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▼ 奪う竜、融かす般若/ver.大般若長光

*刀剣男士が審神者に好意を寄せている描写が多いため、閲覧注意。


月や星が暗闇の中に光り、誰もが夢の淵に居るであろう夜更け。

本丸中が静まり返り、夜警の脇差や短刀が見回りを始めるような刻限となっても、審神者部屋からは薄らとした光が漏れ出ていた。


もっとも、部屋の主は明かりを消し忘れて舟を漕いでいるわけではなく、しっかりと起きていたが。

それを察してか、閉じた障子を不躾に押し開けて部屋の中を覗き込む者は無い。


行灯の明かりと火鉢の近くへ陣取り、まずは執務室兼来客用として使っている手前の間をぐるりと見渡す。

…埃も髪の毛も落ちていない。
文机の上は一時的に片付けて見苦しくない程度にしたが、今思うと元々部屋の中は薄暗いため、太刀の彼には少々散らかっていたとしてもそれが見えないかもしれなかったな、と思った。


それから、手前の間から見えないように布で無理やり仕切ってある奥の間の方を覗いてみると、布団から少し話した場所に置いている火鉢の灰汁に埋まった墨が赤く燃え、カチカチと音を立てている。


これなら、ある程度快適に夜更かしが出来るだろう。

手前の間と、寝室として使っている奥の間の二間を交互に眺めて、彼女は満足そうに頷いた。


彼女の感覚からすると、特に仕事を片すわけでもなく『自分の楽しみのためだけに夜更かしをする、』というのはとても贅沢な気がしたし、同時に何故だか申し訳ないような気持ちにもなる。

…しかし、一人で夜更かしをするわけではない事を思えば、幾らか罪の意識が軽くなるような気がした。


うっかり気を抜けば緩み出しそうになる口元を結び、兎のように跳ね回る心を落ち着けようと試みた。


今晩、彼女が何となくソワソワして落ち着かないのは、他でもなく。

ごく簡潔に言うとすれば、今晩の夜更かしの相手を買って出てくれた刀剣男士を待っているからだった。


掛け時計をちらと見やると、時刻は既に約束の亥の中刻へと差し掛かっている。

今はそれ程遅い時間ではないから、誰を部屋に引き入れようが叱られる事は無いだろうが。


『主から招かれるのならばいざ知らず、自分から名乗りを上げるとはどういう了見だ!』等と目くじらを立てる者もいれば『あいつと主は体の関係を持っているのではないか、』等と妙な勘ぐりをする者もいる。


ことに、彼女の初期刀にして最古参の相棒である歌仙兼定はそういった事に厳しい質で、これまでも彼女に『他の刀剣男士と云々───。』なぞという噂が出た途端、凄い剣幕で詰め寄ってきて事実確認をし、事と内容によっては厳しく説教をしながらたしなめ。

こちらに心当たりがなく、誰かの勘違いに尾ヒレがついて噂が一人歩きしているようだと判断すれば、直ちに火消しに徹する…という具合に、本丸内で発生した彼女に関する不埒な噂を片っ端から叩き潰す役割を担ってくれている。


それにはとても感謝しているし、頭が上がらないな、と思うこともままあって。

…しかし、前者の説教だけはどうしても頂けない。


自分としては、それだけは絶対に回避したいところだ。


例によって初期刀から要らぬ説教を貰ってしまわぬよう、今日の夜更かしの件については、その男士と口裏を合わせて絶対に秘密にする、という手筈になっていた。


「(今夜の事は『お互いに黙ってる』って事にしたし、今の所誰にも言って無いから、分からないよね…?)」


後は、どれだけ上手く証拠隠滅が出来るかに掛かっているわけだが…。

そこまで考えを巡らせた時。
不意に襖の前へ誰かが立つ気配を感じ、急いで居住まいを正す。


もしかしたら、歌仙か…。
それか、今夜の夜警当番に当たっていた日向かもしれない。

言い表せぬような緊張感を持ったまましばらく待つと、障子を三度撫でる音が聞こえてきて、彼女はぱっと顔を明るくした。


急いでそちらへ近付き、極力静かに障子を押し開けると、そこには来訪を今か今かと待ち望んでいた刀剣男士の姿があった。


彼は、名を大般若長光という。

この度は縁あってようやく本丸に迎えることが出来た…と皆で喜んだし、歓迎会の席で早速覗かせた、見た目に反しての庶民的な感覚に驚きながらも、何処にでもするりと馴染んでしまう適応力の高さに感銘を受けた。


刀剣男士は何故か見目麗しい者が多く、初期刀を初めて顕現した時でさえ、今までお目に掛かった事の無いレベルのとんでもない美形が出て来たものだから、呼吸をするのも忘れて見入ってしまったというのに。

大般若においては、あの長船の一派という事もあってか、顕現した直後、その顔面偏差値の高さに呆然としてしまったのが記憶に新しい。


……私的な考えを挟むとすると、大般若は子どもの頃から何かと自分の事を気にかけて大事にしてくれた郷里の叔父にとても似ていて、本丸に来てそう長い時間は経っていないというのに、いつの間にやら格別な親しみを持って接する事の出来る刀剣男士の一人となっていた。


とはいえ、いつものようにからかわれるのは不本意だ。

子どものようにわくわくしながら待っていた事を気取られぬよう『どうぞお上がり下さい、』とだけ言って部屋へ引っ込めば、その心を知ってか知らずか、彼は緩い笑みを見せた。


「…それじゃ、お言葉に甘えまして。」


嬢ちゃんの花園にお邪魔するとしますかね。

呟きと一緒に、彼がそろりと部屋に入ってくる気配がした。


「(…とりあえず座布団を出した方がいいよね。)」


客が来たのだから、最低限の気遣いはせねばなるまい…という思考には至ったものの、いざ部屋の中を眺めても、目当ての物は見当たらない。


さて、一体何処に仕舞い込んだのだったか。

自分で使う物以外は全部奥の間の方へ引っ込めた事は覚えているのだが、そこから先がどうも思い出せない。


考え事をしながら大般若に背を向けた途端。


「ああ───、ちょっと待ってくれ。」


軽い一言と共に、ごく自然な動作で冷たい彼の指が手首に絡み付く。

それが思いの外強く。
同時に、引っぱるような動作を伴っていたために、彼女は大般若の胸元に後頭部を押しつける───丁度、もたれ掛かるような格好になってしまった。


一瞬にして詰められた距離に心音が跳ね、体が強張る。

大般若の方も、倒れて来られるというのが予想外だったのか、驚いたように体が跳ねたのが分かった。


だが、程なくして。

もたれ掛かったままの大般若の体が、時折小刻みに震えている事にに気が付く。


「(…笑ってる。)」


そう、笑われている。
…不意の出来事とはいえ、ほんの少しだけドキドキしたのに。

それ以前に。
こっちだって意図せぬ出来事に巻き込まれて固まっているだけだというのに、挙げ句笑われるとはどういう了見なのだろうか。


『解せぬ。』

その一言がひたすら脳内で渦巻く。


大般若が一頻り笑い、たった数分前の出来事を思い出してまた吹き出す…という行為を飽きもせずに繰り返す頃には、彼女の機嫌の悪さはピークに達していた。


子どものようにむくれてややがさつに大般若から離れると、彼は敏感にこちらの気分の変化を感じ取ったらしい。

彼はどうにか笑いを押し止めながら屈み、こちらにしっかりと目線を合わせて謝罪の言葉を口にした。


「いやぁ、悪い悪い…、」


「……………。」


「ごめんな、まさかこんな事になるとは。」


───それはこちらの台詞だ。

段々冷静になってきたところで、彼女は自分自身が思いの外酷く腹を立てている事に気が付く。


これは、半ば事故のような動作をせざるを得ないような状況を作った張本人である大般若の行動に対しての怒りなのか。

それとも、事故であったにせよ、密かに彼を異性として意識してしまった瞬間に大般若から笑われた事に対しての怒りなのか。


自分でもよく分からず、怒りを持て余したまま黙りを決めて俯いていると、不意に、カサカサ…という音が耳に届いた。


何か包み紙でも開けているのだろうか?

視線は爪先の方に向けていながらも、天邪鬼な彼女の耳は突如出現した音を拾い続ける。


続いて、かぱ…と蓋を開けるような音がした。

直後、ふわりと。
誰でもうっとりとしてしまうような甘い香りが鼻先を掠める。


「嬢ちゃん、」


自分を呼ぶ声につられてゆっくりと顔を上げれば、大般若は柔らかな笑みを浮かべ、片手に小さな箱を持ったままこちらを見下ろしていた。

彼自身の持つ美貌を余す事無くこちらへ向けられている…その動かぬ事実は、萎みかけていた気持ちをいくらか持ち上げてくれたが、同時に、また『嬢ちゃん』と呼ばれた事に落胆してしまう。


大般若は、何故か彼女の事を『主』とは呼ばず、いつでも『嬢ちゃん』と呼ぶ。

刀剣男士は大抵、審神者であり、彼等の持ち主たる彼女の事を『主』と呼んで慕ってくれるが、大般若だけは、顕現したその日から彼女をずっと『嬢ちゃん』と呼び続けているのだ。


別段、それが嫌なわけでもないし、名称を変えて欲しいと言った事は無い。


「(私、からかわれてるんだろうな…多分。)」


一つ溜息を着いて目線を動かした際、視界の端に映った彼の指先が、テトラポットのような形をしたチョコレートを品良く摘まんでいるのを認めた途端、意図せず表情が引き攣るのを感じた。

これから彼が自分に何をしようとしているのかが透けて見えた気がしたのだ。


「…そら、『あーん』しな。」


食わせてやる。

間髪を入れず、今しがた予想していたのと全く同じ展開が訪れ、咄嗟に『自分には予知能力があるのではないか…。』とすら思い始める。


しかし、内心は驚きより戸惑いの方が強い。

それこそ、いきなり口を開けろと言われたって困ってしまう。


しばらくチョコレートを眺めていると、見かねた大般若が再び口を開く。


「もしかして、チョコレートは嫌いだったか?」


「そ、そうじゃないけど…。」


小さく返答すると、彼は口の端を吊り上げて、悪戯っぽく笑った。


「なら、早く口開けな。こんなに長く持ってちゃ流石に溶ける、」


『溶ける』という言葉を耳にした途端、彼女はハッとして大般若の指先を見やる。

…確かに。
大般若の言った通り、固形だったはずのチョコレートはほんの少し溶けかかって、彼の白く細い指にとろりと染み付いている。


このまま行けば、固形だったチョコレートは彼の体温で融かされ、間もなく液状になってしまうだろう。

畳に垂れれば掃除が大変だろうし、何より、一番美味しく食べやすい形に加工された食品を食べない…というのは、食品自体に申し訳ない。


この言葉のうちの半分は燭台切の受け売りだが、彼女は諦めて薄らと口を開く。

端から見ていれば、ほんの僅かな動作ではあったが、大般若はそれを見逃さなかった。


細い指が、すい…と彼女の口の辺りへ降りてきて、溶けかけのチョコレートを柔らかな唇の隙間へほんの少し押し入れる。

それを逆らう事無く受け入れれば、口内はあっという間に華やかな風味で満たされた。


まだ固い部分を歯でやわやわと噛んでみると、割れた箇所から甘酸っぱく爽やかなフルーツペーストが広がり、口内のドロリとした甘さを塗り替えていく。


「………美味しい、」


感嘆にも似た言葉がこぼれ落ち、自分の事ながらチョロすぎるのでは…等と思ってしまったが、彼はただ満足そうに微笑む。


「気に入ったか。」


なら、持ってきた甲斐があったな。

片手に乗せたままの箱を僅かに持ち上げ、大般若は感心したように中を覗く。


…その動作から察するに、今しがた食べたチョコレートは、彼が手土産に持ってきてくれた物だったらしい。


「そんなに気を遣ってくれなくても良かったのに、」


思わずそんな言葉がこぼれ落ちるが、彼はそれを気にしたふうでもなく『流石に手ぶらはヤバいだろ。』と返してニヤリと笑う。


「ま、さっきので分かったと思うが、決して不味い物じゃないからな…よければ貰ってくれ。」


蓋を閉めたが早いか。
彼はあっという間に小洒落た包装を元のように直してしまってから、箱を目の前に突き出す。

もうこれを受け取るより他は無いようで、彼女は僅かにむくれたまま箱を腕に抱いた。

…やっぱり、子ども扱いされている感じが否めなかったのだ。


しかし、いつの間にか畳の上にどっかりと胡座をかいていた大般若の周囲にテーブルゲーム用のカードやグッズが積み上げられていくのを見て、彼女の機嫌はすぐさま直ってしまう。

こんなに沢山、どこに隠して持ってきたのかが気になるが、いくつかやってみたかった物もあり、眉間に寄っていた皺は見る影もなく消えてしまった。


「さてと───そろそろ本気で遊びますか。」


…で?嬢ちゃんはどれがやりたいんだ?


