▼ 神様の薬指/加洲清光
※夢小説味の強い作品につき、閲覧注意。
※名前変換あり。特に名前を変更しない場合、表記は『瑠音』で統一されます。
テーブルの上へ、ぽつんと置かれた紙。
それに、ただただ無機質にプリントされた『婚姻届』の文字の下。
横に仲良く並んだ長方形の枠。
その片方には、本来極秘事項であるはずの審神者の本名が既に堂々と記載され、ご丁寧な事に、彼女の名字の判子が一ミリのずれもなく押されている。
顕現されて以来、夢にまで見た光景が、こうして目の前に広がっている…というだけでも、既に感慨深いものがあるが。
「…主、こんな名前だったんだ。」
彼女の名を初めて知った数日前から、飽きもせずに何度も繰り返した言葉をまた呟き、少し丸みがかった、彼女直筆の文字を指先でそっとなぞる。
ああ、だめだ。
どうがんばってみても、みっともなく口元が緩んでしまうのは、もう『しょうがない、』としか言いようがない───今、すっごく幸せなんだから。
しかも、見れば見るほど、彼女の名前は、この名字と合うようにつけられたんだなという事が分かり、思わず息をのむ。
自分としては馴染みのない物ではあるが、彼女にしてみれば、これは二十数年来、今の今に至るまで名乗り続けた名字なわけだ。
ほんと…この届けに俺の名前書いて、判子押して出したら、もう主の名字は『加洲』になっちゃうんだもんな。
そう思うと、自分の名が変わるわけではないのに、何だかそわそわした。
これに関して言及させてもらうと、最初は清光が彼女の名字を名乗る方向でいくはずだったのだが、彼女がそれに難色を示し、それは長い長い話し合いの末。
『私は自分の名字が変わるくらい、どうって事ないけど。』
『むしろ、清光が私の方の名字を名乗ると、色々ややこしくならない?』
えらくあっさりとした彼女の発言により、結局、彼女が清光の方の姓を名乗る事で決着がついたのだ。
…彼女は、もう随分と前から『名字はいつか変わるもの、』とでも思っていたのかもしれない。
とにもかくにも。
一緒になる、という覚悟の差を見せつけられたみたいで、やっぱり主にはかなわないや、なんて思った。
さて、再び名前を書こうとして握ったペンの先が、泣く寸前のように震えだしたので、一度それを置く。
だめだ、もう一回深呼吸…。
すう、と息を吸ったところで。
「もう、清光…いつまで届け書かないつもりなの?」
早くしなよ。
その声にハッとして顔を上げれば、いつの間にか、向かいに主が座っていた。
───まずい。
一体、いつから座ってたんだろ。
表情は固いまま。
手だけを動かし、置いたペンを探すが、どこにもない。
まさか床に落ちたか、とテーブルの下へ頭を突っ込み、探し始めたところで、彼女の溜息が聞こえる。
「…探してるの、これでしょ?」
生唾を飲み込み、恐る恐るそちらを見やると、彼女の手元でくるくると回っているペンがあった。
「ちょっと…一瞬、すごく焦ったじゃん。」
それ、貸して。
こちらがそう言おうとするのを遮り、彼女はまた溜息交じりに話し始める。
「清光、プロポーズの時、私の事お嫁さんにしてくれるって言ったじゃない。忘れちゃった?」
「…忘れるわけないじゃん、そんな大事なこと。今は、何て言うか…その。色々感慨深くてさ…今まで色々あったなー…とか、主と一緒に居て、もう5年も経つなー…とか。」
色々、思い出してて…。
───我ながら、なかなかに言い訳がましい気がした。
ただ『嬉しくてしようが無いから、』ってだけ言えれば良いのに。
何だか、ストレートに言うのは格好悪いような気がして。
でも、彼女はそれすら見抜いているのか、表情を緩めて。
「…早く、清光のお嫁さんにしてよ。」
とびきり小さく。
いじらしく呟いて、ペンをこちらに差し出す。
よく見なくても分かるくらい、彼女は顔をすごく赤くしていたから、ああ、言わせてしまったな…というのが半分。
その反面、良い物を見られたな、と思うのが半分ずつ。
現金なもので、視界の端に桜が舞い始めたのが見える。
それを誤魔化すようにペンを受け取り、やや乱暴に名前を書いて、判を押した。
それから、留守になった彼女の手に指を絡めて握り、とびきりの笑顔で言葉を贈る。
「───絶っ対、幸せにするから。」
覚悟しなよ?
言った瞬間、今度は耳まで赤くしてたじろいだ彼女へ笑いかけると、彼女は俯き、泣きそうな様子で頷く。
「…よし。じゃ、このまま出しに行っちゃおっか?」
手は相変わらず繋いだまま。
勢いに任せて問うと、彼女はぎょっとしたような顔でこちらを見やり、いやいやをする。
「待って、このままは…その…、何て言うか。」
「なーに?さっき自分から『お嫁さんにしてよ、』なんて言ったくせに…恥ずかしくなっちゃった?」
畳みかけるように言えば、彼女は半泣きのまま。
やけになったように『言ったけど…言ったけどさぁ!?』『ずるいよ。こういう反則技使ってくる、みたいなの…!!!』と捲したてる。
ここで『可愛いんだから、』なんて言ったら、彼女が部屋に籠もって出てこなくなりそうな気がしたのでぐっと堪え、代わりにぎゅっと手を握り、また言葉を紡ぐ。
「ねえ、主は俺のお嫁さんになってくれるんでしょ?───早く行こうよ、瑠音。」
「……………!」
ダメ押しで名前を呼ぶと、彼女は今度こそ白旗を上げ、無言で頷く。
「じゃあ、行くよ。」
彼女の手を引き、転送装置のある庭へ出ようと襖に手をかけた途端。
誰かの…それも、複数の足音が、方々へ一斉に散っていくのが聞こえた。
そりゃあ、自分の主の行く末に関する事なんだから、気になるのは分かる。
分かるのだが。
「(盗み聞きは、ちょっと頂けないな…。)」
後で、ちゃんと釘を刺しとかないと───。
犯人は大体目星がついているので、探すのにそう苦労はしないだろう。
そこは特に問題ではないのだ。
今、真に問題視すべきなのは…。
嫌な予感がして後ろを振り返れば、彼女は顔を赤らめたまま。
今にも泣きそうな声で、ぼそぼそと呟き出す。
「きよみつ、どうしよ…みんな、今までのやり取り………全部、聞いてたのかな……?」
聞かれちゃった、のかな…?
震えながら問うてくる彼女の瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだ。
「(あちゃー…。)」
婚姻届をここで書くなんて、ちょっと配慮が足りなかったかも、と少々後悔したが、起こってしまった事はもうどうしようもないし、今から口止めをするにしても手遅れだろう。
───彼女に限ったことではなく、審神者は大抵の場合、自身の本丸内に居る男士と懇ろな関係になった場合、政府にも他の男士にも、それを頑なに明かそうとはしない。
むしろ、こうして婚姻届けを出す時まで、付き合っていた事を隠し通したい、もしくは、隠し通せるはず、と思っている者が大半を占めている。
しかし、実際の所。
政府だって、他の男士だって、ほぼ毎日のように顔を合わせているのだから、審神者の変化に気が付かない訳はない。
結論からいわせてもらうと『主と男士の誰々はデキているらしい、』と、誰もが気付いているが、主の気持ちを汲んで、見て見ぬふりか、知らぬ存ぜぬを貫き通してくれているだけ…つまりは、筒抜けなのだ。
そうして、知らず知らずのうち。
二人が蜜月の仲である事は周知の事実となり、本丸という密閉された空間の性質上『上手く関係が隠れている、』と信じて疑わない審神者のみが蚊帳の外まま、着々と婚姻に向けて事が進んでいく…という、何とも恐ろしい構図が出来上がるわけである。
もちろん、審神者と付き合っている男士自身も『どうやら、主と自分との関係は周囲に怪しいと思われているようだ。』と察しはするが、余程の事が無ければ、自分は主と懇ろな仲である、なんて自分から明言しないし、主の気持ちに添って、関係を隠しているふりはする。
しかし、あくまでふりなので、さして遠慮する事はなく、審神者との蜜月をがっつり楽しむのである。
清光と彼女もこの例に漏れぬような段階を踏んでいるため、彼女に『これまでも清光との関係は上手く隠せていたし、周囲には絶対バレていないと信じ切っていた、』という前提があるとすれば。
『婚姻届けの完全記入までの下りを複数人の男士に目撃された。』だけではなく『正式に報告する前に、上手く隠れていたはずの関係までばれてしまった。』というように、あまりにもショックな出来事が一度に起こったような状態なのだろう。
「私、これからどんな顔をして皆に会えば良いのか分からない………。」
蚊の鳴くような声でそう言い、ついに泣き出してしまった彼女に『大丈夫だよ、』と言葉をかけながらも、清光は心の中で『ほんと、素直で可愛いんだから。』と再度呟く。
彼女の右手の薬指には、大分前から赤い宝石がついた華奢な作りの指輪がしてあるが、それは清光も同じだ。
デザインは違いこそすれ、素人でも一目でペアリングと分かるような指輪を、二人揃って。
それも、お互い半年以上も前からつけているのだから、関係が露見しないはずがないのに。
それは分かっていて。
けれど何も指摘しなかったのは清光だが、彼女の右手の薬指にそっと指輪をつけて、片時も外さぬよう教えたのも清光なので、実質、自分が周囲に彼女との関係を遠回しに伝えており、なおかつ他の男士が変な気を起こさないよう牽制していたようなものなのだが。
「もう恥ずかしすぎて、溶けてなくなりそう…。」
ぼそぼそと呟き、しおらしく涙を流す彼女を慰め『皆に話す時期がちょっと早まった…ってくらいに思えば良いよ、』なぞと言ったくらいにして、彼は自身と彼女の右手の薬指を眺め、頬を緩める。
───じきに、これはどちらも左手の薬指へつける指輪となる。
そうなったら、今まで以上に彼女を愛そう。
きっと大切にして、これ以上ないくらいに幸せにしよう。
彼女が自分と一緒に過ごした時間を、良い物だったと誇れるように。
いつか来る別れの日まで、彼女が選んだ初めての刀として。
そして、彼女の選んだ伴侶として、出来る限り彼女を支え続けよう。
───人間で言うところの『婚姻』とは、きっとこういう、沢山の覚悟や決意が形になった物だから。
ああ、だからこんなに幸せなんだ。
そんなふうに思いながら小さく微笑み、清光は彼女と繋いだままの右手を再度握り直す。
小さく、白くて柔い彼女の手と、固く筋張った自身の手。
双方の手には、夕日の残り火を思わせるような赤が、静かに灯り、優しく揺らめいていた。
end.
prev / next