霧野が神童を自宅へと招き入れるのは実に、年単位で行っていない事であった。
 霧野の住んでいるアパートは、とても古臭い。古臭いと言うのは、優しい表現である。真っ直ぐに言えば、汚い。ぶつぶつとした壁は排気ガスやらで煤けているし、塗装もあちこちで剥げている。階段も錆びていて、手摺なんかは腐って転げ落ちそうだった。
 部屋はどうかと言うと、張り紙は前の住人の貼っていたポスターの日焼け跡だとかが残っていた。床に関しては絨毯を敷いてしまえばもう何も気にならなかったが、どこか古ぼけた押入れの引き戸や、リモコンで操作するのが主流になってきたにも関わらず未だに糸で電源を引く白熱灯だとかは隠す事が出来なかった。
 それでも、私物はきちんと整理されているし、家具の配置だって悪くはない様に思えた。
 そう、本当は、このような家は有り触れていて、霧野が引け目を感じる必要なんてどこにも無いのである。
 ただ、霧野は、神童が来ると、急に惨めになるし、彼にこの部屋を見られるのが恥ずかしかった。
 今日だって、霧野が自ら誘った訳では無い。ただ、調子が優れなかったので学校を休んだら、神童がプリントを届けに来てしまったのである。
「霧野、大丈夫か」
「ありがとう神童。昼間ずっと寝ていたから大分楽だよ」
「そうか、霧野が休むなんて珍しいから心配した」
 座布団に座る神童を見て、霧野は形容しがたい気持ちになった。その座布団は、神童という人間が存在しなければ、恐らくは買わなかった物である。霧野は普段、それに座る事は無いので座布団はふかふかとしていた。
「これ、給食費のお知らせとか有ったから持って来た方が良いと思って」
 そう言って神童が鞄から取り出したのは、そのプリント、たった一枚だった。
 それから神童は、英語の39頁をノートに写す宿題が出ているだとか、部活での出来事を報告し始めた。
 神童は先程のプリントを机に置いたが、机に置かれたカップに関してはまるで興味が無いようだった。
 カップの中身は、念の為にと買い置きしていた、四角い缶に入ったフォションの茶葉(霧野にとっては高い出費で有った)を使って淹れた紅茶だった。
 茶葉の質が良くとも、水は、水道水である。水道水を薬缶に注いで沸騰させた湯で蒸らしたものだった。
(飲みたくないんだろうなあ)
 霧野は益々申し訳なくなった。
 給食費の詳細が載ったプリントだなんて、別に急ぐものでは無いのだ。神童は、単に、霧野の具合が見たくて、プリントを口実に家を訪ねてきてくれたのだ。
 改めて神童を見れば、その背景には薄く黄ばんだ壁が見えた。画鋲の跡が所所に残る、薄汚れた壁だった。
 まるで、合成写真だ。
 神童に、この部屋は似合わない。
 神童には、目の細かい濃密なカーペットや、シャンデリアや、高級感に溢れた、そういうものが似合うのだ。どこまでも、相応しくない。
(こんな部屋に住む俺も、神童に相応しくない)
 暫くして、時計を見た神童が帰ると言ったので、霧野は快く神童を送り出してやった。
「今日は来てくれて本当にありがとう。明日はきちんと行くから。じゃあ、送ってやれなくて悪いけど、またな。気を付けて」
「霧野も、お大事に」
 そうして神童は、礼儀正しく、お邪魔しましたと言って出ていった。
 霧野は、神童が階段を降りる音を聞いてから、扉の鍵を施錠した。
 サムターン式の錠は、ガチンッと、安っぽい音を立てた。
 霧野は自室に戻ると、神童が手すら触れなかったカップを持ち上げ、台所へと足を進めた。
 紅茶はとうに冷えている。




2012/03/07



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