▼ 奪う竜、融かす般若/ver.小竜景光
*刀剣男士が審神者に好意を寄せている描写が多いため、閲覧注意。
黒い帳が下り、誰もが夢の淵に居るであろう夜更け。
本丸中の明かりという明かりが消え、夜警の脇差や短刀が見回りを始めるような刻限となっても、審神者部屋からは薄らとした光が漏れ出ていた。
もっとも、当の本人は明かりを消し忘れてうたた寝をしているわけでなく、しっかりと起きていた。
それを察してか、無愛想に閉じた襖を押し開けて部屋の中を覗き込む者は無い。
自分からすると、いつものように寝落ちしていないという点を存分に誉められたいところだが。
…しかしながら、眠れぬ理由が理由だけに、賞賛の言葉を貰ったとて、手放しでは喜べなさそうな気がした。
懲りもせずに襲い掛かってくる眠気を吹き飛ばすという名目で次から次へと必死に思考しながら、彼女は口を真一文字に結んで正座をし続ける。
今晩、彼女が眠いのを我慢してでも起きていなければいけないのは、他でもなく。
ごく簡潔に言うとすれば、とある刀剣男士が部屋に居座ったまま一向に自室へ帰る素振りを見せないからであった。
向かい側で飽きもせずににこにこと笑みを浮かべている彼の方から視線を逸らし、掛け時計をちらと見やると、時刻は既に子四つ時へと差し掛かっている。
どうりで眠たいわけだと納得したはいいが、彼女自身も向かいの彼も、明日が休日というわけではないのだ。
体が資本である者同士、いくらなんでもここいらで体を休めておかなければ流石に明日に障る。
その上、いくら元が刀であると言ったって、今の状況は何をどう頑張っても『寝室で向かい合う男女』にしか見えないだろう。
事実、時間が経つに比例して、主は初だ何だと妙な所を茶化される回数も増え始めている事も、やたら気を揉む要因となっている。
今のやり取りをうっかり夜警の者に見られようものなら、これは誤解だと弁解するより先に、燭台切の妙な気遣いによって、朝ご飯が赤飯になるのだろう。
そうして、すれ違う刀剣男士のほとんどから何故か祝福の辞をかけられ、古参の部類に当たる者からは『これは一体どういう事か、』と詰め寄られて詳しい説明を求められる…という何とも面倒な事になってしまいかねない。
ことに、彼女の初期刀にして最古参の相棒である歌仙兼定は、そういった風紀の乱れを良しとしない質で、これまでも彼女に『他の刀剣男士と云々』なぞという噂が出た途端、凄い剣幕で詰め寄ってきて事実確認をし、事と内容によっては厳しく説教する…。
もしくは、こちらに心当たりがなく、誰かの勘違いに尾ヒレがついて噂が一人歩きしているようだと判断すれば、直ちに火消しに徹するという具合に、彼女自身に不利益な事が起こらぬよう、舞い落ちてくる火の粉を振り払ってくれるのだが、前者の説教だけはどうしても頂けない。
自分としては、出来れば…いや。
それだけは絶対に回避したいところだ。
このようにどんどん深刻になっていく彼女の『最悪の事態予測』は、眠気も相まってありえない早さで燃え広がり、脳裏に浮かび上がる『最悪の事態』たる光景は、どれも焼け野原になった戦場のように殺伐としていた。
最早結論からすると、目の前の彼が退出しないからには『最悪の事態』を避けることは出来ない。
───さて、それにしてもどう言ったものか。
「あ、あのぅ………、」
特に考えも無しに口を開いたはいいが、その先に続く言葉が出て来ない。
かと言って、冷たくあしらって退出させるのも気が引けるし、ストレートに『帰れ』と言葉を放るだけ、というのはもっと良心が痛む。
相変わらず眠くてよく回らない頭を使って一生懸命に考えている間も、膝を付き合わせるようにして向かいに座っている男士は人懐こい笑みを浮かべ、小首を傾げてこちらを眺めているだけだった。
もちろん、この時点でも退出してくれる気配なぞなかったが。
彼は、名を小竜景光という。
この度、縁あってようやく本丸に迎えることが出来たと喜んだのも束の間。
その後間髪を入れず『新しい刀剣男士を手に入れよ』という政府からのお達しにより、本丸中がばたばたしていたために、彼とあまり親しく話す機会はなかったように思われる。
