▼ §どうか儚んで、/冨岡義勇
*架空の病気のパロディや、嘔吐等の描写、夢小説味の強い表現が含まれるため、苦手な方は閲覧をお控え下さい。
*名前変換を使用しない場合、名前は全て『瑠音』で統一されます。
生きるか死ぬか。
何年経っても平の隊士という身の上から逃げ出せぬ自分にとって、過酷すぎる任務がようやっと終了し、体を引きずるようにして宿屋への道を急ぐ。
当然、今は紳士淑女が出歩かぬ時刻であるために、僅かに閃くガス灯の灯りの元、とぼとぼと歩く影は一つしか無い。
ぼろぼろの体を引き摺り、ぬとりと纏わり付いてくる…熱を孕んだ真夏の夜の空気に、舌打ちを一つ。
けれども、むっとした空気の抱擁が止む事はなく、彼女はただ無言で足を動かした。
全身は軋むように痛み、口の中には血が滲んでいる。
「…なんで、」
いつもこうなるんだろう。
理由は瞭然だ。
単に実力が無いのだろう。
瞬発力が無い。
判断が遅い。
力が弱い。
精神的に脆い。
運が悪い。
努力が足りていない。
───もっと簡潔に言えば、絶望的に剣士としての素質がない。
いつものように物思いに耽っている最中、突然に激しい吐き気が込み上げたので。
彼女は慌てて近くの薄暗い路地へ飛び込むと、しゃがんで身を小さくし、口元へハンカチーフを押し当てる。
「(……何で今、)」
顔を顰め、吐き気が治まってくれる事をひたすらに願うが、それは叶わなかった。
……何度か嘔吐いて。
ついに堪り兼ね、ハンカチーフを取り落として浅く息を吸い込み。
直後、何とも形容しがたい声を絞り出しながら地べたに手を着き、空っぽのはずの胃から上がってくる液体を吐き出した。
一定の間隔で息をし、嘔吐き。
短く声を上げながら胃液を押し出すのを繰り返すうち、それに鼻へ抜けるような青臭い匂いが混じり始めたのに気が付いて、彼女は目を見開く。
「(これは、)」
いけない。
そうは思ったが、毎度思うだけで止められた試しは一度も無い。
精一杯の力を振り絞って土まみれの手を口元に持って行き、上がってくる物を押しとどめようと試みたが───再びやって来た強い吐き気に勝てず、地面に突っ伏してだらしなく口を半開きにし、太く短く嘔吐いた時。
胃から口の中へ、何か柔らかくて青臭く。
それでいて、形のある物が一つ…また一つと、次々上がってきて。
たまらず、彼女は自らの口内へ指を入れ、歯列に引っかかったそれを一つ引き摺り出す。
「……………………。」
今し方摘まみ上げたそれを眼下に晒し、溜息が出た。
何も入っていないはずの胃から上がってきたのは、本来人が食べるとは到底思えぬような物。
まさに『今咲いた、』と言わんばかりに花弁を開き、目に染みる程清廉な色をした夕顔の花が、静かにこちらを眺めていた。
「(───またか、)」
特に驚くでもなく、彼女は自らの体内からさも当然であるかのように這い出してきた一輪の花を無言で見つめ。
続いて、まだ口内に残っていた花を吐き出し、一瞥する。
通りのガス灯の放つ鈍い明かりに照らされ、唾液と胃液の絡みついた白い夕顔の花弁は、やけに生々しい光を放っていた。
顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしたまま、酷く虚ろにそれらを眺めているうち。
またやって来た吐き気の波に飲まれ、色気もへったくれもない声を上げながら、ぽとり、ぽとりと白い夕顔の花を吐く。
吐いているのだから、苦しいのは当たり前。
けれど、その苦しさが日常になりつつあるのを不気味に思いながら、俄に目蓋が上がりにくくなってきたのが分かって慌てた。
慌てはしたが、依然吐き気はどうにもならず、夕顔はどんどん沸いてきて…いつしか、彼女は地面に横になり、しゃくりあげるようにしながら夕顔を吐いていた。
朝と夜の境目のために、紫色になり始めた空は、見上げても到底手が届きそうもない高さだ。
眠いような、気絶する直前のような。
全身の力が抜けていくのを遠くに感じながら最後の夕顔を吐き出し、それきり何も分からなくなった。
***
不意に眩しさを感じ、目をこじ開ける。
