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▼ 剋{術/薬研藤四郎(藤紫の続編)

※グロ表記ありにつき注意。
※一部の刀剣男士の戦線決壊の重傷表現ありにつき、閲覧注意。


『出先の戦場で重傷者が出た。』

早馬で届いた報告を聞いてすぐ、彼女は寝床から飛び起きた。


先程まで夢の中をたゆたっていた意識はすぐに覚醒し、スリープ状態のパソコンを叩き起こすようにして確認作業に入る。


…記録を目視して分かる通り、まずは資材の蓄えはそれなりである事に息を着く。

手入れ部屋も、今現在二部屋は開いているから大丈夫だろう。


そこかしこにカーソルを動かして情報を整理しているうち、彼女の頭にふと疑問が浮かび上がった。


今回出したのは、他よりずっと戦慣れしているであろう面子の中で、誰が怪我をしたというのだろうか。

目を擦りながら、もう一度隊の情報を眺めてみる。


今戦場に出ているのは、第一部隊。

隊長は薬研に任せ、他の隊員は、鯰尾、厚、堀川…という具合に脇差と短刀メインの編成にしたはずだったが。


モニタに映し出された文字の羅列を目で追っている最中、ふと、薬研が部屋を尋ねてきた際に発した言葉が頭を過ぎる。


あの時、まるで夜這いのような前置きをしておきながら、欲しい刀はどれだ、と問うた後『もし、俺が怪我して帰って来るような事があれば、大将が手入れしてくれ。』と。

彼は何やら含みのある言い方をして音も無く去って行ったのだ。


では。

まさか、今回の負傷者というのは………。


「(………まさか、ね。)」


胸の奥で不安が頭をもたげ始めるが、それは彼のデータを見ているうちに大人しくなっていく。


大体、薬研は比較的初期の方から居て。
言わばこの本丸で言う、初期刀、初期短刀と並ぶ最古参の部類に入るのだ。

初めの頃こそ傷だらけで帰って来る事が多く『自分で何とか出来る』『舐めときゃ治る』等と言って手入れを渋る彼を説得し、何とか手入れ部屋へ行かせていたものだったが、今では短刀達の中で一番練度が高く、滅多に怪我などしない。


そう、きっと無事で帰って来るに決まってるんだから。

頭を使うのはこれくらいにして、とにかく手入れ部屋の準備を整えようと腰を上げた時だった。


「………主様、五虎退、です。失礼、します…。」


いつにも増して弱々しい声で発せられた断りの後に、音もなく襖が開けられ、今日の夜警の当番となっていた五虎退が顔を覗かせた。


しかしながら、彼の顔にはいつも通りの気丈な微笑ではなく、あからさまな憔悴が浮かび、これ以上無いくらいに顔色が悪い。

───加えて、金色の大きな瞳にはぷっくりと涙の膜が張り、説明されるまでもなく何かあったのだろうと察しがつく。


「(まさか…。)」


胸の奥で小さくなっていた不安は途端に弾け、冷静な思考の上にボタリと滴り落ちる。

一応『なにかあったの?』と問うてみるが、先程から付き纏っていた悪い予想は、現実として姿を現す。


「主様…、戦に出ていた、薬研兄さんが…。」


五虎退が小さく発する言葉に彼の名前が含まれているのをはっきりと聴き取った瞬間、全身の血が静かに引いていくのを感じた。

もっとよく聞こうと五虎退を傍に呼び寄せると、彼は服の端を皺になるほど握り、震えながらも精一杯に伝達を始める。


「さっき、他の皆さんと一緒に帰ってきて……でも、酷い怪我をしていて。どんなに声をかけても、その…ちっとも答えてくれないし、動かないんです…。」


青ざめた顔のままどうにか言い切って、それきり五虎退は唇を噛んでしまった。

欲を言えば、薬研には意識があるのかどうか。
怪我の度合はどの程度であるのかまで教えて欲しいとも思ったが、詳しく言わない辺りから察するに、余程…という事なのだろう。


