∴喰らひ櫛/加州清光(下)

「……………。」


文机の上に並べた合計五つの櫛は、見れば見るほど似ている。

そのくせ、他の四つは出所が分からないと来たものだから、どうにも不気味だ。


主の前では強がって『預かっておく、』と言ったはいいものの、一旦気味が悪い、と認識してしまった物を近くに置いたまま眠れるほど自分の神経は太くなかった。

主の髪を元のように切り揃えて部屋まで送り届け、自室に戻ってきてから。

いくら寝ようとしても寝られず、底知れぬ気味悪さを紛らわせたい一心で櫛を見張っているのだから、間違いない。


───この櫛は危ない。

眠らずにいたせいで妙に冴えきった頭が、ごくありふれた結論を弾き出すには、そう時間はかからなかった。


昼間の一件といい、先程の一件といい。
明らかに常識的な範囲内で説明できない事ばかり起こるから、そう判断するのは当然だろう。


一瞬だけ。

『こんな気味の悪い物が、これ以上主に危害を加えたりしないうちに、壊してしまった方が賢明なのではないか、』という考えが過ぎったが、どうにか思い留まった。

もしこの櫛が『壊すと、持ち主や使った者にとんでもない禍が降りかかる。』というような代物であったなら、それこそ危ない。


とりあえず、こういった妙な物への対処法が分からない上、自分の専門外の分野である事も手伝って、これ以上この櫛に直接的な関わりを持つのは得策では無いと思ったのだ。


「(とりあえず、朝一番に青江か石切丸に…いや、こういうの、大典太とか太郎太刀の方が詳しいんだっけ…?)」


薄ら寒い恐怖に占拠された頭は、同じような考えを脳内でぐるぐると回し、精神的にも、はたまた肉体的にも疲れているはずなのに、加州を眠らせる事は決してしない。


───結局、そのまま夜は更けていき。

はっとして文机から顔を上げると、いつの間にやら夜闇はどこかへ姿を消し、部屋の中はほんのりと明るくなっていた。


どこからか鳥の鳴き声も聞こえ、本当に夜が明けたのだな、と分かり、安堵の溜息を漏らす。

一人ではあったけれど、特に自分が恐れたような事は無く、無事に夜を越すことが出来た。


…問題は、主の方だが。

自分の方には何もなくとも、彼女の方に実害があったりしたら…と思うと、もうじっとしていられなかった。


一晩監視下に置いていた櫛を。

あれ程気味悪いだ何だと思っていたそれを全て掴み取り、無造作に寝間着の懐へ突っ込むが早いか、清光は立ち上がった。


障子を雑に開け放ち、一歩、また一歩と廊下を急ぐ。

決して、走る等という事はしない。
しかし、歩く、と言い表すのもどうかと思うような速度で、加州は一人離れを目指した。

当たり前のように誰とも擦れ違わないが、それもちょっとおかしい。


胸騒ぎがした直後、突如足の裏に痛みを感じたので、しゃがんで足の裏を見ると、何か細い物が、自らの足の皮膚を突き破り、刺さって血が出ていた。

今更ながらに、足袋もはかずに出て来てしまった事を悔やんだが、今はこんな小さな怪我なんかに構っていられない。


ほぼ無表情で足に刺さっている物を引き抜き、寝間着の裾を破いて応急処置をしてしまってから、それをまじまじと見てみると、どうも既視感がある。

僅かな思考の後、例の紅い櫛の歯によく似ている事に気が付き、眉間に皺が寄った。


血がついてさらに鮮やかになったそれを忌々しげに投げ捨て、更に歩みを速める。

途中で通った中庭の花壇の近くに何かが落ちていたので、足を止めて注視すると、思った通り、自分が持っている………懐に入っているのと全く同じ、紅く丸い櫛だった。


いや。

よく見ると、櫛はそこら中に落ちていた。


草葉の陰。
履物を置いておく場所。
離れへ続く廊下。

本当に、気にすれば気にするほど大量に。
しかも、全く同じ櫛がボロボロ落ちているから、気味が悪いどころではない。


朝日に照らされたそれらは、害のない骨董品のように見えるかもしれないが、夜闇と一緒に消えず、いつまでも残っているそれが、よりいっそう有害な物として認識出来る。

