出そうとした。病にて死んだ、死んだのだと何度も自分に言い聞かせ、己の心を宥めようと、死に際の記憶を暗闇から掘り当てる。
息が苦しくなって、段々と身体の力が抜けて目の前が真っ暗になる、あの感覚は忘れていなかった。
しかしなまえの双眸に映る光景は彼女のことを嘲笑い、穢し、絶望へと突き落としてくる。
少女の顔は汗と土ぼこりと切り傷でぐちゃぐちゃに汚れ、綺麗とはほど遠いものだった。
それでも見間違えるはずがない。
長谷部の声がするが、まるで水の中にいるみたく全てがぼんやりと聞こえた。
やがて視界がぐるぐると回りに回って、部屋と鏡の中の色がモザイクのように組み合わさった。
ざわざわと人々が囁く声が聞こえる。首を絞められたごとく細く、乾いた悲鳴を上げたなまえの意識はそのまま暗闇の中へと落ちていった。
再び目を開けたときは、布団に寝かされおり、傍には疲れきった顔の長谷部や歌仙、他の刀剣男子たちがなまえをぐるりと囲んでいた。
主が目覚めたことにほっとした刀剣男子たちは口々に安堵の声を上げるが、それに答えるほどなまえの心には余裕がなかった。
何もかも考えられなかった。
夢だと信じ込もうとしても、瞼に焼きついた光景は簡単には消えない。
声を出そうとするが、混乱する頭は五感を閉ざし、指さえ動かすことができなかった。
それでもなまえは何とか力を振り絞って、視線をぐるりとめぐらせた。約一名、いないものがいる。
彼に聞きたいことがある。
けれど、この身体ではどうすることもできない。
なまえは再び瞼を伏せた。
ぐっと意識が身体の底へ沈みこみ、闇が何もかも包んでいった。
月夜が出始めた頃、なまえは目が覚めた。
隣に人の気配がした。視線だけをめぐらせる。
逆光で表情は今一窺えないが、姿形で彼だとわかった。
なまえは喉元に力を入れて、声を紡いだ。
「髭切……」
髭切はなまえの頭を羽が乗っているかのようにそっと優しく、ゆっくり撫でた。
なまえは色のない双眸でじっと彼のことを見つめ、口を開いた。
「どうして、私の足を斬ったの。どうして、私は生きているの」
その瞬間、髭切の手は止まった。悲しみの色をした琥珀色の瞳がなまえを射抜く。
「主、きみは見てしまったんだね。けれど、無理に思い出さなくていいよ。審神者にその記憶は必要ないものさ」
「私は流行り病で死んだはず。なのに、どうして、なぜ、私は貴方に斬られて連れて行かれたの」
「今は疲れ切っているから休まなきゃ。それに君にはここの記憶があるじゃないか、今の君はここでの君さ。ここでの記憶だけを大切にしたらいい」
「私は知りたいの」
「おやすみ、主」
髭切はそういって、なまえの目元に手を置いた。
なまえの目から一筋の涙が毀れる。
待って、と紡がれた言葉は静寂な空気に飲み込まれ、いつしかなまえは深い眠りに落ちていた。