∴喰らひ櫛/加州清光(中)

『伸びきった髪をいい加減どうにかしたい。』

『どうにかして髪を軽い感じに見せたい。』


唐突に訪れた衝動に突き動かされ、目につく範囲にあった鋏を手に取り、自らの髪を切り揃えるという凶行に至った。


…彼女は、鏡台の前に備え付けられた腰掛けに座ったまま、ばつが悪そうに弁明した。

『ごめん、』と呟いて項垂れた彼女に従って揺れた毛先は、相も変わらず不揃いでいっそ気の毒なくらいだったが。


「あー…うん…まあ、それはもういいんだけど、さ。」


何でこんなになっちゃったかなぁ…。

ごく小さく呟いたつもりではあったが、主はそれを聞き逃さなかったらしく、浮かない顔で鏡台の方へ向き直り、鏡越しにこちらを見つめる。


───どうやら『髪を触って、どうなっているのかを確かめて、』という事であるらしい。

それに従い、大人しく髪に触れて梳いてやると、気持ちが良いのか、彼女は小動物のように目を細めた。


何度かそれを繰り返すと、一部だけ妙に短い部分がある事に気が付いてしまう。

外側から見れば分からないが、触ってみるとはっきり分かるくらいには、かなり短かった。


恐らく、振り返った拍子に凄い切れ方をした件の部分だろう。

触っただけでも分かるくらい、ものの見事に斜めに切れているから、思わず冷や汗が出る。

…下手をすれば、彼女の髪型は確実にベリーショート一択だった。


幸いな事に、他はそれなりの長さがあるから、どうにか前下がりのボブくらいには出来るだろう。

今の彼女に一番似合う髪型を思い浮かべ、加州は主の膝の上に乗ったままだった事務用の鋏をひょいと持ち上げた。


「髪…ちょっと整えるけど、良い?」


「……………。」


無言のうちに、彼女が僅かに頷いたのを確かな肯定と取り、髪を切り揃える作業を始めた。

鋏の動きに従い、元々太腿の辺りまであった髪がはらはらと畳に落ちる。


思い起こしてみると、彼女が審神者になりたての頃はショートカットが流行っていて。

どこへ行っても、彼女を含め大半の女性は、審神者だろうが、政府の事務だろうが、しばらくの間頑なにショートカットを貫いていたのを思い出す。


ただ、綺麗なショートカットを維持するにはそれなりに手間とお金が掛かり、金があっても暇がない審神者達の間では、だれが流行を塗り替えるでもなく、自然とロングかミディアムが主流になっていったが。

僅か数年前の流行り廃りを大層な物であるかのようにしみじみと思い出していると、今までずっと黙っていた彼女が、神妙な顔付きで口を開く。


「ねえ、加州。」


「何?」


手を止めぬまま返すと、鏡越しに見えた瞳が不安気に揺れる。


「その…怒ってないの?私が、自分で髪を切って、こんなにしちゃった事。」


毎日、髪の手入れは加州がしてくれてたでしょ?

