マサキは愕然とした。
 それは、地下鉄に乗っていたときの事だった。
 一組の家族連れがマサキの前に立っていた。ごく有り溢れた光景である。
 車内が、大きく揺れた。
 女の子がふらついたとき、母親が咄嗟に手を握り、父親が華奢な身体を抱き留めたのだった。揺れを過ぎ、また平淡に電車が走り出すと、自然に家族連れは一定の距離に戻った。
 それを見て、マサキは心が毟られるみたいな気持ちになったのだ。
 知らない、俺は、あんな当たり前の優しさを知らない。転んだら、手を引いて立ち上がらせてくれるような、そんな優しさが当たり前のように蔓延している関係を知らない。
 自分自身でも気が付かなかった傷を、未知の通行人に抉じ開けられたみたいであった。


 マサキは地下鉄を降りると、駅構内を見た。
 沢山の人々がそれぞれの場所に向かって歩いていく馴染みの風景が、急に知らないものに思えた。
 眠る子供を抱えて歩く男、慈愛に満ちた眼差しで腹をさする女、幸せそうな親子、ねえママ、今日のごはんはなあに? どうしようかなあ、○○ちゃんは何が良いの? ええっとね、ええっとねえ、カレーが食べたいなあ。お父さん、週末遊園地に行こうよ! だめだめ、お父さんは仕事で疲れてるんだからねだっちゃだめ。良いさ、構わないよ、○○のためなら頑張るさ。
 今まで気にも止めなかったが、耳を済ませばこのような会話がいくらでも聞こえてきた。
(喋るな、話すな、そんな、ホームドラマみたいな会話をするなよ! 台本でも読んでるのか? 俺にも見せてくれよ、気持ち悪い、白々しい! 俺にも、読ませてくれよ)
 一度意識をしてしまえば、マサキは情報を遮断する事が出来なくなってしまった。気休めにと、壁に貼られたポスターに目を遣る事にしたが、それを見てマサキはまた気分を害す事になる。
[愛は地球を救う]
 ポスターには大々的にそう書かれていた。そこにはいかにもという感じのする結束力の強そうな家族の写真が拡大印刷されていたのだ。
 最近は慣れたと思っていたマサキであるが、流石に今日は受けた衝撃が大きかった。昔から、どうも駄目なのだ。家族だとか、優しさだとか、愛だとか、そういうものが。




「愛とは、無償のもの。愛とは、耐えられるもの」
 その日、天使の羽が生えた霧野が現れた。霧野は白い布を身体に巻き付け、晒された足首は赤く腫れていた。
(あれは、俺が蹴った場所じゃあないか)
 DFのポジションに、霧野なんて必要ない。そう判断したマサキが霧野を蹴落とす為に傷付けた場所に違いなかった。
「狩屋、俺、平気だよ。神童に迷惑をかけない為だったら、いくらだって我慢が出来るんだ。分からないだろう、お前には。人を貶める事しか考えないお前には! 大切な人に尽くす幸せが! 目に見えない愛が!」
「キャプテンのため? 馬鹿言わないで下さいよ! 先輩はキャプテンの親友を全うする自分が好きなだけでしょう?」
「そうやって愛の存在を否定していればいい。愛は孤高なもの。生涯愛されないお前に、低い位置にいるお前に、崇高な愛など理解出来ないさ!」
 かわいそう! かわいそうな狩屋! でも俺もお前を愛してやらない。そもそも、お前を無償でだなんて、見返りも求めずに愛する事が出来る人間だなんて、どこにもいない!!
 耳障りな声で霧野は嗤った。こんなにも悪意に満ちた笑いを、マサキは初めて知った。愛を知る人間とは、愛されない人間に対して、なんて、なんて残酷なんだ。




 当然のこと、霧野が天使だなんて、ある訳がなく、マサキはカーテンの隙間から差し込む、鬱陶しいくらいの朝陽で目が醒めた。
 頬が涙で濡れており、水分を吸った髪がべったりと張り付いて、マサキを不快にさせる。
[愛は地球を救う]
 そんな触れ込みが流行っているのだ。
 俺一人を救えない「愛」とやらが、地球を救えるものか。
 マサキは再び、布団に潜り込んだ。出来る事ならば、眠って、そのまま目覚めたくなどなかった。
 愛に溢れた世界は、マサキにとって、とても生きづらいものである。





2012/02/12



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