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▼ 潜む熱/歌仙兼定

浅い夢の淵。

現実と夢の間をふわふわと往き来している中、微かな音がした。


たったそれだけだというのに、自身の意識はすぐさま浮上し、物音の正体を探ろうと耳をそば立てて警戒を始めるものだから、染み付いた習慣とは恐ろしいものだと実感する。

閉じていた目蓋を薄らと開き、暗い部屋を注意深く見回すと、ほんの少し襖が開いているのが目に留まる。


そこから入り込む冷たい空気にほんの少し顔を顰め、どうせ目が覚めてしまったのだから本でも読もうかと思い始めたその時。


───件の隙間から、入室を躊躇うかのように白い爪先が覗いたのを、歌仙は見逃さなかった。

途端に、彼は襖とは反対の方へごろんと寝返りを打つ。


同時に、ほんの少し布団の端へ体を寄せ、人がもう一人入り込めるだけの隙間を確保してやり、ようやく息を着いた。

襖に背を向けるような格好のまま、狸寝入りを決め込んで静かにしていると、微かな足音を引き連れ、彼女───歌仙の主が近くにやって来る。


湯浴みを終えたばかりなのだろうか。

おずおずとこちらに寄ってきた彼女の体からは、布団越しであってもほんのりとした温かさを感じ取ることが出来、辺りには仄かな石鹸の香りが漂っていた。


「…かせん、」


「……………。」


呼ばれても、返事はしない。

僕は今、彼女からすればぐっすり眠っていて、絶対に起きない事になっているのだから。


自身にそう言い聞かせ、少し大袈裟なくらい胸を上下させて規則正しく深い呼吸をしながら、相も変わらず寝ているふりをした。

───ただ、それだけで良いのだ。


呼吸を繰り返せば、幾度も彼女の纏う香が肺腑の奥まで忍び込み、切なくなるほど時間をかけて体外へ出て行く。

息をすればするほど。
何故だか、ずっと前に体の奥へ灯った熱が揺らめいて、内側から身を焼かれているような生々しい痛みを伴うものだから、彼はこっそり溜息をついた。


そうしているうち、彼女は律儀にも『お邪魔します、』と断って布団の中にするりと入り込み、歌仙の背中に柔い頬と小さな体をぴったりくっつけて、ぐす…と鼻を啜る。

丸みを帯びて柔らかな女体が吸い付くように自身の背中に縋っているのが、この目で直接見るまでもなくありありと浮かぶようで、暫し呼吸を完全に止めてしまっていた事に気が付く。



怪しまれてしまっただろうか…。

疑念もそこそこに、彼は再度大袈裟に呼吸する。


そんな中でも彼女が鼻を啜る音は途切れず、どうやら寝たふりをしているのを気付かれたわけではない事を確信して安堵した。


それから、しばらくして。

自身の背に熱い雫が染み込み、次第に冷えていくのを感じながら、歌仙はぼんやりと考えを巡らせる。


彼女が夜中にこうして歌仙の部屋に来て涙を流す…というような行為をするようになったのは、今から大分前の事だった。

きっかけは、ごくごく些細な物であったと思う。


初めて彼女の涙を見たのは、まだ自身が顕現されて半月も経たぬ頃であったか。

その日は、夜になっても何だか眠れずに、縁側に出てずっと本を読んでいた。


丁度本も読み終えようという頃になって、彼の耳は誰かが啜り泣いている音を聞きつけ───いつもは誰が泣いていようと覗いたりはしないのだが───声のする部屋を覗いたところ、主が声を殺して泣いていた。

人前で泣く事などまず無く、いつも気丈に振る舞う彼女がこんなに辛そうに泣いているのを見て衝撃を受けたのも事実だったが、その時何を血迷ったのか。


彼は半開きの障子を開け放ち、声掛けも無しに訪問された事に驚いている彼女の元へ近寄っていき、『今度からはこんな所で泣かずに、僕の所に来て泣けば良い。』等と宣ってしまったのだ。


後々。

考えれば考える程、我ながららしくない事をしてしまったと激しく後悔したし、泣いている女人に対して男の風上にも置けぬような不躾な物言いをしてしまった事がこの上もなく恥ずかしかったが、既に出してしまった物は引っ込められない。