刀剣男士は何故か見目麗しい者が多く、初期刀を初めて顕現した時でさえ今まで見たことのない洗練された美しさに圧倒されて声も出せない程だった。
しかし、小竜においては、あの長船の一派という事もあってか、顕現した直後、その顔面偏差値の高さに衝撃を受けたのが記憶に新しい。
とにかく、彼の笑みにも仕草にもどこか愛嬌があり、親しみを持って接する事の出来る刀剣男士、という印象が自分の中で強い。
伏していた目をふと彼の方に向けると、彼は先程と何ら変わらぬままそこに居た。
…何度も言うが、部屋から出て行く気が無いのは見るだけで分かる。
いっその事『もう寝る時なんじゃない?』と直接問うてしまおうかと思い始めた頃、小竜はクスリと笑ってこちらへ躙り寄り、急に彼女の顔を覗き込む。
一瞬にして、互いの息がかかってしまうほど詰められた距離に意図せず心音が跳ねるが、彼はそんな事など気にしていないようだった。
陶器のように白く滑らかな肌に見入っているうち、彼の形の良い唇が薄く開かれる。
「…どうしたの、そんな顔して。」
「……………。」
───てっきり、退出するという旨の言葉を寄越してくれるのかと思ったが、それは何とか飲み込み、表情でそれを気取られてしまわぬよう俯く。
その拍子に、さらさらと流れていった髪を小竜の指先が追い掛け、緩く摘まんで優しく耳にかけた。
まったくもって、何処までもキザな真似をしてくれる。
平生ならば何も言わずにかわすことの出来る範囲内であるはずが、眠くて苛々しはじめているこちらとしては、ちょっとした演出すら要らぬ世話として映ってしまう。
「もうやだ…………長船め、」
悪態めいた言葉がうっかりこぼれ落ちてしまったが、彼はそれをさして気にしたふうでもなく、にこやかに微笑んで『可愛いね、』と囁きかけてきた。
やはり彼は、あくまでここに居座るつもりらしい。
新参であるとはいえ、元より本丸に居る他の平安刀達ばりのマイペースさに押され気味になってしまうのは、致し方ない事と思ってほしい。
───しかし、このままでは本気で夜通し起きている事になりかねないだろう。
「あの、ちょっといい…?」
意を決して再度発語すると、彼は機嫌良く笑みを浮かべたまま耳を傾けてくれる。
「恥ずかしい話なんだけど、私、さっきからすごく眠くて…とても我慢出来そうにないの。明日の事もあるし、そろそろ休んでもいい?」
言い終えてすぐ、彼女はようやっと自分の意思を口に出来せた事に安堵した。
大部遠回しな言い方ではあったが、流石にここまで言われては誰だって気を遣ってくれるだろう。
…しかし、彼女の浅はかな考えは無残にも叩き潰される。
小竜は終始表情を変えず、何度か頷きながら彼女の話を聞いていたが、何を思ったのか、急に笑みを消してこちらを見据えた。
いつも柔らかな微笑をたたえている彼の口角は珍しく下がり、完全な無表情のまま凝視されるというのはなかなかに怖い。
こう言っては失礼だが、彼はよく出来た人形のような容姿をしているもので、その瞳にじっと眺められると、何故だか変にどきどきしてしまう。
今度は何だ、もう勘弁しろ…。
そう思い始めた所で、小竜は不意に破顔した。
「そうか。『眠い』のか…確かに、こんな夜更けなら誰でも眠くなるよね。」
それなら。
「………眠るまで、俺が傍についてるよ。」
聞き間違えのしようがない程はっきりと言い切って、彼はまた爽やかな笑みを浮かべる。
こいつ、何を言っているんだ。
そう思うより先に、いつの間にやらこちらへ伸びていた彼の大きな手に自分の片手をやわやわと握られてしまい、変な声が出て、咄嗟に顔を逸らした。
それから何を想像したのかは知らないが、小竜は少々心配そうな顔をしてまたこちらを覗き込んでくる。
「……もしかして、俺の事疑ってる?」
「…いや、あの…そのぅ……、」
疑ってる云々より、あなたが何で添い寝しようとするのかが激しく疑問です。
腹の内に沸き起こった正直な思いは誰にも察される事無く、置き去りにされていく。
対して、小竜は相も変わらず飄々としており『大丈夫だからね、』『仮にも君とは主従関係なんだから、変な事はしないよ?』等と宣っていた。