ここに来たのが他の刀剣男士だったなら事細かな説明を求めていただろうが、彼はそれを聞く事も出来ない程。

それこそ、いつでも真っ白なその肌を気の毒なくらい青ざめさせていた。


「……今はどうなってるの?」


直接的な事はさておき、ごく簡単に問いかけると、五虎退は一瞬目を見開いて。

それから、少し困ったような表情のまま俯く。


「刀の方は、鶴丸様が手入れ部屋へ持って行って下さいました。兄さんの方は、蜻蛉切さんが隣のお部屋に…。」


「そうなの……伝えてくれてありがとう。」


よく頑張ったね、と声をかけて冷たく華奢なその手を握ると、五虎退は少しばかりはにかむ。


しかし、緩められた顔は、一瞬にして引き締められた。


「あの…主様は、これから薬研兄さんに会いに行くつもりなんですよね?」


「うん、そうだけど…。」


何か問題があるのだろうか。

思わず眉をひそめると、彼は言葉を選びながら慎重に話し出す。


「主様は、今は兄さんに会わない方が良いと思うんです……僕達は何度も戦場に行くから、よく見るけど、主様は、その…見慣れてないと、思うので……。」


今、兄さんに会ったりしたら、主様、きっと凄くびっくりすると思うんです…。


五虎退なりに気を遣ってくれているのだろう。

幾分遠回しな言い方であったが、その含みのある言葉から『薬研は相当加減が悪い、』という事実が伝わって来るようで、彼女は僅かに体を震わせた。


もう、居ても立ってもいられない。

彼女は、近くにあった上着を掴んで羽織ると、突然立ち上がる。


「…あ、あの、主様?」


どこへ行くんですか…?

不安気に放られた問いにも答えぬまま、彼女は部屋の出入口へ足を進め、暗い廊下に飛び出した。


髪は乱れたままで、足袋も履かずに裸足のまま…という具合に、極めてはしたない格好であったけれど、それを気に留める余裕など無い。


冷たい廊下を走り続ける事数分。

息を切らし、辿り着いた手入れ部屋の周囲は、常に数名の刀剣男士が往き来して、大変混雑した状態であった。


その中には、今日の近侍をしていた安定の姿や、今晩の夜警管轄の長をしていた堀川の姿も見え、それ以外は皆、布やらお湯の替えやらを持って忙しそうに往き来を繰り返し小難しい顔をして、時々手入れ部屋の中を覗っている。