鏡を見ずとも、自分が青い顔をしているのが分かるくらいだ。

とにかく、急いで離れへ向かう。


…やっぱり、離れに近づけば近付くほど、櫛の数は多くなった。

しかし、それらを気にしていたのではキリがないので、加州はそれらを足で避け、時に踏みつけながら、どうにか彼女の眠る部屋の前まで辿り着く。


───いつもは、かっちりと閉められているはずの障子が開いていた。

そこから恐々覗いてみると、昨日まで綺麗に片付けられていた執務室は、足の踏み場がないくらい、紅い櫛で埋め尽くされていた。


畳の上は勿論、文机の上、本棚の隙間、マグカップの中等。

思い付く所全部にばらまき、詰め込んでみた、というような有様だ。

誰がやったのか分からないし、これといって思い当たる節もない。


「(…誰もやってないんだろうな、多分。)」


頭の中ので沸き上がってきた疑いようもない閃きに、意図せず息を飲む。

異常な空間に気圧されながらも、どうにか部屋へ踏み入り。
途中、幾度か櫛を踏みつけるうち、何かぬろりとした物に足の裏を撫ぜられたような…気がした。

そちらは無視を貫き通し、どうにか部屋を半分まで横切ることには成功した。


しかし、奥の間に続く豪奢な襖も半開きで、いよいよ恐ろしくなってくる。


外の明るさとは真逆に、奥の間は真夜中のように暗くて、ここからでは中が見えない。

しかも、その隙間から、白くて長い…酷く痛んで、所々ガチャガチャとした繊維のような物が、敷居の上へ伸びていたので、やたら怖かった。


最初のうちは、何かの切れ端がたまたまそこに乗っているだけだろう、くらいに思っていたが、近付くにつれて、血の気が引いていくような感じがする。

いや。
本当のところ、そうではないかな、とは思っていたけれども。


息を詰めて数歩。
襖の前まで来て、敷居の上のそれを確認すると、やはり主の髪だった。

…それも、夜中に切り落とした物よりもっと傷んで、色の抜けた毛髪だ。


額に浮いてきた汗を拭い、髪を辿るようにして恐々中を覗いてみると、そこは執務室と同じような有様になっており。

唯一違ったのは、寝台の上へ彼女が横たわっているくらいだった。


嫌な予感の通り、彼女の髪の毛はまた伸びていて、生え際から胸の辺りまでは艶々として黒く、綺麗なのに、そこを境にして徐々に茶色く変化し始め、終いには白髪のようになって、こちらの方まで投げ出されていた。


更に驚いたのは、彼女の髪に食らい付くようにして、所々に紅く丸い櫛が絡まっている事だ。

櫛が絡んだ所からは『じゅるじゅる、』と。
まるで液体でも啜っているかのような音が聞こえ、それに比例して、櫛が絡んだ場所は徐々に色を失い、少しずつ痛んでいく。


それとは逆に、櫛は己の紅色を益々輝かせてポロリと髪から抜け落ち───驚くべき事に、その紅を鈍く輝かせながらやや横に広がったかと思うと、次の瞬間、ぬろんと二つに分かれた。

その調子で、二つが四つに、四つが八つに…という具合にどんどん増えていくのを確かに見て、意図せず間抜けた声が出る。


「…は、」


嘘だろ、

そうは言ってみたものの、嘘などではないのは明白である。


見たこともない現象に理解が追い付かないからか、加州は小さく溜息をつき。

次の瞬間、畳の上へ広がる彼女の髪を無造作に掬い上げ、そこかしこへ絡み付いていた櫛を一つ一つ外しにかかった。


絡んだ物は、ゆっくりと時間をかけて解きほぐし、忌まわしい紅を次々と畳の上へ放って…もちろん、彼女の髪は片腕に抱え、櫛が寄ってこないようにしながら作業を続けていく。

自分でも何を思ってそんな事を始めたのかは分からないが、その淡々とした作業に没頭していたのは確かだ。


時計など見ていないから、どれくらい時間が過ぎたのかも分からない。

髪の中に入っている櫛が無いか手で触って確認し、目に見える範囲の物も取り除いてしまってから不意に顔を上げると、寝台の上の彼女が薄らと目を開けていた。


「…あるじ、」


大丈夫!?

髪を抱えたまま反射的に声をかけるものの、彼女からの反応は無い。


「ねえ、」


聞いてる?大丈夫?

