濃褐色のプールに浮き上がるものをその都度、木の棒で圧し沈めていた。
 薄暗い部屋の中、壊れかけの蛍光灯がチカチカと心もとない点滅を繰り返す。
「ここに捨てるものは、希望だって、夢だって、疎ましさだってなんだっていいさ。棄てれるものは棄ててしまえばいい」
「あなたも、ここに棄ててきたんですか」
「棄てたかもしれないし、そうではないかもしれない。もう、覚えてねえよ」
「大したものじゃあなかったんですね」
「記憶の有無が価値の重さを決めるなら、そうなんだろうな」
 南沢は霧野の話し相手を務めながらも、両手で棒を握り、水面からハミ出した我楽苦多たちを押し戻していく。
「たまに、浮かんだものを拾い上げていくやつがいる」
 ぬぷり、と白い頭を見せてサッカーボールが浮かび上がった。黒と白とで色分けをされた球体は液体に塗れて、鈍く光ってみえた。
「これなんかは、最近よく持ってかれるよ」
 南沢は棒の先端で球体をつつく。たったそれだけの些細な動作で、球体は波紋を描きながら、ゆっくりと奥に流れていった。
 霧野はその球体を目で追いながら言ってみた。
「ここは、焼却炉のないゴミ捨て場ですか」
「さあ、どうだか。保管庫、墓場、都合の良い女の膣、底無し沼……様々な呼び方をする奴らがいたし、夜の海、だなんて格好をつけて呼んだ奴もいた。捨てる場所に変わりは無いけれど、棄てるものや、それを捨てる理由で見え方は変わってくるのかもしれないな」
 ははっ、と霧野は笑ったが、南沢の話が面白かった訳ではない。特にそれと言った返事が浮かばなかっただけである。
 もう会話をする事も無いだろう。
 そう思いながら霧野は床に座り込んだ。眼前には、四角く掘り下げられた空間がある。そこには、不透明で、酷く汚れた水が並並と満たされ、その中を、無数の我楽苦多達が游いでいる。
(……魚)
 先程の、夜の海、という言葉を思い出していた。
(例えば、この世界が海ならば、俺達は魚なのかもしれない。でも、このプールに潜むガラクタみたいに、総ての魚は異なっている。鮫がいれば、金魚がいて、鯉がいれば、ピラニアがいるかもしれないし、はたまた、たい焼きが游いでいるかもしれない。どれも皆、秘めた魅力を持っているけれど、それらが同じ水で、果たして、その魅力を出しきれるだろうか)
――――同じ水に異なる種を游がせれば、どちらかが有利になる事は確実なのにも拘わらず、同じ水にいるからいけないんだ。異なる種を知らなければ、自分が劣っているという事実にも、こんなに汚い思考にも、一生涯、気付かずに済んだのだから!――――
「それで、お前は何を捨てにきた」
 南沢の一言で、霧野は慌ててプールから眼を引き剥がした。何故だか仄暗い熱を募らせる胸を押さえ付けながら、霧野は南沢を見上げた。
「俺は、見学に、来ただけですよ」
「いいや、お前は捨てにきた。ビニール袋をぶらさげて、お前は捨てにきたんだ」
 霧野は思わず立ち上がり、南沢への距離を詰めた。
「捨てれるわけ、ないでしょう。これは、一番大切なものです」
 言いながら、霧野の掌に力が籠ってくる。
「大切かどうかは、棄てたら分かるさ」
 南沢は木の棒を手放すと床に投げ捨てた。カランと、実に短く、簡単な音がした。
 空いた両の手でもって、南沢は霧野の拳を包み、優しく手解き、霧野が何年間にも渡って持ち続けた荷物を取り上げた。
「さ、まずは確かめてみると良い」
 大きなビニール袋は、見開かれた霧野の目の前で、綺麗な王冠を描くと、記憶の水底に投げ込まれていった。



2012/10/25




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -