きっと神童は、親の見繕った相手と結婚をして、勿論その頃にはサッカーもしていなくて、ピアニストか、はたまた社会人か、そこまでは分からないけれど、少なくとも神童は俺がいなくたって平気で、それに気付くときには俺達は一緒にはいないのだ。


 俺達は狭い狭い箱の中にいた。
 そこには、当然お互いしかいなくて、二人以外に人間など存在しないのだと考えていた。更に、お互いがいなければ生きていけないとも思っていた。
 箱の中で神童はいつもピアノを弾いていた。有名な楽曲から、神童の独自の調べまで、種類は様々で俺を決して飽きさせる事は無かった。勿論、同じ曲を延々と奏でても、飽きなかっただろうけれど。
 あるとき、神童はピアノを弾くことを止めてしまった。疲れたのではなく、箱の外から音が聴こえるのだと言う。
 初めに、神童は白い壁に耳をぴったりと当てた。それから、壁には皹が入っている事に気付く。
「霧野、たぶん、外がある」
 神童の目は期待に満ち溢れていた。
 俺は不安だった。確かに、外は有るのだろう、でも、果たして外に出ても良いものか。そこに地面は有るのか、恐ろしいものはいないのか、分からない事が多すぎる。そんな場所に、出てしまって生きていられるのか。俺はその主旨を伝えた。
「だけど、もうこの壁に亀裂が入ってしまってるんだ。遅かれ早かれ、きっとここは壊れる」
 ごもっともだ。
「それに、外がどんなところでも、霧野がいれば大丈夫だと思うんだ」
 恐らく、神童は、俺がなんと言おうと外に出るだろう。そして、仮に神童が出たくなかったとしても、ここは、外側から砕けるのだ。神童が外という空間を認識してしまった時点で、もうこの場所は長くないのだ。
「分かったよ、じゃあ、出ようか」
「ああ」


 神童は、毎日壁を引っ掻いて、亀裂を拡げようとしていた。少しずつ、少しずつ、もどかしく、壁は傷を付けていく。
 それと同じくして、外からの音も分かりやすくなってきた。音は、次第に少年の声であると認識出来た。
 俺は、神童の爪や掌が荒れていくのをじっと見詰めていた。神童は声がよく聞こえる分、早く出なければと焦りを感じていたのだと思う。疲れが見え始めてきた。
「神童」
「…………」
「どうしても、出たい?」
「……出たいな」
 そっか、と俺は短く返した。
「俺自身が出たいのも有るけど、外から聞こえるんだ。俺を呼んでる声が。だから、これ以上、待たせたら、いけない気がして」
 神童は気付いているのだろうか、段々と、俺を見なくなってしまったこと。自分から、俺に話し掛ける事が無くなったこと。神童は、俺がいなくても平気だと言うこと。
 何より、神童には狭すぎたのだ。
 それならば、俺が、出してあげよう。神童には、様々な可能性が潜んでいるのだから、それをもっと広い場所へ、神童を望む者のところへ、送り出してあげよう。
 所詮、俺は、神童の通過点だったのだ。
「神童、どけて」
 すがり付くような神童を鴨部から引き剥がした。そして、少し後ろへと追いやってやる。
 俺は、黒く、闇に艶めく、とても重い、神童のピアノを抱え上げると、壁を目掛けてぶち込んだ。


 こうして、俺達が果てだと思っていた場所は壊れたのだった。
「ふ、ははっ、」
 その声に背後を振り向くと、神童は笑っていた。
「こんな風に、壁は壊せたのか、霧野は、すごいな」
 外と同化した空間はとても明るく、神童の顔も今まで以上にはっきりと見えた。俺も、神童の笑顔に釣られて口許が弛んでしまう。
 そして、俺は少年の声で再び前を見た。
「お待ちしてました、キャプテン」
 少年は俺を通り抜けて神童に駆け寄ると、そのまま神童を連れていってしまった。声に違わず、元気が良く、真っ直ぐとした少年だった。手を引かれるままに走っていった神童の顔が、楽しそうだったので、俺はすっかりと満足してしまった。
 目を閉じて、深呼吸をして、そして目を開く。ここは、色に溢れている。神童達の姿は、もう見えない。
 これからは、俺の隣に神童はいない。同様に、神童の隣にも俺はいない。けれど、淋しいとは、思わなかった。
 神童が俺を置いて行ってしまったように、俺も、神童がいなくても平気だったのだ。
 粉々に崩れた箱を見る、こんなに狭い場所に、大きなピアノを入れて、よくも二人で過ごせたものだ。広い広い外を知ってしまえば、もうここでは暮らせない。
 俺は地面を踏み締めるようにして、神童とはまた、違う方向に歩き始めた。




「霧野センパイ、久し振りですね」
「お、狩屋、久しぶり。というか来ないかと思った」
「先輩の奢りなんでしょ、来ない訳無いですよ」
 生意気を言いつつも狩屋の表情は柔らかかった。狩屋が席に着いたのを確認してからウェイトレスに苺のショートケーキとキャラメルマキアートを頼んだ。
「どうも、よく分かりましたね」
「どうせいつもこれしか頼まないだろ」
 確かに、と狩屋は笑った。
「で、今日はどうしたんですか?」
 俺はすでに用意されている自分のアメリカンコーヒーを一口飲んだ。
「元気かなあって思って。メールくれないし」
「高校なんて単調ですし報告する事もないですよ、相変わらず天馬くんも信助くんもサッカーサッカーうるさいし。先輩こそ、神童先輩とかの話無いんですか」
「あー……」
「歯切れ悪いですね」
「神童とはもう会ってないんだ」
 えっ、と狩屋が驚いた。
「神童は大学に行って、俺は就職して、生活のリズムも、話も合わなくなっちゃって、話が合わないって、変だよな、前は、沈黙も痛くなかったのに」
 お待たせしました、言いながらウェイトレスが丁寧にカップとケーキを机に置いて行った。
「昔はいがみ合ってたお前とは何だか楽で良いし、こうしてカフェでお話ししたりしてて、なんか、思い返すと、本当に変な感じ……」
 狩屋はケーキを突きはじめた。美味しそうに咀嚼をしている姿を見るとなんだか安らいだ。狩屋に安らぐ、だなんて疲れているのか、価値観が変わったのか。
「人生ってそういうものかもしれませんね。その店で一番だと思っていたケーキが、他の店に行くともっともっと美味しいものがある事に気付く。でもって、だんだんと一番が上書きされて、昔を振り替える事があっても、またそれをわざわざ食べはしない。現金なんですよ」
「そうかもしれないな」
 コーヒーを飲み終えた俺は、狩屋のキャラメルマキアートを横取りして飲んだ。初めて飲んだけれど、苦味と、甘ったるさが上手い具合に共存していて美味しかった。これからは、コーヒーだけではなくて、こちらも飲んでみようかな。
 俺は狩屋の言葉に改めて頷いた。





2011/12/5








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