だから…。


言ったはいいが、そこから先にどう繋げるべきか思い付かなかったのか、彼女は暗い顔をして俯く。

まるで、叱られるのを待つ子どものような様子に軽く吹き出し、彼は手を止めた。


「そーね…確かに手入れはしてたけど、別に怒ってないよ?」


いつもと何ら変わらぬ口調でそう言えば、彼女は驚いたように目を見開く。


「───もしかして、疑ってる?」


「………。」


聞くまでもなかった。

彼女が『本当の所はどうなんだ、』とでも言いたげにむくれるので、加州はまた笑みを溢す。


本当に、主は分かりやすくて可愛いと思う。
…たまに頑固で子どもっぽい所もあるけど。


「考えてもみなよ。」


そう前置きして『この髪は主の物で、それを好きにする権利はその持ち主にある。』という事。

それから『自分は、主の許可を取って髪を触らせてもらっていただけ、』という事実をはっきり伝えれば、彼女は額に皺を寄せるのを止めた。


互いに思っている事が伝わった所で、はたと。

今まで櫛を使わずに髪を切っていた事に気が付き、慌てた。


よくぞここまで手櫛で何とか出来たな、と自分の器用さを自覚すると共に、背筋がすぅ、と冷える。

これ以上櫛無しで鋏を動かすのは止めた方が賢明だ、と判断し、一旦鋏を主に預けて辺りを見回してみても、こういう時に限って欲しい物が見当たらない。


仕方なしに『櫛がどこにあるのか、』と彼女に問おうとして前屈みになった所で、自身の胸ポケットから、何かが落ちた。



───櫛。

鮮やかなその紅を見逃すはずもない。

軽い音を立て、切り落とされた黒髪の上へ行儀良く着地した櫛を眺め、加州は眉をひそめた。


…というのも、この櫛は本丸に帰ってきてすぐ、油紙に包んで自室の文机の上へ置いてきたはずだったからだ。

暑さのせいで幻を見ていた、とでも言われればそれまでだが、自分の記憶を幾度振り返ってみても、櫛を胸ポケットへ入れた覚えなどなく、油紙から出した覚えだってない。


さて、悪戯にしては些か趣味が悪すぎるが………。


こちらが疑心暗鬼に陥っているうち、彼女はいつの間にやら櫛を拾い上げ、その鮮やかな色に魅入っていたようだ。

彼女の白く柔い手に持たれた櫛は、自分が持っている時よりもっと色鮮やかに見えたし、例えるなら、元々それが彼女の為にわざわざ誂えられた持ち物であったかのようによく馴染んでいた。


ただ、髪が短くなったせいもあり、その様はやけに子どもっぽく。

それでいて楽しそうに見えたもので、加州は、自身の肩に入っていた力が抜けてしまったように感じた。


「それ、綺麗でしょ?」


さっき露店からもらってきたんだ。

何の気なしに話を振ると、彼女は『もらってきた』という言葉に過剰な反応を見せる。


「…どういう事?」


「どうもこうも…そのまんまの意味だけど?」


お店の好意と、品物がワケありってので、タダだった、って事。

嘘はついていないし、何ら後ろめたい事は無い。


自信を持って答えると、彼女はどこか腑に落ちない顔をしてはいたが、どうにか頷いてくれた。


「丁度良いし、それ使って仕上げちゃうね。」


貸して。

そう告げれば、紅い櫛はすんなりと自分の手元へ返ってくる。


さて、まだ一度も使ってはいないが、どれ程の品なのか。

ちょっぴり期待しながら彼女の髪を梳かすと、細かな歯を通した部分から、これまでお目に掛かった事が無いほど艶やかで綺麗な黒髪が零れだし、呆気に取られてしまう。


───正直『ワケあり』とされているような品物だから、期待などしていなかったが。

よもや、これ程までの良品だったとは。


そこで櫛に対する印象はコロリと変わってしまい、加州は終始機嫌良く彼女の髪を梳いていた。


***


その日の夜。

昼間の疲れもあり、深く寝入っていたものの、自身の体が揺さぶられるのを感じて目を覚ました。


視界が悪い中での戦闘もこなせるとはいえ、やはり暗闇に目が慣れるには一定の時間が掛かる。

赤い瞳を幾度か瞬かせ、ようやく物の輪郭が見えだした頃───布団の真横に、自身を揺り起こした何者かがくっつくようにして座っているのを見付けた。


この時程、自身の刀種を恨んだ事は無い。
太刀や大太刀が一寸先も見渡す事の出来ないような夜闇の中。

長髪の誰かが、そこに居た。


「─────っ!?!?」


咄嗟の事に叫ぼうとすると、相手の手がすかさず口元を覆い、寸での所で声が体内に押し戻される。

その直後、耳に『加州、私だよ、私…。』という囁きが聞こえてすぐ、素足で逃げ出していた落ち着きが戻ってきた。


「主…?」


口を覆った手が離れたのを見計らって問うと、髪の間から妙に白い顔がこちらを覗き、何度も頷くので、一安心する。

とりあえず起き上がって明かりをつけると、元の長さよりも大分髪の長い彼女が力なく畳の上に座っているものだから、さらに驚いた。


「………どうしたの、それ。」


さっき短く切った…はずだよね?