…止めろ、変なフラグを立てるな。これ以上行くと、本気で歌仙に怒られる。
私は、そんなの、絶対に、嫌だ。
ぐわん、ぐわん…と。
頭の中で、けたたましく警鐘が鳴っている。
何だっていい。
とにかく、歌仙に叱られるのを回避する為には、誰かに見られる前に小竜を部屋の外に出さなくてはならない。
変な汗をかきながら。
小竜から何を言われようと、あくまでやんわり。
遠回しな返しをする。
それに徹しているうち、彼女は、自分がいつの間にやら、すぐ近くに敷いていた布団の上にまで追い詰められている事に気が付く。
後方には壁、前方には小竜。
その両方に挟まれるようにして、退路は完全に断たれたように思われたが、それならば左右のどちらかに逃げれば良いではないかという発想に思い至り、焦りながらもどうにか実行に移す。
どうせならば、部屋の出口が近い右側へ逃れようとすると、既に動きを見切られていたのか。
小竜が自らの体をそちらへひょいとずらし、いとも容易く最後の退路を断たれてしまう。
「(お、終わった………!)」
その瞬間、彼女は密かに白旗を上げた。
今度こそ、完全に逃げ場のない…躙り寄ってきた小竜と壁との間に挟まれるような体勢に追い込まれ、彼女はまた俯く。
頭の中は、もしこんな所を誰かに見られでもしたら…という思いと、どうやって歌仙に言い訳をするかでいっぱいだ。
すると、真上から『逃げないで、』と。
どこか懇願するような響きを伴った声が降ってきた。
「…に、逃げてなんて、」
逃げてなんていない。
咄嗟に否定するも、あの大きな手が伸びてきて耳の辺りを緩く擽り、そのまま顎のラインを伝ってすいとおとがいを持ち上げられる。
今度こそ、小竜としっかり目が合った。
「………嘘だ、」
逃げてるよ。
いつもより幾らか低い声音で語りかけられ、彼女は小さく震える。
もしかして、怒らせてしまっただろうか。
見つめ合うのがいたたまれなくなって、視線だけでも逸らそうとすると『こっちを向くんだ。』と釘を刺され、いよいよ参ってしまう。
「さて、」
君はどうして俺から逃げようとしたのかな?
口調こそ穏やかだが、詰問のような調子に、ひくりと体が跳ねる。
「それは、その………、普通、こんな時間まで刀剣男士と一緒にいたら、そういう関係、だとか…その…。周りに誤解されちゃうし…歌仙に叱られちゃう、から……。」
正直にそう告げれば、小竜は菫色の瞳を瞬かせ、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「……なら、全部俺のせいにすればいい。」
「で、でも…歌仙は『君の方にも落ち度がある!』って、言うと思うし…。」
どっちにしろ、今日の密会めいたこれが何処からか知れれば、こっぴどくお叱りを受ける事は避けられない。
そう言えば、彼はむしろ楽しそうにこちらの手を握ってくる。
「それなら、一緒に叱られよう。」
これなら怖くないだろ?
何故か自信ありげに断言する様は頼もしいが、それがかえって初期刀の逆鱗に触れるのではないかと思うと、ますます気が滅入った。
「……………。」
今度こそ堪らなくなって物言わず顔を逸らすと、小竜は諦めたように息を着く。
「…分かった、困らせて悪かったね。俺は部屋に戻るよ、」
ただ、
「君は、もう少し俺を好きでいてくれたものとばっかり思ってたから、少し寂しいかな−−−。」
切なげに述べられた言葉に、ハッとして彼の方に向き直れば、少女のように長い睫毛に縁取られた菫色がしっとりと潤んで、今にも泣き出しそうな顔の小竜がそこに居た。
「あっ…あの、私。あなたの事、嫌いなわけじゃないよ…?他の皆と同じように好きだし、出来るだけ、仲良くしたいと思ってるし…、」
予想外の展開に慌てふためき、つい勢いに任せて言ってしまったが、彼の表情の晴れ方を見る限り、いくらか機嫌を直してくれたようだった。
とりあえず、刀剣男士との仲にヒビが入るのは回避できたと安心したが。
「よかった…、じゃあ、君に口吸いをしてもいいかな?」
不意に放られたその一言に、度肝を抜いた。
「(くちすいって、)」
現代で言う『キス』の事、だよね…?