誰か一人くらいは彼女が駆けつけた事に気付いて良さそうなものの、自体が逼迫しているためか、立ち尽くす彼女を見付けてくれる者は無い。


見慣れた者達が傍に居るというのに話しかける事も出来ず、何だか取り残されたような気分さえ感じる。

ただ、廊下中に立ち込める濃い血の臭いだけが、異様な状況である事を静かに訴えかけていた。


本当ならば、彼等の今の持ち主として。

審神者として、誰か適当な男士を捕まえて状況を確認し、手入れ部屋に入って負傷した者の介抱にあたる───そういった事をするのが理想的なのだろう。

そう頭では分かっていても、体を動かせないのは何故なのか。


未だかつてない焦りのために、思考する事はおろか、まともな言葉さえ出て来やしない。

混乱した頭と、一向に動かない体。


誰に聞かれるでもない小さな嗚咽を漏らしながら、彼女は置物の如く立ち竦み、ただ呆然と『薬研藤四郎』の名前が飛び交うのを聞いていた。

加えて、混乱してはいるものの、妙に冷静になっている自分が居る事に気が付く。


もし自分が取り乱してしまっては他の者も不安になるだろうし、何より薬研が危ない。


「(だい、じょうぶ…。)」


大丈夫、落ち着け。

ざわつき、張り裂けそうなくらい引きつった心を必死に宥め、強く拳を握る。


正直のところ、審神者になって一年が経つ今でも、傷を負った男士や、戦帰りで殺気立ったままの男士に会うのは恐ろしいし、辛い。

それでも、自分は彼等の主。
実質上、今の持ち主なのだ。


各本丸によって刀剣男士に個体差は出るし、名前や姿形はそっくりでも、一人だって同じ刀剣男士はいない。

だから、ここでは。
どんな状況であろうと、何があろうと、彼等の持ち主として、自分は彼等自身の最後の心の拠り所であり、頼みの綱とされる存在であらねばならないのだ。


そう自分自身に言い聞かせ、何とか気を保ったまま、覚悟を決めて声を発する。


「………薬研は、手入れ部屋にいるのね?」


やっとの事で絞り出した声は、平常時よりも大分上ずり、震えた声であったが、それに反応して皆一斉にこちらを向いた。

体中、痛いほどに視線を浴びながらふらふらと足を進め、手入れ部屋の前まで近付くと、すうと戸が開けられ、中で薬研に着いていてくれていたらしい蜻蛉切が彼女を招き入れた。


「主───お待ちしておりました。」


どうぞ、中へ。


促されるまま中に入ると、強すぎる血の匂いに思わず嘔吐きそうになる。

それに気が付いた蜻蛉切はすかさず肩を支え、吐き気が治まるまで背中を擦ってくれた。


顔を青くしたままやっと辿り着いた部屋の中央にはぽつんと布団が敷かれ、その上に、ぐったりとして動かない薬研が仰向けに寝かせられていた。


応急処置という事か、体のそこかしこに巻かれた布のために、直接傷口が見えるわけではない。

しかし、患部から溢れ出た血を吸って赤黒く変色した布の様子から、傷は決して浅くないらしい事が伝わってきて、背筋が寒くなる。


やげん、と。

彼の名を呼ぶよりも先に、体が動く。

急いで屈んだ拍子に解れてきた髪を耳にかけ、いつにも増して白い彼の頬に触れてみたが、ぎょっとする程冷たい。


生気の無い。

例えるなら、刀に直肌で触れているようなひんやりとした感触に、彼女の体が戦慄く。


こんなの嘘だ、夢だと思いたい反面、あの夜、薬研に『この本丸に居ない刀剣男士を一口でも良いから連れてきて欲しい』等と強請ってしまった事が悔やまれた。


続いて、隣に併設された刀本体の方の手入れ部屋に表示されたモニタを見て、鳥肌が立つ。

普通なら、表示される事の無いような長い時間。


恐る恐る中の様子を覗いてみると、普段は鍛刀の方に回っている妖精までもが総出で火事場に張り付いているのが見えた。

真っ赤に燃えた窯に照らされるようにして、石造りの台に載せられた小さな刀を見付け、彼女は息を飲む。


鞘から引きずり出された状態で一時的に安置されたそれは、所々ガチャガチャと刃が欠け、おまけに大きなひび割れも見える。

下手に触れれば、今にも砕けてしまいそうな危うさも見せるその短刀は、紛れもなく薬研藤四郎であった。


「こんなに、なるまで…。」


その先を言葉に出すのは憚られた。

刀本体の痛々しい姿が物言わず静かに横たわっている肉体と重なり、何とも言えない漠然とした不安がまとわりつく。


刀の損傷の度合は、肉体へのダメージと比例して現れる。

五虎退が『会わない方が…、』と進言するくらいであるから、と、覚悟を決めて見たはずなのに、実際は震えているなんて…。

複雑な感情に苛まれながら、彼女は唇を噛む。


「大丈夫ですか?主殿。」


遙かに高い位置からかけられた言葉に弾かれるようにして顔を上げると、心配そうな表情を浮かべた蜻蛉切と目が合う。


「鍛冶場の者達も総出で修復にかかっていますから、まず心配は要らないでしょう。しかし、主殿には少々刺激が強かったようですな…。」


先程からずっと顔色が優れませんが…。

そう指摘されて初めて、自分が青ざめた顔をしていた事に気が付く。


「…よろしければ、本日はもう部屋に戻って休まれてはどうです?代わりに、自分が薬研殿の傍に付いております故。」


心配する事は何も無い、と。

蜻蛉切はそう言ってこちらを気遣ってくれるが、その厚意にいつまでも甘えるのは、審神者としてどうなのだろうか。


それに、ここで身を引いてしまっては、薬研との約束を破る事になってしまう。

もちろん、あの夜の一件の後、薬研と正式な書類を交え、改めて拘束力のある約束を交わした…というわけではないが。


やっぱり、口約束すら守れないのは人としても、数多の刀剣男士を従える審神者としてもどうか、という思いがある。

…だから、


「とても有り難いけど、それは遠慮させてもらいます」


…でも、気を遣ってくれてありがとう。

彼女はどうにか笑みを浮かべ、蜻蛉切の申し入れをやんわりと拒否した。


「しかし、主殿…、」


その様を見て蜻蛉切は言い淀むが、彼女は緩く首を振る。


「───薬研がこうなったのは、半分は主である私のせい。だから、薬研が起きたら最初に謝りたいし…、ちゃんと、自分で手当てしてあげたいの。」


私が、薬研を看ます。

きっぱり伝えると、蜻蛉切はやや困ったように眉根を寄せたものの『何か足りない物がありましたら、声をおかけ下さい。』とだけ言い置いて、手入れ部屋から出て行った。


手入れ部屋の中には、物言わず布団の上に横たわる薬研と、自分だけが残された。


***


周囲を見回してみると、そこかしこに金盥とお湯が入っているらしいケトルや布。

その外には、石鹸や、誰の物か知れぬ着物が放ってある等、中々に訳の分からない状況になっている。


皆、余程慌てていたのだろうか。

そろりと薬研の元へ近寄り、襟元を緩めてやりながら顔を覗き込むも、まだ頬についた浅い掠り傷さえ治っていない。

刀自体は既に修復が始まっているものの、手入れが難航しているためか、なかなかこちらの方の傷も塞がらないのだろう。


理屈としては理解しているのだが、苦い焦りが彼女の心を蝕む。


刀剣男士の怪我は刀本体の状態と連動しており、一度刀の手入れをすれば肉体の傷もすぐ癒えるが、手入れが完全に終わるまでは普通の人間と同じく、出来るだけ安静にしておくのが良いとされている。