何度か瞬きをして、目を擦り…ようやっと確りしだした視界から入ってくる情報を噛み砕くより先に、彼女はほっと息をつく。
「…まだ生きていたんだ、」
ああ良かった。
そう思うのは、近頃の悪い癖だ。
辺りには吐き出した夕顔が散らばっているでもなく、地面の上へ寝転がっているわけでもない。
目に映るのは、夕顔を模したような白。
壁も、寝かせられている寝台にも、着せられている病衣らしき物も全てが白く、彼女は一瞬目眩を覚え…ここは蝶屋敷かと思い至る。
恐らくは誰かがここまで運んでくれたのだろうが、あいにくと誰がそんな事をしてくれたのかまでは皆目見当もつかない。
それにしたって。
慣れてしまえばどうという事は無いが、さっきの今で白い物に囲まれるというのはどうにも辛く、ざわざわと鳥肌が立ち始める。
更に悪い事に、今までなりを潜めていた吐き気がまた頭をもたげてきたので。
咄嗟に、吐瀉物を受ける皿か、盥のような物が近くにないかと探し始めるが───それらしきものは見当たらない。
…かくなる上は、窓から吐くしかないか。
煮詰まりすぎた頭が極論に辿り着いた時、ふと。
部屋に取り付けられた扉の外から控えめな音が聞こえている方に意識が向く。
トントン、と軽く扉を叩く度、幾らか間を置き。
けれども『中へ入っていっても良いか、』と静かに伺いを立て続けている誰かの姿が目に浮かんだので。
やや戸惑いながらも『どうぞ、』と件の誰かに声を掛ける。
すると、果たして。
扉を開け、中へ入ってきた人物の顔を一目見た途端、彼女は頬を上気させて、ばっと視線を落とした。
鼓動は早くなり、上手く呼吸が出来なくなる。
「具合はどうだ、」
頭上から何の前触れもなく放られた言葉に感極まり、答えられぬままどうにか頷くと『そうか、』とだけ返される。
こんな些細なやり取りですら、彼女の心を舞い上がらせるには十分過ぎる出来事であった。
────彼女の寝かされている部屋へ入ってきたのは、一目見たその日から恋い慕って止まない、冨田義勇という名の隊士だったのだ。
見た目も然る事ながら、実力も兼ね備えた男…きっと、小説に書かれるような『美丈夫』というのは、彼のような男性の事を指すのだろう。
というか、彼に出会う日まで、美丈夫がこの世に存在する、なんて事すら疑わしく思っていたわけなのだが、それ自体はどうでも良い。
何より、あの冨田義勇が。
わざわざ自分の様子を見に来てくれた、という事実さえあれば、御飯が三杯は食べられそうだった。
こんな事を考えている間にも、彼は何やら一生懸命話をしているようだったが、彼女はそれを殆ど右から左へ聞き流してやり。
たまに彼の顔をチラリと見上げては顔を赤くし、すぐに下を向いて。
いかにも『聞いております、』と言いたげにもっともらしく首を縦に振り、分からない話に相槌を打っていた。
そのうち、彼は一つ溜息をつき、こんな事を言い出す。
「先程も言ったが、今回の怪我は致命的だったそうだ…運良く意識が戻ったから良かったが、次は無い。今後は杖が無ければ歩くのにも難儀するだろうが……。」
途中まで頷きながら聞き、彼女はぼんやりと理解する。
「(ああ、私は…。)」
私は、彼から鬼殺隊を退役するようにやんわりと勧められているのだな。
体は思っていた以上にぼろぼろで、もうどうにもなりはしない。
いや、そんな事は別に良い。
でも、物理的にもう彼に会えなくなるのか、と思うと、そちらの方が悲しくて堪らなかった。
いつの間にか溢れ出ていた涙に気が付き、彼は戸惑いながらも肩に手を置いてくれる。
「…俺がこんな事を言うのはおかしいかもしれないが……お前は、とてもよく頑張っていたと思う。」
「…………………。」
「鬼殺隊を抜ける事にはなってしまったが、それを恥じる事は無い。『お前のような隊士が鬼殺に携わってくれた事を誇りに思っている、』とお館様が仰っていた。」
「………………。」
固い皮の張った彼の手が、そっと背中を撫ぜ。
…続いて、酷く不器用に彼女の頭を何度か撫で、彼は静かに部屋を出て行った。
彼の残り香を肺腑の奥まで吸い込み、間もなくして。