堪らずに傍へ寄り、その白く滑らかな感触の頬を軽く 叩くも、彼女の瞳がこちらに向けられる事は無い。


───もう、精神的に限界だった。


「あるじ、主………!」


ねえ……ねえってば。

華奢なその肩を掴み、やや強めに揺さぶる。


本当に、何だって良かった。
難しくても良い、意味不明な事だって構わない。

加州自身が今一番欲していたのは、他でもなく、主からの反応だけだ。


半分自分のせいではあるし、彼女をこんなわけの分からない怪奇現象に巻き込んでしまった自覚は大いにある。

だからこそ、心身共に無事であるなら…どんな形でも良いから、それを示して欲しかった。


ところが、逼迫した彼の精神に追い打ちをかけるかのように、彼女はいきなり呟く。


「………………くし、」


「えっ、」


櫛なら、もう全部取ったはずなんだけど…。

そう言おうとした途端、彼女は目だけを動かしてこちらを一瞥し、今までびくともしなかった体を自ら動かして寝返りを打った。


突如こちらに向けられた背中に、呆然としたものの、彼女の首の後ろに、何か赤黒い物が髪に紛れているのを見付けてしまう。

脈打つような。
彼女の動きとは全く異なった動きを見せるそれに、加州は今度こそ悲鳴を上げそうになる。

…結局、吸い込んだ息に言葉が乗せられる事はなく、ひゅう、と喉が鳴っただけで終わったが。


びくびくしながら項に掛かった黒髪を退けると、静脈から出た血液を集めて固めたような…やけに濁った赤色の櫛があり。

他の櫛よりも少し大きなそれは、彼女の白い項と髪の生え際へ、深々と差し込まれていた。


「(主の言ってる『櫛』って、多分これだよね…?)」


他に櫛が無いか。

再度確認するものの、これ以外は特に見当たらないから、恐らく間違いない。


畳の上に散乱しているどの櫛よりも色は濃く。

『紅』というよりは、むしろ『黒』と言い表す方が適切なくらいの濃さで、あからさまに禍々しい物である、と分かるような悪趣味な色合いには、閉口せざるを得ない。


試しに、櫛の端と端を摘まんでみると、それは生きているかのように生温かく、まるで抜かれる事を拒むかのように時折細かく震える。

…出来ることなら、こんな物には極力触れていたくはない。
これなら、蜂須賀や千代金丸が使った後の洗面台を覗き込む方がマシなのではないかと思うくらいである。

それでも、これを取り除かない限りは、事態が動かないのは明らかで、加州はごくりと生唾を飲み込んだ。


ぱっと見、髪が櫛に絡んでいるわけではなさそうだから、ただ引っこ抜けば良いだけだろう。

ごく簡単に考え、彼は再度端と端をしっかりと持ち、一息に引き抜いてしまおうと力を込めた。


───しかし、いくら力を込めて頑張った所で櫛は全く抜けず、びくともしない。

余程彼女から離れたくないのか。
櫛が全力でしがみついているような感じがして、加州は尚焦る。


どうしよう、どうしよう…。

どうしようもなくて、ただただ櫛に力をかけ続けていると、不意に『バキッ…、』と鈍い音がして。


はっとして手元を見ると、無理に力をかけられ、限界がきたらしい櫛が真ん中から割れていた。

力を入れずに、すうと櫛を引くと、今度は簡単に髪と項の間から抜く事が出来た。


急速に熱を失い、自分の手の中に収まったそれを呆然と眺め、誰に教えられたでも無く、櫛が絶命したのだな、と悟る。


「(そうだ、主は…?)」


大丈夫だろうか?

唐突に思い至り、櫛を畳の上へ投げ捨て、寝台に手をついて、のろのろと彼女の顔を覗き込もうとした途端。

頭部に、激しく殴打されたような強い痛みと衝撃を感じ、彼はその場に倒れ伏す。


急速に薄れていく意識の中、頭皮を生温い液体が伝うような感じがして、顔を顰めた。

もしかしたら、頭から血が出ているのかもしれない。


それを認識してからすぐ。
目を開けているにも関わらず、視界が狭くなり、暗転していく。

刀種の関係もあり、今までは暗い場所に対して別段恐ろしさを感じる事はなかったが『太刀や大太刀は、いつも夜戦でこんな気持ちを味わっているのか、』と絶望的な気持ちになった。


無意識のうちに主を探して手を伸ばした際に、今度は脳天に衝撃が走り、それきり加州の意識は途切れた。


***


最初に俺と主を見つけたのは、その日夜警の長をしてた籠手切号だったんだって。


夜警明けに主の部屋の前を通りかかった際に襖が開いてて。

中を見たら、奥の間の方も開けっ放しになってたから『何かあったんじゃないか、』って、かなり気を揉んで奥の間を覗いたら、頭から血を流して畳の上に倒れてる俺がいるわ、主は真っ青な顔で震えて熱出してるわで、びっくりしたらしいよ。


それから、俺と主は即病院送り───って流れになったみたいだね。

うん、結局、お互いに何も無くて本当に良かったんだけどさ。


そういえば、さっきこんのすけから届いたメール、見た?