新米の頃に渡された分厚い緊急マニュアル内の要項を思い出しながら、彼女はごくりと生唾を飲み込んだ。


つまりは、体を綺麗にし、出血や外傷が広範囲にわたる場合は、患部に包帯を巻いておかねばならないのだが。

…見下ろした先には、白い太腿にきつく巻かれた血塗れの布があった。


世話をするにしても、まずは薬研の体の至る所に括り付けられたこの布達を取らなければ、何ともならない。


頭では分かっているが『この下には傷がある、』と思っただけで、何故だか手が止まってしまう。


日常生活内で想定しうる程度の軽い怪我ならば少しは馴染みがあるし、自分で手当をした経験もある。

しかし、今まで深い傷を直視する機会の無かった彼女にとっては、血の染みた布一枚を解くことすらかなり勇気の要る作業であった。


幾度も躊躇しながら、何とか彼の左の太腿を覆う布に手をかけて少しずつ解くと。

…そこには、想像していたよりも遙かに鮮やかな色がひしめいていた。


本来ならば皮膚に覆われているべきその場所は、ただただパックリと口を開けており、めくれ上がって変色した皮膚に、乾いた血液がこびり付いて。

───高い場所から落ちた柘榴の実のように歪に裂けた傷口を恐る恐る覗き込むと、皮膚の中に、赤黒い血を吹きながら僅かに動く桃色の筋肉や、黄色くぷるぷるとした脂肪。

そして、奥の方にごく小さな白い物…骨と思しき物が見え、卒倒しそうになった。


刀剣男士の体の造りには謎や疑問点が多いそうだが、ここだけを見るならば、大まかな所は人間と同じような感じがする。


───しかし、これでは確かに五虎退も蜻蛉切も気を遣うはずだ。

戦っているのだから、こうなる事があるかもしれない、と考えないわけではなかったけれど、いざ深い傷を目の当たりにしてみると、予想以上に体がすくむ。

加えて、自分に出来る事は存外少ないという事実を突き付けられ、言い知れぬ絶望感が広がった。


他の箇所の布も解いてみると、皮膚が抉れた跡やら、固まりかけるうちに黒っぽくなった血が傷口を歪に覆っている様子が次々に出て来る。

もしや、と。
嫌な予感がして、薬研が纏っているシャツを脱がせてみてすぐ、さらに多くの傷が彼女の眼下に躍り出た。


服を着ていたために見えなかった刺し傷が脇腹に一つと、左の二の腕に、刃物が擦ったような浅い切り傷が二つ程。

生気が感じられないくらい白い肌に、赤黒い生傷が点々と刻まれているのは、痛々しい事この上なかった。


傍にあった盥を手繰り寄せて手拭いを絞り、彼の頬についた泥や血を拭き取ってやると、やはり傷口にしみて痛いのだろう。

薄く開いた唇からうめき声が転がり出し、僅かばかりに体を捩るような動きを見てすぐ手が止まった。


「………痛いよね、」


ごめん。

言った瞬間に泣き出しそうになる言葉をぐっと呑み込み、絞るようにして声を出す。


「すぐに済ますから、大丈夫…だから。」


だから、ちょっとだけ我慢して。

彼に聞こえてはいないのだろうが、言わずにはいられない。


───そこから先の処置は、上手い下手は抜きとしても、びっくりするほど早く済ませる事が出来た。

肌にこびり付いた血や汗をすっかり綺麗に拭き取り、患部に折畳んだ白布を乗せ、包帯を巻く作業を繰り返して。


一段落した所で額の汗を拭い、改めて薬研を見下ろすと、浅い傷は何とか塞がり始めている。

この分なら、深い傷も時間をかけてではあるが、元のようになるだろう。


彼女は再び手拭いをじゃぶじゃぶと洗い、よく絞ってから先程より少し大きめに畳む。


「…ごめんね、薬研。ちょっとだけ起こすよ。」


小さく声をかけて、寝ている彼の背と布団の間に手を入れ、何とか抱き起こす…その途端、自分の腕が悲鳴を上げた。

華奢な体付きをしているくせ、薬研は想像していたよりずっと重い。


薬研に意識が無いから。
または、自分には筋力が無いからという事もあるだろうが、どうしてなかなか、本当に重いのである。

仕方なく、自分の肩にもたれかからせるようにして薬研を支え、手拭いで優しく背中を拭き清めていく。


…当然、戦場から持ってきた汚れを落とすのは容易ではなく、何度か拭くだけで手拭いはすぐさま赤黒く色を変える。

その度に、薬研を支え直して手拭いを湯につけて洗い、絞ってはまた拭く。

───いつもより近い彼の体からは、普段本丸にいる時のような医薬品とほのかな石鹸の香りではなく、硝煙と血と泥が混じった戦場の匂いがした。


戦場帰りの刀剣男士は、重傷で帰ってきた者や、一部の刀剣男士を除き、大抵は風呂場に直行する。

それを格別妙な事とは思っていなかったが、今はその理由が何となく分かる気がした。


背面をすっかり綺麗にしてやり、替えのシャツを着せ、彼を再び布団に寝かせた時だった。


それまで固く閉じられていた目蓋が気怠げに持ち上げられ、あの夜と何ら変わらぬ藤紫がゆっくりとこちらに向けられる。


「………たい、しょ?」


訝しげに呟かれた言葉はどことなく擦れて、空中に解けていく。

続いて、何かを求めるように。
こちらへ弱々しく伸ばされた彼の手をしっかりと握った途端に、安堵の溜息が漏れた。


「…そうだよ、薬研。」


私だよ…、分かる?

