コンクリートと青空の間を、キラリと水が駆け抜けた。(もう少しだけ細かくするのならば、バケツいっぱいの水が爆ぜ、一瞬にして蒸発したような、海の表面が太陽に煌めいて、焼けていくような)とにもかくにも、遠くを見渡せば、視界が熱さで歪んだ。
 ――逃げ水って言うんだよ――
 手の甲で額の汗を拭いながら、朧気に、倉間は思い返していた。一体、誰がこのような知識を授けてくれたのだろう。親か、教師か、友人か。けれども、一通り思考を廻らせたところで、誰だって良いことに気が付いた。何故ならば、優先すべきはコンビニで飲み物を買う事なのだから。
 歩く。歩く、歩く。
 黝い道が、えらく長い。
 目の前はぐらり、ぐらりと揺れているし、身を焦がすような熱は建物と地面に跳ね返されて一歩、一歩と足を進める倉間を逃がさないとばかりに纏わりついてきた。
 あああ、水分をとらないから、こうなってしまったんだ。意識が朦朧とする。だからこそ、飲み物が必要だったのに。家の水道水は、ぬるくて、変な味がする。どうしても、店にある、清浄で安全な水が欲しかった。街が、あらぬ方向に捩じ曲がって見える。ああ、ああ!
 南沢さん!!
 今にも崩れそうな倉間の前で微笑む南沢が大きなペットボトルを抱えて立っている。ギラギラ、ギトギトとしつこい陽射しがライトのような役割を果たして南沢を照らす。南沢の手元にピタリと嵌まったペットボトルは表面に細かい汗をかき、凹凸を伝い、南沢の腕に雫を落とした。更にその水滴は南沢の腕を流れ、鉄板のように熱された地面にぼとりと拡がった。
 南沢さん、来てくれたんですね。月山からわざわざ、こんな熱い日にわざわざ! 水を持って俺のところに、冷えて、透き通って、そんなにも美味しそうな水を持って俺のところに! あんた、馬鹿じゃあないですか? こんな熱い日に! でも、でも、俺のためですよね! 南沢さん! 南沢さん!!
「逃げ水って言うんだよ」
 優しい声で喋りながら、南沢はペットボトルの口を捻ると、中の水をドボドボと投げ棄てはじめた。
 倉間は、えっ、と驚いた。みるみるとペットボトルの中身は空気と水の比重が入れ換わり、最後にはからっぽになってしまう。
「ほら、そこの、飛び込めそうなくらいに大きな水溜まりが有るだろ? でも、こうやって一歩進むだけで干からびる。絶対に触れないし、踏めないし、飲めない。蜃気楼の一種さ」
 目の前の南沢が、あの日の南沢と重なった事により、ああ、あんただったのか、と倉間は妙に晴れやかな気持ちになった。
「しょうがない人ですね。南沢さんは、本当にしょうがない。南沢さんは、いても、いなくても、支障がなさすぎる。宝石とおんなじだ、有っても無くても、生きていける。生きていける、筈なのに、なんで、アンタが、俺が、生きていくために必要なものを、もってるんでしょうね」
 南沢がペットボトルを手放せば、コンッと地面が鳴った。あ、ポイ捨て、と思う間も無く、ペットボトルは陽炎に熔けていった。
 倉間が不安定な足取りで、南沢に近付くと、南沢はするりと景色に雑ざり、歪んで爆ぜた。
 倉間は手を伸ばし、何もない空間を掴み、あーあ、と気の抜けた声を出した。
 やがて、倉間は地面に背中から倒れ込んだ。服の厚みなど構わずに、コンクリートが倉間の背を焼いた。それでも、もう、彼には起き上がる体力が残されていない。なにせ、水が、足りないのだから。
 ……そうさ、先輩は逃げ水。
 真夏の、幻想だ。


2012/12/28



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