その結果として、辛い時や、どうしても我慢できないような事があった時。
彼女は歌仙の部屋にやって来て、いつの頃からかその広い背中に頬をくっつけ、涙を流すようになった…という次第だ。


その度、彼女が必要以上に気を遣って疲れぬようにと、歌仙は寝ているふりをして少しだけ布団に隙間を作り、出来る限り彼女の居やすい空間を設る事に徹する…というような今の状況に至る。


「(………それにしても、)」


彼女に気付かれぬようこっそりと溜息をつきながら、歌仙は無意識のうちに自身の胸元を掴む。

皮膚を一枚隔てた内側に燻り、潜んでいる熱は、まだ外側に出て来ていないようだ。


今はまだ気付かれていないこの思いが、いつか彼女に伝わってしまうことがあれば…。


その時はきっと、彼女との関係が酷くぎくしゃくするであろう事は想像に難くない。

場合によっては、彼女の元から去らねばならないような気さえしている程、この思いはあまりに苛烈で危険すぎる。


言葉にする事すら憚られるような彼女に対する一方的な思いばかり胸を過ぎるが、事実、自分は寝たふりをしたまま彼女の悲しみや苦しみを直接聞きもせず、顔を背けたきりなのだ。

このままではいけないという思いや自覚はあるものの、いざどうにかしようとして行動に移そうとする度、どうにも尻込みしてしまう。


自分としてはそれが非常にじれったくもあったが、心の何処かで諦めている節もあって、他者からどうこう言われようものなら、閉口する他ないのだが。


せめて、背を向け続けるのを何とか止めたい。

…しっかり彼女と向き合い、何も言葉を交わさずとも、華奢で柔らかなその体をただ抱き締めて、悲しみや苦しみを多少なりと受け止める事が出来たなら。


「(……困ったね、)」


僕は存外人間寄りになってしまったようだ。

自分を責めるようにしながらも、どろどろした感情が出した結論は、拍子抜けする程に素直だ。


「(僕は、)」


…僕は、君ともっと気安い仲になりたい。

今は別に『恋仲になりたい』だとか、そんな贅沢は言わないから。


少しで良い。

ほんの少しで良いから、君の思いや、考えている事。
悲しいことや、辛いことを、僕に分けてほしい。


一緒にいれば全てが解決するわけではない。

一緒に居て。
言葉を交わす事こそ、今の僕達に足りない物ではないのだろうか。


もしそれが出来たなら、自分も幾らか楽になるだろうし、彼女もきっとあまり涙を流さず、穏やかな日々を過ごせるだろうに。

───思い至っているものの、やはり行動を起こせずに彼女へ背中を向けたまま動けぬ自分に、そろそろ辟易し始める。


…その時、背中に感じていた温もりが離れ、彼女がそろりと布団から出て行く気配が感じ取れた。

当然、寝たふりをしたままでいる今の自分にはそれを引き止める事すら出来ない。


彼女が完全に部屋を抜け出て、そろそろと襖を閉める間際。

再度そちらへ寝返りを打って、薄目を開けて彼女の表情を見た瞬間、胸元がより一層熱くなるものだから、いよいよそれを押さえ付けるのに躍起になった。


無理に目を閉じればまた眠れるかとも思ったが、どうにも上手くいかない。

脳裏に焼き付いたさっきの彼女の表情が何度もちらついて離れてくれそうにない上、何故だか段々苦しくなってくる。


どうやら自分は、思いの外彼女を好いているようだった。

この分だと、前言も撤回せざるを得ない。


───僕は、君とどうにかして深い仲になりたい。
いつまでも『気安い仲』だなんて、真っ平御免だ。

互いに手を握りあって、ほんの少し頬を染めて目を逸らす…そんな子ども騙しの淡く切ないばかりの仲ではなくて、朝まで褥で抱き合い、語らい合うような深い仲になりたい。


もし君が、誰か他の者とそういった事をしている…なんて考えると、どうにも妬けてしまうんだ。

まだ僅かに漂っていた彼女の残り香を胸一杯に吸い込み、いくらでも沸いてきそうな思いをどうにかして収めようとしてみても、それは徒労に終わる。


…結局、その後は一睡も出来ず、ただ静かに夜は更けていったのだった。


end.

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