勢いに任せてそう問えば、彼は何度か頷いた。


「…そうだ、何か、欲しい物とかは無い?飲み物は?お腹空いてたりとかはしない?」


一息に押し寄せてきた安堵感から、思わず矢継ぎ早に質問すると、彼は緩く笑って首を横に振る。


「いや…あいにくと、今は何も欲しくはないな。」


「そう…?あ、途中で何か欲しくなったり、して欲しい事があったら、遠慮無く言ってね?」


こういう時くらい、うんと我が侭を言ってもらわなきゃ。

そう言うと、彼は『そりゃいいな、』とだけ言って、また薄く笑った。


それから、手拭いがかった金盥。畳んで置かれたボロボロの服…という具合に、その藤紫色の瞳で周囲を見回し、彼は全てを察したような笑みを浮かべる。


「…何だ。あの時の事、まだ覚えてたのか。大将も律儀だな。」


「当たり前だよ───私は、あなたの主なんだから。」


忘れたりしないよ?

何とか笑顔を作ってそう言ったが、せっかく上げた口角は徐々に下がり始める。


彼が何とか一命を取り留め、こうして話が出来るという事が嬉しくてたまらない。
…嬉しいというのに、何故だか視界が歪み始めて、薬研の姿がぼやけだすのだ。


『怪我人の前ではやたらに泣くものではない、』と誰かが言っていたのを今更ながら思い出し、泣くな泣くなと必死に自制するも、熱く粘度の弱い雫は、じわじわと目尻に迫るばかりだ。

それに加えて、薬研が脱力しきった笑みを浮かべて無言のまま頭を撫でてくるものだから、すんでの所で押し止められていた物は、あえなく決壊してしまった。


「…心配、かけたな。」


『悪かった。』


低い声音に乗って寄越される言葉は、どれも心地の良い響きを持って耳に届く。

労るような愛撫と優しすぎる言葉をもらえば、それに甘えて縋りたい気持ちが頭をもたげる。


しかし、それと同時に。
今まで息を潜めていた良心が踏み留まって金切り声を上げ、自らの過失を責め立てる。


「やげ、ん…あの…あのね…、」


幼子のように小さくしゃくり上げる度、大粒の涙が頬をぽろぽろと伝い落ち、薬研の冷えた白い肌を濡らしてしまう。

私が見誤ったから…だから、薬研は怪我をしてしまったのに。


「(私が…、あんな無茶な事を頼んだから。何度も何度も、戦場に行かせてしまったから。)」


『ごめんね。』

ぐしゃぐしゃの顔を歪め、たまらなくなってその一言を発しそうになった途端、彼は思いもよらない台詞を口走る。


「───舞い上がってたんだ、」


「……え?」


何の事か分からずに聞き返すと、彼はばつが悪そうな顔をして切れ切れに話し出す。


「あの夜。あんた、俺に『あれが欲しい』って、強請ってくれたろ。まぁ、殆ど俺が言わせたようなもんだったが…それでも、嬉しかったんだぜ?」


今までに無い傷を受けて弱っているのか、薬研はこちらの返事も待たずに話し出す。


「普段から見てりゃ分かるが、大将は他の旦那方には遠慮して物を強請らない。でも、俺には物を強請ってくれた。たったそれだけで舞い上がって、何でも出来る気になっちまって。」


……で、考え無しに動き回った挙げ句、このザマだ。

可笑しいだろ?


自嘲気味に吐き出された言葉を受け、彼女は必死に首を横に振る。


「そんな事…無いよ、」


「───いいや、あるさ。」


『これでも、いつか折れる覚悟は持って戦ってたつもりだったんだがな。』

そう前置きしてすぐ、薬研はまた話し出す。


「…戦場で、いざ折れそうになった途端、どうしようもなくあんたに会いたくなった───いっその事、せめて潔く真っ二つにでもなって帰って来りゃ、もっと華々しかったかもしれんが。」


