おそらく世界は、誰か一人の為に廻っていて、皆はその誰か一人の為に帳尻を合わされているに違いない。
昔は、世界の中心は自分であると多くの人が思っていたはずだ。
俺は小学生の時点で、世界は自分のものではないと自覚したが、中学生になった今、益々それを感じてしまう。
次から次へと、実力を持つ、化物みたいな一年生が入部をしてくる。自慢のサイドワインダーはすっかり霞むし、後に覚えたバリスタショットだって、色々な人が、俺より上手にそれを使いこなしていた。
この通り、サッカーという狭い枠で世界を括っても、俺は端の方にいるのだ。中心だなんてとてもじゃない。
そして、端から中心を見据えたときに、神童がいたのである。
俺は、神童を見たときに、あ、世界はこいつの為に出来ている、と思った。
悔しいけれど、同じ年で有りながら、俺達の間には溝が在り、エレベーターならば隣接もしていなければ階級も違うようなものだった。
神童は、ピアノが弾ける。(この前、霧野から賞を貰ったという話も聞いた)サッカーが出来る。(我らがキャプテン、天才ゲームメイカー)顔も良い。(山積みのラブレター)育ちが良い。(豪邸、所作も美しい)頭の出来も素晴らしい。(神童がテストで90点以下を取るところなど見た事が無い)そのくせ、良い意味で、欲もない。がめつくないと言う事だ。
(もっと、目立つような汚点が有れば、俺はこいつに劣等感を感じる事など無かったのに)
不意に、【神は死んだ】という言葉を思い出し、神が生きていれば、神は人の上に人を作らなかったのだろうか、と考えた。
2012/03/14