ピアノを弾いていた。
 一つ一つ、決して間違える事の無いように、丁寧に指を滑らせていく。拓人は嫌な汗を掻きながら、必死に鍵盤を叩いた。
 拓人に求められている事は、楽しそうに音を奏でる事ではなく、目の前の楽譜通りに白だとか、黒だとかを圧していく事だった。
 観客は勝手に入退室を繰り返すのだが、拓人はひたすらにピアノを弾き続けなければならなかった。客がいる限り、拓人に失敗は許されない。
 楽譜は次から次へと運ばれて来て、拓人が、ああ、これで終わりだと思った瞬間に差し替えられる。拓人は練習もした事の無い旋律を無理矢理に弾かされた。
 これは、拓人がピアノを弾ける状態である以上、辞めることも、中断をする事も出来ないのである。
 ……あえて、この曲に名前を付けるとするならば、「完璧」と言ったところだろう。





「残念だったな」
 そう言いながら南沢は花瓶の花を差し込んだ。マンダリンオレンジのガーベラが病室の色調を少し、明るくしてくれたようだった。
「それからこれ。寝てばかりで退屈だろうから、気が向いたら見ろよ」
「何から何まで、すみません」
 南沢から手渡されたDVDは二種類有り、一つはお笑い芸人のコント集、二つ目は胸の大きなコスプレナースがエロティックな体勢で表紙を飾るアダルトビデオだった。
 どちらも拓人には縁遠く、不必要な物に思えた。拓人は二枚を重ね、アダルトビデオを下にし、ベッドに備え付けられている机の上に置いた。
 南沢はパイプ椅子に腰を落ち着かせると拓人と目線を合わせた。
「林檎、剥いてやろうか?」
「そんな、南沢さんにそこまでして貰う訳には……」
「そう、じゃあ、あまり長く居ても迷惑が掛かるし帰るわ」
 立ち上がろうとする南沢を拓人は慌てて引き留めた。
「待って、待って下さい」
 何? と南沢が返す。
「本当は、残念じゃ、ないんです」
「……安心した?」
 南沢が聞けば、拓人はシーツを握り締めながら頷いた。
「試合に出られなくなって良かったって、思いました。天馬がキャプテンになって、心底、楽になったんです」
 拓人は、いつだって完璧でなくてはならなかったのだ。神童財閥という銘柄が、重く、重く、幾重にもなって、のし掛かってくるものだから、拓人はその銘柄の服を上手く着こなさなければならなかった。そうして、その服を着こなす為の最低条件が、完璧でいることだった。
「試合に出れば、人の目に付く」
 拓人は細々と、語り始める。
「――――それは、父の関係者だったり、母の友人かもしれない。もしくは、全く関係の無い人の場合もある。それでも、全員、共通して、神童家の人間として俺を見る。俺は、神童家に泥を塗ってはいけない。ミスのない、完璧な采配で皆を導かなければならない。革命を起こした今、失敗を勝敗指示のせいには出来ない。怖かった、俺は、期待から、完璧から外れる事が、怖かったんです」
 聞きながら、南沢は僅かに眉を寄せた。
「それ、俺に言って良かったのか」
「だって、南沢さんは、誰にも言いませんから」
 断定だった。
 確かに、南沢は拓人の本音を誰かに告げ口する気など無い。けれど、南沢が問いかけた理由はそこでは無かった。
「お前がそれを誰かに言う事で、お前は完璧から外れるんじゃないのか」
 そう言われると、拓人は愛想笑いをした。
「こんな事を考える時点で、俺は、完璧では無かったんです」
「……それは、もう、おめでとうとしか言えないな」
 南沢は、内心、拓人の話に飽きていた。
 何より、今更、DVDの中身が実は南沢自身のサービスショットを纏めた物だとは言い出せない雰囲気に少しだけ困っていた。
「え、何がおめでとう、なんでしょうか」
 拓人の顔付きが急に険しくなったので南沢はすかさず肯定的な言葉を述べた。
「お前が不完全だと思うところを含めて、お前は完璧だよ」
 そのまま台詞を繋げていく。
「神童は、怪我をした事によって、試合に出られなくなった、でも、妬まずに、皆を健気に応援するキャプテンという、完璧の一部に収まる箇所をやっているに過ぎねえよ」
 言い切ると、拓人は不安そうに訊ねてきた。
「完璧の、一部、南沢さんには、俺がまだ完璧に見えますか?」
「当たり前さ」
 お前は神童家のお人形として完璧だよ、と南沢は心の中でこっそり付け加えておいた。





 南沢は重たい扉を押して、静かに会場へと足を踏み入れた。
 狭い通路を前へ、また一歩前へと進めば、ようやく空席を見付ける事が出来た。南沢は他の客に迷惑が掛からぬよう、そうっと椅子に座る。
 ステージには、涙を滲ませながらピアノを叩く少年の姿が有った。
 南沢は、少年を哀れに思った。
 この闇に潜む視線は少年を貫けど、少年を拘束する者など一人としていないのだ。
 少年は楽譜を無視し、立ち上がり、人の波を掻き分け、会場から出る権利を持っているのに、その事にまるで気付かない。
(どうして、弾くのをやめるって選択肢が出てこないんだか)
 それでも、継ぎ足されていく楽譜を破ってやるような優しさは、南沢のどこにも存在しないのである。




2012/03/26



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -