▼ 彼は時たま/安室透(名探偵コナン)
今日も、雨が降っていた。
閉めっぱなしだったカーテンをほんの少し開けた時点で、空を覆う鉛色に気が付き、彼女は顔を顰めた。
携帯端末を弄り、間もなく液晶画面に表示された今後の天気予報を眺めてみても、今日はおろか。
明日明後日までは、雨が降ったり止んだりしつつ…という具合に、当分の間はぐずついた天気が続くらしい。
───今日は、新調したばかりのハイヒールを履いて出掛けようと思っていたのに。
内側にたっぷりと水を抱き込み、のたりくたりと空を流れる鉛色と、部屋の片隅に置いたままだった桜色のハイヒールを見比べると、意図せずに溜息が出てしまった。
当然、昨日の夜までのウキウキした気分は、ぺしゃんこになる。
子どもの時に聞いた話によると『雨の日に新しい靴を下ろすと、その靴を履いて出かける日は必ず雨になる、』らしい。
二十歳を過ぎてそんな迷信を馬鹿正直に信じているわけではないが、この華奢で可愛らしい靴を、濁った雨水に晒すのが忍びなかった。
その一心で、彼女は肩に鞄をかけながら玄関へ向かい、結局いつもと同じ黒いハイヒールを引っ張り出す。
ひんやりとしたその入口から爪先を差し入れ、踵まですっぽりと収めてしまってから、ぱちん、とストラップを止め、立ち上がる。
それから、家の鍵と傘も連れて玄関の戸を開け、一言。
「いってきます、」
…一人暮らしだから、『いってらっしゃい、』と返してくれる人なんて誰も居ないんだけれど。
最近まで実家暮らしをしていたためか、どうにも抜けきらない癖を自嘲気味に笑って、彼女は外へと足を踏み出した。
戸を完全に閉める間際。
置き去りにされた、件の新しいヒールが、少し寂しそうにこっちを眺めた気がした。
***
道行く人は、皆自分と同じように傘をさして歩いている。
赤に、水色。パステルイエロー。
自分のさしている傘もそれなりに目立つ方ではあるけれど、ふとした瞬間に目に留まる色は、どれも雨に濡れて、より鮮烈に己を主張しているように見えた。
きっと、ビルの屋上や高架橋にでも登って、今より少し高い場所から見下ろせば、色とりどりの傘は、一つの花束みたいに見えるんだろうな。
くだらない事を思いながら歩いている途中。
人混みの中に、見知った顔を見つけて、彼女はふと立ち止まる。
…ここから目視で、ざっと50m弱。
誰もが傘をさして行き交う橋の上。
彼は傘もささず、欄干に体を預けるようにしてもたれ掛かっていた。
「(…安室さんだ、)」
見慣れた彼の姿を目にした瞬間、心が踊ったが、それはすぐになりを潜めた。
私服である所から、何か表立った仕事をしている訳では無いらしい事が分かったが、髪や肩が雨に濡れてびしょびしょになっているのを見る限り、相当長くあそこに佇んだままいるらしい。
本人曰く、彼自身は『かなり体が丈夫な部類』に入るのだそうだが、あんなに濡れてしまったのでは、さすがに風邪をひいてしまうだろう。
確か、鞄の中に折り畳み傘が入っていたはずだから、思い切って、今自分が使っている傘を貸しに行ってしまおうか。
ああ、その前に。
何か拭くものを渡した方が良いのだろうか。
どうしようか、と考えあぐねていると、不意に、スーツを着た男性が足早に彼女の傍を通り過ぎた。
そのまま迷いのない足取りで、男性が真っ直ぐ進んだ先は、彼の隣である。
…傍目から見れば、スーツの男性と安室の間には絶妙な間が空いており、ともすると、二人ともなんの関わりもないように見えるが。
よくよく気を付けて見てみると、微かではあるが、唇が動いているのが分かった。
「………。」
こういう時、彼は大抵、公には出来ない危険な仕事をしている。
今のように、万が一そんな場面に鉢合わせるような事があったら。
「(───何も見なかった事にして、その場をすぐ離れる。)」
それが、彼との約束事だった。
これまでも、幾度かはこんな場面に遭遇する機会があったが、彼女は安室との約束を忠実に守り、文字通り『何も見なかった、』事にして、すぐにその場から離れている。
事実、以前からそうして難を逃れ続けてきたのだから、今回もそうした方がいいに違いない。
即座に判断を下し、踵を返した時。
「…やあ、」
久しぶりですね。
その声に驚き、思わず顔を上げると。
…そこには、先程まで橋の方に居たはずの彼が目の前に立っていた。
「あっ…、えっと……こ、こんにちは…?」
どうやってここまで来たんだろう。
ここからあそこまで、結構距離があるのに。
少しだけ体を傾け、彼越しに橋の方を確認すると、スーツの男性まで居なくなっている…と来たものだから、どこかそら恐ろしいような気分になった。