俄然やる気のある一言につられるようにして、彼女は畳の上に座る。

危ない取引でもするかのように、二人は悪い表情をしてカードの山を眺めた。


***


「…うわ。」


また勝っちゃったよ…。

白星を上げたにしてはちっとも嬉しく無さそうに、彼女は自分の手札を放り投げた。


畳の上に散乱したカードは、ものの見事に強い札ばかり揃っている。

…つまり、ゲームを始めて一週目に手に入れたカードが概ね強い物ばかりであった時点で、彼女と大般若の勝負はついていた。


珍しく眉間に皺を寄せながら、彼は真剣に自身の手札を眺め、畳の上に放られたそれらと見比べて溜息を着く。


「また俺の負けか…、しっかし、嬢ちゃんはやけに引きが強いな。」


「うーん…そうかな?」


たまたまじゃない?

人数の比重の問題もあるから…と伝えてみるものの、大般若はそれを大真面目に否定した。


「もしかすると、これは天性の才とか。そういう部類なのかもな。」


…その証拠に、俺は御覧の通り負け通しなんだが。

まいった、とでも言うように両手を上げて苦笑いを浮かべる彼の周囲には、年相応の哀愁が漂っている。


実際、今は大般若と二人で手当たり次第にテーブルゲームをやって遊んでいるのだが、彼が勝ったのはまだ数えるほどしか無い。


恐らく、先程述べたように人数の比重の関係でカードが極端に強いか弱いか、という具合に偏っているせいもあるのだろうが。

どれだけやってみても、ことごとく弱いカードを引いたり、振ったサイコロの目の出が悪すぎたり…と、彼はとにかく運のない負け方をしていた。


『誰だって、何度やっても勝てない物などつまらないだろう。』


そんな忖度もあり、まずはルールの確認がてら、一定の数をこなしてみて。

あまりにも大般若が負け続けるような場合、すぐに他の物に乗り換えるようにはしているのだが、彼女が配慮しようとすればするほど、それを嘲笑うかのように彼は手酷く負け続ける。


本人もわざとやっているわけではないのは明らかで、勝ち続けるのならまだしも、負け続けるイカサマをするにしたって容易な事ではないだろう。

大体『面白そうだから、』『暇つぶしになりそうだ。』という動機でテーブルゲームを方々から借りてきたは良いものの、遊び方を全く把握していない辺り、彼は完全なる初心者だ。


大般若がそれなりに器用な部類である事は知っているが、ほぼ初見のテーブルゲームでイカサマが出来る…なんて事はまずないだろう。


最早、元々持っている運気が思わしくない巡りなのではないか、と疑うくらいに、彼は物凄い勢いで黒星を上げ続けていた。


「───つ、次。」


次…何か、やりたいのある?

重苦しくなり始めた空気を感じながら、苦し紛れにそう問うた時だった。


「………なら、」


言った途端に、大般若は目の前にあったカード類を退かしてしまい、悪い笑みを浮かべる。


「ちょっと大人の夜更かしでもしてみるか?」


『大人の』と付けられた所で良からぬ事ばかりが脳裏に過ぎり、咄嗟に断ろうとしてしまうものの、何とか思い留まる。


今まで散々勝ってしまった分、大般若が提示してきた事に付き合うのは当然なのではないだろうか。

それで、なにがなんでも彼を勝たせなければ、今日の夜更かしは終われないのかもしれない。


深夜故か、おかしな考えが沸いては消えていく。


「───それって、どうやってするの?」


迷いながらもそう問うと、遊びに乗ると判断されたのか、彼は少しばかり楽しそうな表情を浮かべる。


「…なに、わけないことさ。嬢ちゃんが俺の方に近寄って来てくれさえすれば、それでいいんだ。」


ちょっとやってみてくれないか?