今まで黙りを決め込んでいた吐き気が込み上げてきて、彼女は低くくぐもった声を上げるが早いか、また喉の奥から夕顔の花を絞り出す。
今度は人目を憚る事もなく、彼女は辛そうに嘔吐き、涙を流しながら夕顔を吐き続ける。
大好きな。
恋い慕って止まなかった冨岡に会えてとても嬉しかったはずなのに、今はとても悲しかった。
自分の体がぼろぼろになっていた事も、鬼殺隊を退役する羽目になった事も、別にどうという事はない。
そんな事は、些事に過ぎない。
鬼殺隊を止めた後だって、手伝いをしたいと言えば彼に会う事は出来るし、それ自体も彼に会う為と思えば苦にもならない。
それもこれも、恋い慕う冨岡という男のためになるのならば、どんな事だってしてみせる。
けれど。
………けれど。
「やっぱり、やっぱりそうなのね…冨田さん、私の事覚えてないんだわ。」
頭を掻きむしるように抱え、何度も嘔吐きながら、彼女は涙を流して独りごちる。
あれは四年前の満月の夜。
たまたま通りかかった先で鬼に襲われていた彼女を助けてくれた男が居た。
その男こそが冨田義勇であり、彼に『一目惚れした』という至極不純な動機に突き動かされ、彼女は鬼殺の隊士になったのだ。
鬼は怖かったし、刀は重くて扱いにくい。
おまけに、呼吸も満足に使えやしなかったけれど、彼女がどうにか隊士の端くれに位置する事が出来たのは、ひとえに冨岡への強い恋慕の気持ちがあったからだ。
彼と出会い、一目惚れした日───これは運命だと思った。
彼とはきっと何かある、と信じた。
鬼殺隊に入れば、彼と再会する事が出来るだろうし、きっとあの夜伝えた私の名前を…『瑠音』という名を呼んでくれるはず。
子どものようにそう思い込んで何でも頑張り、今日のこの時まで走り続けてきたが。
───事実、いくら頑張ったところで彼から名前を呼ばれる事は一度も無く、彼に会える機会にも恵まれなかった。
唐突に長い夢から醒めたような心地になり、果てしのない喪失感のような物が襲ってくる。
私が彼に惚れてしまったように、彼にも少しでいいから振り向いて欲しかった。
そうでなくとも、名前くらいは覚えて、一度で良いから呼んで欲しかった。
───日夜そう願ってやまず、重すぎる恋患いが祟ってか、こんな奇病にまで体を蝕まれて。
それでも、別に構わなかった。
全ては些事に過ぎなかった。
だって、自分の思いは彼に届くとばかり思っていたから。
思いは届き、この奇病は完治し、きっと彼と幸せになれると…否、なりたいと、毎日毎日願っていたのに。
結果として、私には何も残らなかった。
奇病に蝕まれ、怪我のために上手く動かなくなった体と、空っぽの心しか、彼女には残っていなかった。
彼は悪くない、だなんて。
教えられるまでもなく分かっているけれど、多少恨めしく思うくらいは許して欲しい。
吐き気が治まった頃。
目の前に散らばる夕顔のうちの一つを手に取り、彼女はそれをまじまじと眺める。
泣き腫らして赤くなってはいたが、相変わらず虚ろな瞳で白く清廉なその花を見つめて。
…何を思ったか、唇を花弁に寄せて静かに涙を流した。
奇病を患ってから、自らの腹の内から、咲いているはずもないこの花が出てくるようになった時点で、気が付くべきだったのかもしれない。
これは元々、叶いようのない恋だった。
どうにもならない、悲しい恋だった。
憧れと恋慕と少しばかりの落胆を伴い、四年越しの恋は、今終わりを告げたのだ。
蝶屋敷の窓からは、いつの間にやら茜色の光が差し込み、白い夕顔の花を鮮やかな色に見せる。
つられるようにして顔を上げれば、窓越しに鮮やかな夕焼けが見えたので。
彼女は手にした夕顔と共に寝台へ横になる…この分だと、明日はきっと晴れだろう。
けれど、私はその前に。
吐き出した夕顔達が皆萎んでしまう頃。
朝露のように消えてなくなってしまえれば良いのに、と。
またも叶わぬ願いを胸に抱き、静かに目蓋を閉じるのだった。
end.
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