一応、そう問いかけると、彼女も『確かにそうしてもらったね、』と答える。


「何でこんなことに、」


「私にも、分からない。何だか妙に喉が渇いて、水を飲もうと思って起きたときには、髪が凄く伸びてて…。」


今までにない事で、どうすればよいのか分からず、ここに来てしまった。

それだけ言って、彼女は俯いた。


申し訳なさそうな顔をする彼女は、何だかとても窶れて見える。

疲れている、と言われればそこまでかもしれないが、昼に髪を切った時と比べてみても、あまりに具合が悪そうに見えたので、少し心配になった。


…それにしても、髪が短時間でこんなに伸びるだなんて聞いた事がない。

刀剣男士の場合であれば、戦闘で妙な切れ方をした髪でも、手入れの箇所によっては綺麗に元に戻る、と説明出来るのだが、人間の場合、同じ現象はまず起こり得ないだろう。


畳の上へ広がる彼女の髪の一部を戯れに掬い上げると、何故かあからさまに傷み、毛先に行くにつれて色が薄くなっていく…というような有様になっていて、思わず顔を顰めた。


「───そういえば、」


私の部屋にこれを置いていったのって、加州?

訝しげな問いと共に彼女の寝間着の袂から差し出されたのは、自分の手元にある物とそっくりの、紅く丸い櫛だった。


…そんな、まさか。

先程経験した違和感と似たような物を感じて、加州は必死に自身の行動を反芻する。


そんなはずはない。
アレは、髪を切った後、確かに自分が持ち帰ったはずだ。


しかし、さっきと同じような事になったりしたら…。

ひやり、と冷たい汗が背中を伝った。


目の前に差し出されたままのそれから目を背け、文机の方を見やると、元のように油紙に包まれた櫛が澄ましていたので、思わず安堵した。


「……俺の櫛じゃないよ、それ。」


形も色も、気味悪いくらいそっくりだけどね。

自分でもみっともないくらい怯えているのを隠そうとして、なるべく明るい調子で言ったのだが、彼女はそれを聞いて青くなった。


「そう…なの?」


実は、この他にも櫛があってね…。

その言葉と共に、彼女は袂から、先程出して見せた物とまるきり同じ形の紅い櫛を三つ取り出し、加州の目の前に並べた。


「四つも同じ櫛があって…びっくりしたんだけど。これ、全部私の髪に引っかかってたんだ。」


それを聞いているうち、自身の眉間に皺が寄ったのが分かる。


どうして、自分が持っているのとまるきり同じ櫛が四つも主の元にあったのか。

心当たりなどもちろん無い。

かといって、彼女が嘘をついている、なんて事もないだろう。


いきなり伸びた髪に、増えた櫛…と、あまりに奇妙な現象ではあったが、頭で考えても分からない現象が起こっているのだとしたら、とりあえず動いて恐怖心を紛らわす他ない。

我ながら無茶苦茶だ、とは思ったが、これ以外に方法もない気がして。


加州は、狼狽える彼女の手をしっかりと握り、勤めて明るく言葉を発した。


「まあ、伸びちゃった物はしょうがないし、もう一回切っちゃおうよ。」


あ、その櫛は何か怖いから、俺が預かっとくね。

かなり無理をしたのが透けて見えるような申し出であったが、ぎこちないながらもどうにか頷いてくれたので、ほっとする。


預かった櫛を全て文机の端に追いやるが早いか、加州は鋏を取り出し、また手際良く彼女の髪を切り始めた。


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