分かりやすく脳内変換したまでは良いが、いきなりそんな事を言われたって困ってしまう。
「それはちょっと、」
拒否の言葉を出しかけたところで、彼の表情がまた曇り出す。
「だめ、なのかい…?それって嫌いって事じゃ、」
「ち、違うよ…!嫌いじゃないから、落ち着いて……。」
何とか彼を宥め、彼女は考えを巡らせた。
***
…そもそも、『口吸い』と『好き』が、どうやったら結びつくのかがさっぱり分からない。
小竜自体、顕現してから半年しか経っていないはずだが、そういった事はどこから覚えてくるのだろう。
もしや、どこかで『好きな相手には口吸いをするものだ、』というような間違った認識が植え付けられてしまった可能性も無くは無い。
ならば、間違っている部分は、本人のためにも正してやるべきだろう。
しかし、今の小竜の様子からして、とてもじゃないが冷静に話を聞いてくれるとも思えない。
「(一度だけなら、)」
間違いは後でいくらでも正せる。
口吸い云々は、私さえ黙っていればそれで済む話だ。
そんな事なかれ主義的な考え方が、彼女に安易な返答を口走らせる。
「ほ、頬か額になら、いいよ…?」
呟くようなそれをしっかりと拾い上げ、彼は心から嬉しそうに微笑する。
「ありがとう、主。」
柔らかな声音と共に、彼の手が前髪に優しく触れ、彼女の額を少しだけ露出させた。
作り物のような端整な顔が近くに寄せられるのに驚いて目を閉じると、小竜が笑ったのが分かる。
それから程なくして。
額に息がかかり、いよいよかと覚悟すると、何故だかそれはすぐに離れていった。
「…………?」
躊躇っているのだろうか。
心のどこかで、彼の方から『…やっぱり、今日は止めておくよ。』とでも言ってくれるのを期待しながら薄目を開けると、やはり何か考えているらしい小竜の様子が見える。
早く自分の求める答えを言ってくれまいか。
しばらく待っていると、彼は思いもよらない行動に出る。
額に添えられていた手は、顔の輪郭をなぞるようにして再び顎に辿り着き、その人差し指と親指によって容易に持ち上げられてしまう。
───これは何かがおかしい。
再び脳内で鳴り出した警鐘に習って目を見開けば、少々遅かった。
「…………っ!?」
陶器のような肌が見えた。
かと思えば、驚いている隙に、割れ物に触れるようにそっと。
柔らかな何かが唇に重ねられ、そこを食むように僅かに動く。
───小竜から、口吸いをされている。
それも、指定していない場所に、である。
動かぬ事実に、彼女は一瞬で頬や耳を赤く上気させた。
何だか息が苦しくて必死に呼吸をしようとすると、彼の香りが鼻先を掠め、力が抜けていくようだった。
これはいけない。
その一心でどうにか嫌がる素振りを見せれば、小竜はあっさりと身を引く。
「あっ……あぁあっ、」
名残惜しそうに唇を離された瞬間。
へたり…と壁に背を任せ、彼女は口を覆いながら震えた。
「(わた、し……。)」
頬か額にって、言ったのに…!
それ以外は駄目だって、遠回しに伝えたつもりだったのに……っ!
やや自業自得のような所もあったが、言いようのない恥ずかしさと悔しさに、顔が真っ赤になる。
それと一緒に、ひとりでに涙が溢れ出した。
予想外の事に自分でも驚いていたが、小竜もそれは同じであるらしく、彼は眉を下げ、どこか困ったような顔をした。
「ごめんね…あんまり可愛かったから、口にしちゃった。」
「そんなぁ…、」
私『口にしていい、』だなんて言ってない…。
ぽろぽろ涙を零しながらただポツリと呟くと、彼は素直に、そうだねと同調する。
「でも、これで俺と君はちょっとだけ仲良くなった…って事になるよね?」
「………。」
「俺は君が好きだし、まだ仲良くなりたいから、これからもっとたくさん口吸いさせてくれると嬉しいな。」
もちろん、今夜みたいに。
二人きりの時に…ね?
ごく近い距離で、耳の奥へそっと流し込まれた言葉に、ぞくりと体が震える。
また小竜とキスだなんて、考えるだけでも卒倒しそうで、頭がくらくらした。
乱暴に涙を拭い、小竜に背を向けて体育座りを決め込むと、酷い事ばかりする大きな手が頭に乗せられ、髪がくしゃくしゃになる程撫でられた。
その間、小竜はつとめて満足そうであったが、反比例するようにして彼女の気分は萎んでいくばかりだ。
ひとしきりそれを繰り返し、ようやく満足したのか、彼は明るく言い放つ。
「じゃあ、おやすみ。」
ちゃんと休むんだよ?
子どもに言うような台詞を微動だにせず背中で受け取り、彼女は普段から小さな身を更に縮める。
初で可愛らしいその様子を優しく眺め、小竜はそっと審神者部屋を出て行った。
その後は、当然ながら眠る事も出来ずに、彼女はとうとう、わけも分からず泣きながら夜を明かした。
『初めてだったのに…。』
『変な事はしないって言ったのに…、』
延々と垂れ流される彼女の恨み言を聞きつけ、いの一番に駆けつけた初期刀の細やかな事情聴取によって小竜との昨日の一件はすぐさま明らかになり、今回は事が事であるため、彼女は軽いお説教を貰うだけで許される、という形になった。
…しかし、小竜はというと。
後日。
わざわざ別室に招かれ、鬼のような形相の歌仙や燭台切からきつい説教を頂戴した挙げ句、本日から来年の大晦日まで、夜から夕方にかけての審神者部屋への出入り禁止を言い渡されたという事である。
end
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