促され、彼女は膝を繰って大般若の方へ少しだけ近づいた。


「それじゃ、ちとキツいな。」


もっとだ、

さらに促され、訝しみながらもまた近付くと、彼は眉根を寄せてこちらを眺める。


「さては嬢ちゃん、分かってないな?いいか、男から誘われた時はな…、」


こうやって、思い切りくっつくもんだ。

言葉と共に腰を掴まれ、ぐい、と引き寄せられる。


そのまま。
今度は真正面から大般若の胸へなだれ込む形となったが、何故だか笑われる事は無い。

ただしっかりと抱き止められているのみだ。


彼は、ごく緩く。

しかし、振り解くには難儀する…という具合に、絶妙な加減で彼女の体を腕の中に閉じ込めていた。


そのために、どれだけ暴れようとしても、容易く押さえ込まれてしまい、抜け出すことを諦めて数分。

冷静になり始めた頭は、とんでもない事に気が付く。


「あ………、」


これって、もしかして。

いわゆる『抱き締められている』という形に相当するのではないだろうか。


自分の置かれた状況を意識して初めて、体中が熱を持った。

薄いようで、もたれ掛かるとそれなりにがっしりとした胸板に頬を押し当てるような格好のままで、彼女は目を見開く。


こうしていると、彼の纏う香りにすらも抱き込まれているようで、何だかくすぐったいような気持になる。

それから、いつまでも所在なさげに服の裾を掴んでいた自分の両腕を、そっと彼の背中に回してみると、大般若から『分かってきたな、』と誉められる。


何だか少しだけ認められたような気になって、つい擦り寄るような動作をすると、髪に指を通され、何とも心地よく頭を撫でられる物だから、ますます嬉しくなった。

先程まで赤くなっていたのが嘘のようだ。


───腕の中の彼女が、すっかり居心地が良さそうにし始めた頃合を見計らって、大般若は今までひた隠しにしてきた牙を剥いた。


「そら、良い子だ。口開けな、」


その一言に弾かれるようにして顔を上げると、彼の指には、またチョコレートが摘ままれている。

既視感があるが、機嫌の良い彼女は何も考えず、言われた通り、やはり僅かに口を開けた。


『大般若なら、自分に酷い事はしないだろう。』

少しの気の緩みと、愚かな確信を伴って下された判断は、彼女に苦い失敗をもたらす。

チョコレートは、そのまま浅く開いた唇の隙間へ押し込まれて口内へ消えるのではなく、半分入った所で止められ。

何事かと呆気に取られているうち、視界が反転して、大般若を見上げる形になる。


これはいけない。

彼女の中の危機感が焦って警鐘を打ち鳴らすのも虚しく、逃げようと思った時には既に上からのし掛かられ、手首もしっかりと畳に縫い付けられた後だった。


宝石のような赤い瞳に射抜かれ、息を飲んで固まった瞬間。
目前まで迫った精巧な顔が、嬉しくてたまらない、とでも言うかのように歪んだ。

そうして、彼の薄い唇がチョコレートを飲み込むようにそっと食んでがりりと噛み砕き、乱暴に口付けられる。


どこにも逃げ場の無い彼女は、されるがままに唇を貪られた。

最初は、ごく優しく。触れるだけ。
次は、唇の合わせから舌を入れて、抉るように深く。


それに合わせるように、互いの口内に入ったままのチョコレートが溶け出して、脳天まで突き通るような甘さを放つ。

その鼻から先へ抜けるような風味に、限界まで酒を煽った時のような酩酊感を覚えた。


溶けるのではないかと思う程異様に熱い口内は、彼の舌によって絶えず歯列をなぞられ、今まで一度だって経験した事の無い、荒く苦しい接吻を強いられるばかりだ。

喉や食道の辺りまで送られた鮮烈な甘味は、内側から焼かれるような切ない痛みを催させる。


どちらの物とも言えぬ唾液が口の端からだらしなく垂れ続け、逃げようとしてはまた押さえ込まれ。


あまりの苦しさと初体験の衝撃の強さから、彼女は涙を流す。

下手くそなりに激しい接吻の合間でどうにか息を吸おうとした時だった。


「…げほっ…ん、っぐ………!?」


舌と舌の僅かな隙間から精一杯吸い込んだ空気が、甘さで焼けたようにひりつく軌道を撫でただけで、彼女は激しく咳き込み、その拍子に、思い切り大般若の舌を噛んでしまう。

瞬時に広がった痛みと血の味に、彼は僅かに顔を顰めてようやく彼女を解放した。


しかし、頬や耳を赤く上気させたまま咳き込む様子を見て、慌ててその華奢な体を抱き起こし、背中を擦る。


「おいおい、大丈夫か…?」


先程とはうって変わり、優しい面をみせる大般若をどこか空恐ろしく思いながら、ありがたく介抱されていると、幸いにも咳はすぐに止まる。

…すると、ようやく整ってきた息とは対照的に、今度は涙と共に怒りにも似た感情が湧き出る番だった。


「大般若の馬鹿っ、!!いきなり、あんな事…何で?ひどいよ…!!」


初めて、だったのに…!!

