バスの中で足を踏まれた。
 今思い出しても胃が煮えくり返るような出来事である。
 別に、倉間だって心が狭い訳では無い。寧ろ、近所のコンビニエンスストアくらいには広いと言えよう。
 倉間をこんなにも苛立たせてしまう理由としては、足を踏んでいった、加齢臭の酷い年老いた女性に有る。
 皺だらけで、愛想が無く、頬と一緒になって垂れ下がった口角、この世の不幸を背負ってしまっていて、近付いただけでこちらまで気分が重くなりそうなくらい醜い顔だった。
 老女は手摺にしがみ付き、バスの振動に耐えていた。そんな老女の真後ろに、倉間は黙って立っていた。
 倉間の鼻腔に強烈な加齢臭が届いた。倉間は顔を顰め、なるべく息をしないようにしていた。
(早くこのババア降りねえかな)
 そう考えたとき、道を左折しようとしたバスが大きく揺れた。
「……ッ!」
 老女は揺れに耐えきれず、手摺から手を離すと、倉間の足を踏み付けた。
 更に、ドスンッと倉間に向かって全身でぶつかってきた。
 こんな汚ならしい女に触れてしまった!!
 倉間は不快な気持ちになったが、老女を怒鳴り付ける事はしなかった。
「いってえ」
 代わりに倉間はそう言った。本当に痛かった訳では無い。ただ、老女に対して、謝れ、今すぐ謝れ、という水面下の脅迫に違いなかった。
 しかしながら、老女は体勢を立て直すと、謝罪の一言も無く、相変わらずのヒキガエルみたいな顔を張り付けて、そのまま次の停留所で降りていった。
 女は、バス停のすぐ側に有るアパートへと入って行った。
 倉間は、怒りに震盪していた。
 あんな女と同じ空間に居合わせて、同じ空気を吸い、更に女の排出した空気を吸ってしまったかもしれないというだけでも腹立たしいのに、寄り掛かられ、足を踏まれ、謝っても貰えないだなんて……
 けれど、バスで喚き散らすような事など、決してしてはいけないと解っている。



「だから、ババアのアパートが爆発しますように!!!! って、俺は車内で祈ってました」
「……爆発って」
「ババアが扉の前に立つでしょう? 次に鍵を回す。ノブを捻る。扉を開ける。玄関に足を踏み入れる。その瞬間、ドッカーンとですよ!」
「アパートなんだっけ? なら、他の住人まで吹っ飛ぶだろ」
「そこは、偶然にも皆外出してるんですよ。そもそも窓に[入居者募集中]だなんて紙が大量に貼り付いている所でしたし、殆ど住んでる人は居ないんじゃあないですかね」
 南沢は興味が無さそうに、ふうん、だとか、へえ、だとか返していたが、急に閃いた様に言った。
「俺が爆発させてやろうか?」
「ええっ!?」
「気に食わないんだろ。ライターで燃やしてきてやるよ」
 南沢の目が案外本気で有ることに倉間は畏怖を感じた。倉間は南沢がライターに火を点し、アパートの隅に着火をする所まで想像してしまった。
「止めろってば! 冗談に決まってるだろ! 冗談ですってば!!」
「俺も」
「え?」
「俺も冗談」
 南沢が空気を和らげるように微笑むと、倉間は深い溜め息を吐いた。
「南沢さん、質悪い」



「それでは、午後のニュースを御伝えします。本日、午後5時53頃、稲妻町でアパートが炎上しました。被害者は○○D江さん72歳1人との事です。幸い、他の住居者は皆、外出をしていたと言う事で被害には至らなかった模様です。近隣住民からの話では、何かが破裂し、窓ガラスが割れる音がしたと言う情報が寄せられており……」
 倉間と南沢は驚きながら、テレビを眺めていた。
 先程まで二人は、借りてきた映画を観つつクッキーだとかさやえんどうだとかを皿に広げて摘まんでいた。
 映画が終わってしまったので、通常のテレビ番組に戻したところ、飛び込んで来た情報がこれで有った。
 液晶に映し出されているアパートは間違いなく、この前、倉間が爆発を願った建物で有ったし、亡くなった女性も、年齢的にそうだと思われる。
「倉間、お前、凄いな」
「俺、すごいっすね」
 南沢が称賛すれば、自賛の声が返ってきた。
 いやはや、飛んでもない偶然が有ったものだ。それとも、倉間の祈りと言う名の呪いが届いてしまったのか。
 沈黙が続いた後、倉間が言った。
「南沢さん、キスしましょう」
「突然だな」
「そうなんです。物事って、突然なんですよ」
 倉間が出した結論とは、老女の爆発は倉間の人生において何の関わりも無く、損にも成らず、得にも成らないと言う事だった。
 今現在、地球の裏側で何が起きていようと、倉間にとっては、南沢とイチャつく事の方が重要に思えた。





2012/02/28



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