惑う指先は消失をなぞる

 人の世は霞のように薄く儚いものだ。断ち切れぬ絆で結ばれた親兄弟を裏切り、共に生きようと誓った夫婦は片方が亡き者となる。戦乱に荒れる三国を生き抜くためには綺麗ごとばかりいってはいられぬのが本懐だ。花よ蝶よと愛でられた子女はお家のために好きでもない男と結婚し、動乱の中にひっそりと佇むお家に守られ、世継ぎを産むことに専念する。


 そんな世の中に立ち向かう、といったら聞こえがいいが、なまえの場合は女というだけで不条理な運命に一生を終えることに抗い、自分の生きたいように生きることを目指した。元々朱一族の子女であった彼女は出世のため一生を捧げるはずだった呉を裏切り、蜀へと渡った。


 出世のためといったが、彼女はそれだけで呉に渡ったわけではない。ある男の存在があったからこそ、より蜀へ渡る気持ちを強めた。その男の名前は陸伯言、呉の有名な一族である陸氏の跡取りだ。かの豪傑孫策の娘を細君として授かり、才気溢れる将として未来を約束された彼が変わり者偏屈者のなまえとどのような関係にあったのかは、噂好きの呉の女官たちになまえがいなくなったあとも語り継がれたものである。 


 ある女官が言った。


「そういえば、陸遜殿となまえ殿の関係なんだけど、私この前見ちゃったの!あの大木の下で陸遜殿がなまえ殿の髪の毛をこうやってとって、口づけてるところを!なまえ殿も満更じゃないような表情してさ、あんな性格悪いなまえ殿でも陸遜殿みたいに格好いい人と出会えるなら、私も朱然殿との熱い恋愛も夢じゃないかもしれない!」
「なぁに馬鹿なこと言ってるの。大体、陸遜殿には珠のように美しい細君がいるじゃない。あんな美人が隣にいたら他の女に惚れるわけないでしょう」


 小太りの女官が言った。すかさず背が高い女官が口をはさむ。


「でもどうやら、陸遜殿はなまえ殿の賢くて他の女性とは違うところに興味を持ったらしいの、もしも誰とも婚約してなかったら、なまえ殿に伴侶の申し込みをしてたかもよー」
「あぁ、私!思い出しました!噂なんですけど、どうやら陸遜殿なまえ殿に側室にならないかみたいなこと言ったかもしれないらしいですって!」
「それどこの情報よ!」


 その場にいた女官たちは目をぎらぎらと輝かせた。噂好きの女官は続ける。


「この前朱然殿と呂蒙殿の会話をこっそり立ち聞きしちゃってね、やっとなまえ殿が嫁にいけるって朱然殿、すごい安心してたねー」
「でも結局なまえ殿はそのあと蜀に下っちゃったんでしょ?いやーねぇ、忠義のない女って、あーいうのはすぐに他の男に浮気するに決まってるわぁ。それか旦那の資産をわが物のように浪費してさぁ、禍の嫁よ絶対」
「なまえ殿のことだからさ、きっと陸遜殿のことが好きだったとしても、誰が側室になんてなるか、あんたにとっての二番目になる気はない、私は一番目がいい、とか我儘いって、そのまま振ったんだろうなー、本当にもったないなぁ」
「でもなまえ殿に想いをぶちまけた割に、陸遜殿平然としてるわよね。その噂本当なの?」
「うーん…噂だからねぇ」
「こら!あんたたち!またサボって!」



 目を三角にした女官長に見つかった噂好き女官たちは顔色を蒼くして、蜘蛛の子を散らすようにして去って行った。この噂の真相は陸遜か、それとも蜀へと下ったなまえしか知らない。


 一方蜀に下ったなまえだが、あらぬ噂を流されても所詮は終わったことだと平然としていた。彼女の場合、いまだ陸遜が好きだったとしても決して恋しいなどと思ったりはしない。そんな軟な女だったら今頃精神を参らせて家に引きこもっているに違いないからだ。

 加えて、今彼女のいる現状は陸遜のことを考えている暇を与えぬほどの修羅場だ。以前は蜀と呉は友好的な関係を築いていたが、徐州の件、劉備の義兄弟、関羽の死を引き金に関係が悪化。そんな中渡ってきたなまえだったので、呉出身しかも朱一族というだけで陰口を言われたり、泥を投げつけられたりと散々な目にあった。勿論彼女は持前の精神力の強さでそれらを跳ね返してきたが、さすがに耐えきれなくなると、恨み言を思いっきり叫びながら、鬼のような形相で城内の壺を叩き割ったり、最近は紙をびりびりに破いて近くにある炎に灯してにやにやしたりといつも通りの破壊行動を起こしていた。そんな中、彼女に二人、優しくするものがいた。


「ここにいたのか、先ほどの軍議について少し聞きたいことがある」


 一人は姜維だ。彼も魏から渡ってきたということでいろいろと蔑まれたりしてきた。少なからず、なまえも好印象を抱いたが、姜維が自分の名前を名乗るとき「姜伯約だ」といった瞬間、「また伯が来た」と陸遜を思い出し、苦虫をかみつぶしたような表情をしてしまった。伯という文字には呪詛でもかかっているとなまえは思っており、何か絶対に問題が生じるはずだ、と警戒心を忘れずにいた。