そ、石切丸と青江の現場検証の結果。

…まだなんだ。
うん…その、結論から言うとさ。
何が何だか分からないらしいんだ。


さっき言った通り、俺が一人で主の部屋に向かった時は、本丸中に櫛があって、主も櫛の中に埋もれるみたいにして寝てたし、髪の毛にかなりの量の櫛が絡まってた、って言ったじゃん?

主もそれを体感してて、だから俺に『くし』って言った…って所までは、俺達二人の共通認識で間違いないでしょ?


でもさ、籠手切号も。
石切丸も青江も、皆『そんな風にはなってなかった。』って言うんだよね。

それで、主が夜中に持ってきてくれた四つの櫛も、確かに俺の懐に入ってたはずなんだけど、それすら見つからないらしいし。


主の部屋に落ちてたのは、俺が元々持ってた紅い櫛が割れてたの一つだけだったって。

だったら、俺と主が見て、触ってたあの大量の櫛は一体何だったんだー…って話だよね。

それでもって、俺は一体何に頭を殴られて、現在進行形で朝も夜も頭の包帯とガーゼ新しいのにしなきゃいけないわけ、って感じ。


幻覚って言われればそれだけで片付いちゃうような気もするけど、あの場所自体が、あの時間帯に、丁度普段の本丸から隔絶された空間になってて、怪奇現象が起きやすくなってた、なーんて奇想天外なパターンだったりして。

…いや、ごめん。
そこはあくまで俺の勝手な憶測だし、何か確信があって言ったわけじゃないんだけど。


『あんな事があったなんて、』って。主も信じられない?
…正直言うと、俺だって信じられないよ。

まー、怖い思いした後だし、怪奇現象はこれでお腹いっぱい、ってね。


…………その、本当にごめんね。
俺のせいで、嫌な思いさせちゃって。

実際、俺だけじゃなくて主にも実害出ちゃってる時点で、謝って済む事じゃないのは分かってるんだけど…。


何?

『許してあげるよ、』って、主どんだけ優しいの。
もー…ありがと。

石切丸にかなり怒られちゃってさ、落ち込んでたんだけど、ちょっと元気出たかも。


あ、そうそう。
あの櫛はさ、政府の方でも結構色々調べたらしいんだけど…特におかしな所は無かったんだって。

あったにしても、俺が壊しちゃったせいで何が何だか分からず終いって事になるみたい。


念のために、大典太が処理してくれるみたいだけど。

どんな処理するのかは、聞かない方が良いって言われちゃったから、聞いてないんだ。


色々引っ掛かる所はあるけど、退院したら1週間ずーっと禊ぎとお祓いと反省文作製かー…。

それも、二人仲良くって。
俺はともかく、主まで反省文書かせるって酷くない?


しかも、パソコンやらスマホも持ち込み禁止で、手書きで。
最低合格ラインが原稿用紙70枚以上とか、いつの時代だって話ね。

戦場でうっかり時計落としてきちゃった時の反省文より酷いよ。


…え?『1990年代から2000年代初頭における、反省を促すための典型的な手段、』って。

主、詳しいね。
あー…うん。主のひいお婆ちゃんがその世代の人なわけね。


あ、マニキュア?

『赤以外付けてるの珍しいね、』って?


うん、あんな事があった後だし、当分赤は見たくないなーって思って。

今日は白っぽい色にしてみたんだよね。


なんか変な感じだけど、たまにはこういうのも可愛いでしょ?

…いや、冗談で言ったつもりなんだけど。
誉めてくれるんだ?

ありがとう。


───それにしたって、紅い櫛はもうこりごりって感じ。

うん、もちろん。
いくら良品でも、あんな怪しい露店からはもう二度と物なんか拾ってこないよ。


そ、神に誓って。

もう、あんな風にはなりたくないし、主の事も巻き込みたくないから…ね?


『喰らい櫛』end.


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