諸々の疑問はさておき、いきなりの出来事に困ってしまって、彼女は咄嗟に目を伏せる。
「どうしたんです、そんな顔をして…もしかして、僕と会っていない間、何かありましたか?」
「い、いえ…そんな事ない、です。」
逃げるようにそう言ったが、どこか引っかかる節があるのか、彼の追撃は止まない。
「それとも、何か妙な物でも見ましたか?」
顔を覗き込まれたままそう問われ、彼女はいよいよ体を震わせる。
恐らく、彼は先程彼女が目にした場面の事を問うているのだろう。
ここで正直に答えるべきか否か。
迷いに迷った挙句、彼女は首を横に振る。
「…いいえ、何も。見てません、」
いつもの通り。
無難にそう答えれば、彼はどこか安心したように笑みを浮かべ、濡れて頬に張り付いた髪を無造作にかき上げる。
「なら、良かった…。」
上辺の言葉を述べた後、彼は彼女の耳元へ唇を近づけ『ありがとう、いい子だね。』と、甘く囁きを吹き込んだ。
そう言われるだけで嬉しいなんて思う自分に呆れそうになるものの、くすぐったい様な気分になるのも事実で、すぐにそちらの気持ちの方が大きくなる。
彼もそれを分かっているのか、戯れに手を握ったかと思えば、しっかりと指を絡められて、思わず赤面してしまった。
「…可愛いね、」
低く囁かれた所で、彼はようやく体を離した。
「そうだ…せっかく会ったんです、少し話しましょうか。」
その提案に頷き、傘を少しだけ上げれば、彼はするりと中へ入り込む。
そうして彼女の手から傘を受け取り、自分が持ったところで、空いた右手に肩を抱き寄せ、通行の邪魔にならない程度の場所に逸れた。
───この人は。
安室さんは、どうしていつもこうなんだろう。
恥ずかしくなるような事を平気でやってのけるから、こちらはいつでもどぎまぎさせられっぱなしなのである。
初めて会った時からずっとこうだから、きっと癖みたいな物なのだろうけど。
でも、こうして。
彼と近い場所にいて、彼の香りに包まれていると、何故だかとても安心した。
「それにしても、本当に久しぶりですね。元気でしたか?」
「私は、全然。大丈夫ですよ。安室さんこそ、体調崩したりしてません?お仕事大変ですし…、ここ一月は、特に忙しかったんじゃないですか?」
言葉にしてみてから、質問を質問で返すような事をしてしまったな、と反省したが、彼は特に気にした風でもなく、苦笑する。
「確かに。君は本当に鋭いですね…でも、特に風邪をひく事も無かったし。こうして君に心配して貰えるなら、もっと頑張ってみるのも悪くないかな、」
「…頑張りすぎて倒れないで下さいね。」
何をするにも、体が資本なんですから。
そう言えば、肩に置かれたままの手が少しだけ重くなる。
今度は何事か。
そう思って彼の方を見上げると、彼はどこか悪戯っぽいような表情でこちらを見返す。
「ところで、瑠音さん。今夜、何か用事はありますか?」
「いえ、特には何も…。」
「───なら、僕と一緒に過ごしてくれませんか?」
思いもよらぬ誘いに、鼓動が跳ねた。
「もちろん、ちゃんと迎えに行きます。」
どうですか?
こちらが頷く事を前提としてそう問う彼は、いつもと何ら変わらぬように見えた。
しかし、その瞳には慈しみと共に僅かな劣情が見て取れて、何をしたがっているのかが容易に想像出来る。
事実、もう浅い仲という訳ではないのだから、何も恥じる必要は無いのだろう。
仮にそういう雰囲気になっても、心配はない。
幸いな事に、明日は休日であるから、特に大きな支障は無いだろう。
そんな考えから、彼女は肯定の意を示すべく、また頷く。
すると、彼は心底嬉しそうに微笑し『じゃあ、また今夜。』と言い残し、会った時と同様、そっと彼女に傘を返す。
反対に、自身はするりとそこを抜け出て、何事も無かったかのように彼女に背を向けて歩き出した。
広い背中があっという間に遠ざかり、人混みに紛れていくのを見送っていると、自分一人だけが取り残されたような気分になってしまい、何だか寂しくなる。
───でも、我儘を言ってはいけないのだ。
「(私が我儘を言えば、安室さんはきっと困ってしまう、)」
…だから、どんなに寂しくても。
どんなに会いたくても、我慢をしなければならない。
少しの間だけでも、こうして会ってもらえるだけで。
優しく扱って貰えるだけで、幸せだと思わなければならない。
そうは言い聞かせてみるものの、どこか満たされない気分のまま、彼女はまた歩き出す。
…結局、鞄の中の折り畳み傘も、自分が今使っている傘も、安室さんに渡せなかったな。
気持ちは、降り続いている雨のようにどこか湿っぽいままだった。
end
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