「何でしょう。北伐についてですか?」
「北伐についてもだが、呉についての情報も気になる」
「私が言えることはそれぐらいですよ。内情について詳しいことは知りません。なんせあっちでも嫌われてましたからね」
「時期に酷評も収まる、心配はするな」
「姜維殿はお優しい人ですね」


 なまえはどうしても姜維と陸遜を比べてしまっていた。姜維は陸遜と違って軍議でもなまえのことはコテンパンにしては来ない。もちろん、陸遜もその気はなかったが、若きなまえの嫉妬による歪んだ第一印象のせいで、何をしてもコテンパンにしてきているとしか扱われなかった。



 そしてもう一人優しくしてくる人物は月英だ。才女であり、発明に優れている月英をなまえははじめみたときから圧倒され、且ついつも凛とした姿で自信に満ち溢れており、出来れば彼女の下で働きたいと思ったぐらいだった。毎日願ったせいか、月英の下になまえは配属されることになり、以前よりも壺を割る個数も減り、軍議よりも兵器を開発することに熱中していた。とある深夜、灯篭の光を頼りに机に設計図を広げ、兵器の性能向上について悩んでいたとき、もう屋敷に帰ったと思われた月英が部屋に入ってきた。


「まだいたのですか、なまえ。そろそろ屋敷に帰って明日に備えたほうがいいですよ」
「屋敷にもどっても寝るぐらいしかやることがないので。それに寝るのでしたら、ここでもできますし」
「そういえばなまえは結婚はしないのですか?」
「私みたいな変わり者を嫁にしたいというやつがいるわけがないでしょう、それに嫁になったらなったで自分の時間が減ります」
「自分の時間が減るのは確かですが、守りたい、大切な人が出来ることはとても素敵なことですよ」


 月英はそう言うと、「残りは私がやりますから」となまえに屋敷に帰ることを進めた。しかし今更屋敷に帰るのも億劫だったので、その日は月英が作業する後姿を見ながらうとうとと眠りについた。翌朝、起きてみると月英の姿はもうなかった。どうやら、夫である諸葛亮と朝餉を食べているようだ。なまえは体を起こして、伸びをしたとき、誰かが扉をたたいて入ってきた。女官だったが、その女官は呉のスパイであり、一定数このような存在は魏呉蜀のどの国にも紛れ込んでいるものである。彼女は一通の手紙を差し出してきた。差出人の名前は書いていない。訝しげにその紙を広げると三行ほどの短文が記されていた。


「狐花は有毒ながらも生薬として役立ち、扱いは難しいながらもそれを好む存在は少なからずいます。こちらではもう咲かない花なので、遠い地で華やかに生きていることを願っています」


 万が一見つかって自国が不利にならないよう、上手くぼかしてきている。この狐花というのは自分のことなのだろう。差出人はすぐに検討がつく。何だかんだ陸遜のことを一時期好きだったなまえは本心では満更でもない心情だったが、美しい細君と隣に侍らせ、出世街道を歩み、苛烈な環境にいるなまえとは大違いの陸遜のことを思うと、だんだんと腹が立ってきて、手紙をくしゃくしゃにする。



「他に女がいるくせに何を言っているんだ」


 その夜、なまえは懐かしい夢を見る。まだ呉にいるとき、ちょうど荊州に攻めに行く間近の満月の夜。戦地へいく兵士を労う宴が終盤に近づき、酒に呑まれたものがそこら中でいびきをかきはじめる。まだまだ飲めるものは少人数でひっそりと小さな宴をしていた。

 なまえも菩提樹の下で陸遜と杯を交わしていた。正確に言うと、大人数で飲むことが嫌いななまえが月を肴に飲んでいるのを陸遜が見つけ、へそ曲がりなことばかり言うなまえなどお構いなしに隣に座って一緒に呑んでいた。随分と呑んだのか、なまえの頭の中には砂糖のような甘い靄がかかり、陸遜はケロっとしていながらも仄かに頬が赤く、いつもよりも陽気になっていた。なまえは杯に酒を注ぐが、手元がふらつくのか、袖にちょろちょろと零してしまう。


「袖を汚していますよ」
「うるさい。別に洗えばいい。それよりあんたは早く帰って美しい細君の元に戻ったほうがいいんじゃないのー?こんなところで油売ってないでさっさと添い寝しなさいよ」
「そうですね、しばらく私も戦に行きますし、会えなくなりますね」
「じゃあほら、いったいった」
「しかし、私がいなくなったらなまえ殿はお一人で宴を続けるのでしょう?こんな夜更けに女人を一人にしておく訳にはいきません」
「女人って、私のことそんな風に扱うのは陸遜殿だけ。別に他の男なんて私のこと雑草としか思ってないんだから、心配なんてなーんにもない」
「そうですか、私だけなのですね、女人として扱っているのは」
「そう、私は女人、男は違う、女人!どうせ男みたいに筋力もないし、出世にできないし、力もない。家でじっとしているだけの女人!」