これじゃ刀失格だ、と。

そう言う彼は、少し気恥ずかしそうに笑ってはいたが、何だか自棄になっているように聞こえなくもない。


そんな様子を眺めながら、彼女は涙を流し続ける。

そうしてまた首を横に振り、握ったままの薬研の冷たい手に頬を寄せた。


「そんな、ことっ…そんな事…ない、から。お願い、だから『折れて帰ってきた方が良かった、』だなんて言わないでっ………!」


やっとの事でそう言うと、頬に触れたままの薬研の手が、ぴくりと動く。


「大将…それ、本当か?」


訝しげに。

それでいて、どこか縋るような声音で放られた問いに頷き、彼女はすぐさま答える。


「うん。だって私…薬研がいなくなっちゃったら、嫌だもの………。」


だから、


「薬研、私と約束して。私、もう『新しい刀を連れて来て、』なんて絶対に言わない。だから、薬研も…、」


もう二度と、こんな無茶しないで…。

ぐす、と鼻を鳴らし、彼女かやっとの事で片方の手の小指を差し出すと、藤紫色の瞳はちらりと小指を見ただけで、それきり視線を逸らす。


物憂げに空中へ視線を彷徨わせては、また小指を見やりを繰り返して。

結局、薬研の方から小指を絡められる事は無く、弱々しく伏せられた藤紫は、目蓋の下に隠されてしまった。


「やげん………?」


どうしたの、

そう聞くと、彼は目を閉じたまま僅かに顔を背け、一際小さな声を出す。


「なあ、大将───後生だ、」


少しで良い、屈んでくれ。

叶えるのに容易い頼み事を受け、彼女は薬研の手を離して少しだけ体を屈めた。


「これで、いいの…?」


一応聞いてはみるが、薬研は薄らと瞳を開けてこちらを見上げ、僅かばかり顔を顰めた。

そして、いきなり両の手を彼女の肩へ伸ばし、しっかり掴むと、自分の方へグイと引っ張る。


その瞬間『このままでは薬研の上に倒れて痛い思いをさせてしまう、』という意識が働き、ほぼ反射的に柔らかな布団の上へ手を付いたものの、どうやらそれがお気に召さなかったらしい。

不満気な顔をして、肩に置かれていた手が首の後で組まれ、あれよあれよという間に、彼女は薬研の腕の中へ閉じ込められているような格好になっていた。


あの夜と体勢は逆になっているが、前回も今も。

薬研が主導権を握っている事には変わりが無いから不思議だ。


熱っぽく見つめてくる藤紫と目を合わせると、絡め捕られてしまうような気さえして────彼女は思わず頬を染め、恥じらいを持って視線を逸らす。


「(もし、こんな所を誰かに見られちゃったら…。)」


どうしよう、

場違いにそんな心配が頭に浮かび、あの夜のように心がざわめいた。


しかし、薬研はこちらの心配を他所に、彼女の首筋や耳の後をかさついた指先で擽り、困ったように眉を下げた彼女の顔を悪戯っぽく見上げるばかりだ。

そのお返しに、額にかかった髪をそっと退かし、未だ血色の悪い彼の頬を指の腹で擽ってやると、嬉しそうに笑うものだから、こちらも笑みを浮かべてしまう。


そうして、一頻りじゃれあった頃。

薬研は、今まで見せていた短刀らしい表情を引っ込め、真剣な色を宿した藤紫色でこちらを見据える。


「大将が約束を望むなら、俺は喜んでいくらでも約束するさ…こんなふうにな。」


手を、と言われるままに差し出せば、今度はいとも容易く小指が絡められ、すぐに離れていく。


「ただ、大将が約束を欲しがるように、俺っちもあんたとだけの約束が欲しい。」


たまの『我が侭』なんだから、もちろん聞いてくれるんだろう?

