▼ 愛しの五月病/次郎太刀
ごぽごぽ…と。
大きな酒瓶から、高い酒が赤い杯へ豪快に注がれては飲み干され、また注がれ、飲み干され。
小さな卓を挟んだ向こう側で、先程から一定の間隔で幾度も繰り返されているそれを眺め、彼女は溜息をつく。
夜も深まる審神者部屋。
その開け放たれた窓際で、幾つかの酒を載せた小さな卓を囲み、酒盛りをする審神者と、一人の刀剣男士。
俯瞰で見れば、そこまでいかがわしくもなければ、珍しくもない構図だな、等と思いながら、彼女は全く手を着けていなかった目の前のコップを持ち上げ、ちろりと中の液体を舐める。
一見すると、ヨーグルトドリンクか、ただの牛乳と思われるかも知れないが、これはれっきとした酒だ。
「どうだい?味は。かなり薄めには作ってみたんだけど…。」
なかなかに若向けの酒だろ?
もう二瓶も酒を空けたのにも関わらず、未だすっきりとした顔を見せ、次郎太刀がこちらへ笑いかける。
「…うん。すごく、美味しいね。」
そう言った直後、コップの中の酒をもう一口飲む。
確かに、これなら味も悪くないし、酒に弱い自分も安心して煽る事が出来そうだ。
甘い味と、酒とは思えない飲み口の良さに騙され、普通のジュースのように一気飲みしてしまうと、彼は『おーう…良い飲みっぷりだねぇ!』と、豪快に笑った。
「おかわりいるかい?」
「…お願い、」
空になったコップを、次郎へ差し出し、彼はマドラーを片手に、同じ物を作り始めた。
茶色い瓶からほんの少し垂らされた甘い香りのリキュールの上に、すかさず牛乳が割り込み、離れようとした両者を、マドラーがぐるぐると掻き混ぜて一つに仕立て上げる。
「はい、出来たよー!!」
次郎ちゃんスペシャル〜!
瞬く間に満たされたコップの内部を眺め、受け取った時。
心なしか、少し体温が上がっているような気がした。
いくら薄めに作って貰っているとはいえ、やはり一気は良くない。
今度は、休憩しながら。
味わって、少しずつ飲もう。
「そういえばさ、五月も今日で終わりだねぇ。」
なーんか、凄い勢いで一月すぎたって感じ。
ぽつりと零されたその言葉を受け、彼女は次郎を見やる。
「次郎は、この一ヶ月、どうだった?」
「んー…特には言うことないかな。いつも通りに仕事して、酒飲んで、兄貴や主と駄弁って『いつもと同じ』事をしてたら、あっという間に時間が過ぎてたって感じ?…ところで、主はどうなのさ。」
「───私も、あっという間だったよ?いつも通りに『仕事やだなー…。』『書類作るの面倒くさいなー…。』とか思いながら仕事して、作ってもらったご飯食べて、寝て…。」
一瞬、仕事はしてるけどそれ以外はニートみたいな生活しているな、と思ったのは内緒だ。
「『いつもと変わらない』の繰り返しだったけども、よく考えてみたら、今年は五月病発症しなかったかも。」
「───あー、確かに。いつも通り過ぎて、だーれも気付いちゃいなかったけど。言われてみると、今年は『五月病だからー、』とか何とか言って仕事さぼったりしてなかったよね。」
次郎の同意を得て、確信した。
今年は、今まで一月丸々五月だっというのに、五月病を一日たりとも発症しなかった。
万年さぼり癖がある私は、毎年五月は五月病を理由にして特にさぼりが酷くなるはずだったのに。
今年に限って、それがなかったとは。
驚き半分。謎の寂しさ半分。
自然と眉根が下がり、困ったような顔になってしまう。
「五月は一番さぼりが捗る月だったってのに、何たる不覚…………出来ることなら、五月一日からもう一回やり直したい。」
馬鹿な事を言いだした彼女に、次郎は溜息混じりに声をかける。
「ちょっとー…そこ落ち込む所じゃないと思うよ?まあ、でも。」
五月病にならなかったってことはさ、忙しかったのは勿論だけど。
「毎日が充実してて楽しかったとか。あとは…純粋に、主が少し大人になったとか、そういう事だと思えば良いんじゃないかねぇ…ま、どうしても五月のうちに五月病にかかっときたいなら、いまからかかってみるかい?」
かかりかた、知らないけどねー!
なはは、と豪快に笑い、次郎は再び酒を煽る。
窓の外。
薄らとした宵闇の中。
花は散り、蔓だけになった藤が、生温い夜風に揺れているのが見える。
蛙の鳴き声と、早いもので、誰かが焚いているらしい蚊取り線香の香り。
次郎は色々と言ってくれたけど、結局の所、私が五月病にならなかったのは、きっと通年を通して五月病状態だからなんだろう。
───とはいっても、五月病はここ数ヶ月の間、ずうっと縮こまって、表に出て来やしないのだけども。
end.
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