ぽろぽろ涙を零しながら恨みがましく呟くと、彼は素直に、悪かったと謝罪する。


「───がっついた事は謝る。ただ、普段それだけ無防備なんだから、もうてっきり歌仙や他の男士辺りと出来てるのかと思ってたんだが…。」


違ったのか。

意外そうに言う彼に腹が立って、彼女は勢いよくそっぽを向く。


「………歌仙も他の皆も、私にこんな酷い事しないもん。」


大般若なんか嫌い、

肩を抱く手を振り払い、背を向けると、彼は再度謝罪の言葉を述べる。


それでも、いくら丁寧に謝られたところで、許せないものは許せない。

本日二度目の生まれて初めての出来事に、彼女は憤りを感じた。


元を辿れば、得体の知れない物を提案された時点でそれに乗るような発言をしてしまった事はもちろん。

まずもって、夜に男士を部屋に招き入れておきながら、全く警戒しなかったのがいけなかったのかもしれない。


───自分にも非があるのは充分に分かるが、何より『自分に対して酷い事は決してしないだろう。』と信じて疑わなかった相手からの裏切りが何よりも堪えているのだ。

だから、今だけはどう頑張っても大般若を許せなかった。


「私…もうお嫁に行けない、」


恨みがましくそう呟くと、彼は間髪を入れずにとんでもない事を言い出す。


「なら、俺の所に来ればいい。」


「………そんな事言って、」


もう嫌、からかわないでよ。

刺々しく突っぱねると、彼の手が伸びてきて、背中を優しく撫でる。


「からかうつもりなんか無いさ。さっきの事だって、他でもないあんたが相手なんだ。遊びでやるわけないだろう?」


至って本気だ、という旨を聞かされても、気持ちは沈んでいくばかりだ。

とうとう何も返せずにいると、痺れを切らしたのか、大般若が後から抱きつくような格好でもたれ掛かってきて、彼女の肩に顎を乗せる。


「───俺は多分、あんたが思ってる程薄情じゃないぞ。それに、もし許してくれるなら、喜んで今夜の責任を取らせて貰うつもりでいる。」


…もう『嬢ちゃん』じゃないんだ。自分でちゃんと考えてから返事してくれよ?

ごく近い距離で、耳の奥へそっと流し込まれた言葉に、ぞくりと体が震える。


もし、自分が彼を許せたとして。
責任を取るとは、一体どこからどこまでの事を指しているのかまるで見当がつかない。

それどころか、この先も何か初めて経験するような事があるのか、と考えただけで、卒倒しそうな気さえする。


いつの間にかまた溢れてきた涙を乱暴に拭い、大般若に背を向けたまま沈黙を貫くと、頭や頬をそっと愛撫された。

愛撫の間。
時折頬に口付けられる度、反射的に体が跳ねたが、危害を加える気は無いと繰り返し伝えられ、どうにか堪える。

頬を濡らし続けた涙が止まる頃。
彼はようやく彼女から離れ、畳に散らばったままのカード類を片付けてしまってから、そっと挨拶をする。


「…それじゃ、おやすみ。」


それを微動だにせず背中で受け取り、彼女は普段から小さな身を更に縮める。

初で可愛らしいその様子を優しく眺め、大般若はそっと審神者部屋を出て行った。


それから数日後。

大般若と彼女のやり取りが妙にぎくしゃくしている事に気付いた数名の刀剣男士により、二人の仲をどうにか取り持とうという動きが出たのは言うまでもない。

どちらかといえば『仲良きことは美しきかな、』というような考え方をする彼女の本丸の刀剣達は、少しの不和にも敏感なようで。

…最終的には、本丸全体に『主と大般若をどうにか仲良くさせよう、』等という動きが広まり、いらぬ世話を焼かれて彼女が頭を抱える羽目になったのは言うまでもない。


一方、大般若はというと。

事情はよく分からないものの、周囲からの後押しもあるなら…と、彼女の近侍を勤めつつ、気長にあの夜の返事を待っているのだった。


end

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