有無を言わさぬ物言いに、もちろんだ、と頷けば、彼はどこまでも幸せそうに微笑む。


「なら、遠慮無く言わせてもらうぜ───大将、俺と夫婦になってくれないか?」


「………っ!」


『夫婦』

何の前触れもなく放られた言葉に、彼女は当然ながら混乱した。

夫婦、とは。
一体全体、何をどうしてそれを言うに至ったのか。


時間差で熱を持ち始めた頬へ、ひやりとした薬研の手が添えられ、目まぐるしく移ろっていく思考がぴたりと止まる。


「何を今更慌ててるんだ?」


「…だっ、だって。いきなり…め、夫婦とか、言うから…。」


「ああ、それ以前に。もしかして、俺の事は嫌いだったか?」


「───そうじゃない。薬研の事は好き…だけど、私達、色々段階を踏んでるわけでも無いし、その…いきなり夫婦は、ちょっとびっくりしたっていうか。」


どぎまぎしながらもそう答えると、薬研は特に怒るでもなく、緩く笑う。


「なら、その段階を踏めば俺と夫婦になってくれるって事だよな?」


「あ、えっと…あの…その…。」


彼の物言いは至ってシンプルだが、更にこちらの頭が混乱してきたのは言うまでもない。

黙ってるって事は肯定と見なすぜ、と放られた言葉をどこか遠くで聞きながら、彼女はまた頭を働かせ始める。


段階を踏めば、なんて言う事は、薬研は私をからかって夫婦になって欲しい、と言っているわけではなく、正真正銘。

本気で婚姻を望んでいるという事なのだろうか?


「…………あの、」


「…ん?」


「さっきの夫婦になるって話の続き、なんだけど。薬研は、本当に…その……私で、良いの…?」


「当たり前だろ。むしろ、大将以外の女はお断りだな。」


即答された事で、一度は引きかけた頬の赤みがまた戻ってしまう。

如何してくれるんだ、等と思いながらも、彼女はゴニョゴニョと質問をぶつけ続ける。


「で、でも…一期とか、鳴狐に反対されちゃうかもしれないし、」


「それは心配するな。大分前に話はつけてあるし、反対されるどころか他の兄弟達も大賛成だったからな。」


「じゃあ、もしかして加州も…?」


「ああ。大将を嫁に貰い受けたいって切り出した時には、三日三晩ろくに口すら聞いて貰えなかったが、最終的には『主を不幸にしたら、いくらお前でも刀解部屋に突っ込んでやるから!』ってなワケで、どうにか承諾してもらった。」


「…政府には、何て言えば、」


「大将、今は審神者と刀剣男士用の婚姻届があるの、知らないのか?それが信じられないってんなら、俺っちの部屋の机の引き出し開けて確認してくれても構わないぜ。確か、この前もらってきたのと予備の三枚が入ってるはずだ。」


「………………。」


心配事はそれだけかい?

そう問われ、こくりと頷けば、彼は溜息交じりに話し始める。


「───本当はな。大将が俺に強請ってくれたうちの刀を一振土産に引っ提げて『強請られた通りに望みの物を持ってきたから、褒美に大将をくれ、』って言うつもりだったんだが。」


見ての通り、計画は大失敗ってヤツさ。

さっぱりとそう言う彼には、もう先程の弱々しさは無い。


「でもな───俺は顕現された時から、大将だけしか見てない。格好つけようとした挙げ句、みっともない負け方して帰ってきたって、俺とした約束をずっと忘れないで守ってくれるあんたが…自分でもみっともないと思うくらいにゃ惚れてるんだ。」


だから。


「夫婦になる前にいろいろしたいってんなら、あんたが満足するまで待つし、納得いくまで付き合う。あんたが泣くんだったら、もうこんな無茶はしない。」


…だから、


「大将……近い将来、俺と必ず夫婦になるって約束してくれ。」


今度は薬研から差し出された小指に、彼女は戸惑いながらもそっと自分の小指を絡める。


『指切りげんまん…、』と。

どちらからともなく出て来た台詞に、思わず笑みが零れた。


大分遠回りをしたが、好き合う者同士は、ここでようやく自らの気持ちを吐露し、伝え合うまでに至った。

今日交わされた約束は、いつか必ず実現する事となるだろう。


淡い期待に胸を踊らせ、彼女はこちらを熱っぽく見上げる薬研と唇を重ね合わせ、初めての接吻をした。


唇を重ねる度。

言葉にならぬ思いが、甘い疼きが伝わり、今まで見て見ぬふりをしてきた切ない気持ちが満たされていくような気さえしてしまう。


初々しくささやかな接触を楽しみ、彼女はそっと目を伏せる。

───狭い手入れ部屋の中には、互いを慈しみ、労って抱き合う薬研と彼女の姿だけがあった。


end

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