 なまえは猫がごろごろと鳴くかのように呂律の廻らない口でそう口走ると、ごろんと地面に寝転ぶ。酒が頭までまわったのか、まるで回転する床に上に寝転がっているかのような感覚を抱いた。陸遜は体を横にして蹲るなまえの髪の毛に指を通す。


「なまえ殿はやはり変わっていますね」
「嫌味?」
「いえ、確かに性格は穏やかで柔らかいとは言い難い……いやその反対の位置にあるものですが、他とは違う……軍議で垣間見える男人すら超越する知性、冷静沈着な物言い、端麗な切れ長の瞳の中にある鋭い光。大人びた印象を与える割に中身は稚児のように純粋で負けず嫌い。そんなところを私は気に入っています」
「さりげなく餓鬼みたいって馬鹿にしてるわね」


 髪の毛を触られ気持ちくなんかないと、頭の中で思いながらも心地よさそうな表情でそのまま大人しくしているなまえ。陸遜もそれを分かっているらしく、そっと撫で続ける。



「そんなところが、私は好きですよ」
「ふーん」
「ですから、私の側室になってくれませんか?」
「ふーん……は?」



 聞き間違えかと思って、体を起こす。酒がまわりすぎたのかと、陸遜を睨みつけようとした瞬間、彼はなまえの頬に手を滑らせ、口づけをする。何がどうなっているのか、酒に溺れたなまえは判断が追いつかず、目を点にしながら固まる。陸遜が角度を変えて、深く口づけようとしたとき、やっと我にかえったなまえは頬を叩くため、手を振り上げたが、その手も悠々と防がれ、頬を撫でていた陸遜の片手は後頭部へと回され、逃げようがなくなった。抵抗しようとするも、体力が並みの女人以下のなまえと華奢に見えて実は力がある陸遜では勝敗は一目瞭然。なすがままにされ、やっとのこと解放され、なまえは脱兎のように離れ、唖然とする。陸遜はそんななまえの様子も予想済みなのか、穏やかな微笑みを浮かべている。


「失礼な振る舞いをお許しを、なまえ殿」
「しっ失礼って、失礼すぎるでしょ……?!」
「そのような反応も実に可愛らしい」
「そうやって、いつも私をからかってさぞかし楽しいんでしょうね」


 頭の中を埋め尽くしていた酒もいつの間にか抜けきっており、先ほどまで揺れていた視界が驚くほど鮮明に見える。


「なまえ殿のことですから、きっと家で汐らしくいろと言われてもきっと一日、いや半日で音を上げるでしょう。私なら、そんなことは言いません。貴方の夫として、仲間として、隣に立っていたいのです」
「は……?酒に……酒に呑まれているのですね。だからそんな馬鹿らしいことを軽々と」
「私の瞳が嘘をついているように見えますか?」


 陸遜の瞳は真剣だ。呉の軍師たちと意見を言い合い、揺らがぬ決意を秘めている、あの瞳だ。なまえは生唾を飲み込む。もしここで、この言葉を受け入れたとしたら。ひねくれ者のなまえにこんなことを言うのは、陸遜しかいない。確かにここで陸遜の側室になったほうが、呉の中での権力は強くなるし、今よりもずっと過ごしやすくなる。自力では補えないところを補える、利点のある案だ。利益だけを考えると、ここで乗っておくのが上策だが、なまえの心の底からは沸々と禍々しいものが込上げてくる。

 ここで側室になったとしよう。側室は側室。正室で且つ孫策の娘である美しい細君には叶わないし、彼女は繊細で清らかな女人だと噂で聞く。こんな側室が出来たらきっと心が病むだろうし、側室になって偉くなってもそれは結局陸遜の力のおかげであって、彼女自身の力のおかげではない。何より陸遜と夫婦になる。自分の股から赤子の頭が出てくる。考えられない。まだ考えたくない。陸遜の言っていることは実に利に叶っている。けれど、私は自分の力で立ちたい。加えてもう勝てない、女人として出世するのは諦めろと言われているようだ。側室になんて、なれない。


 結論が出たなまえは口を開いた。




 はっと目が覚めると、朝日が窓から降り注いでいた。寝汗をたっぷりと掻いたなまえは近くにあった水差しを手に取り、杯に乱暴に入れてぐっと一気飲みする。最悪な寝起きだ。あんな手紙を貰うから、思い出してしまった。あれから引き抜きがあり、蜀へとやってきたが完全に落ち目。関羽と張飛はこの世を去り、残る劉備は怒りに震え、無謀なことばかり考えている。

 しかし呉は蜀が攻めてくることを予測し、魏と宜しくやっている。逃げるようにして去ってしまったが、あのまま呉に残って側室になっていたら、もっと違う未来があった?なまえは手で顔を覆う。私はこの地で一人で立つことを決めたんだ。どうしてあんな夢を見た?せっかく蓋をしていたのに。後悔なんてしていていない。絶対に、していない。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -