▼ 短夜/一期一振(上)
*いやらしい
「準備はよし………っと。」
気持ち良く寝付けるように香は焚いておいたし、蚊に食われてしまわぬよう、今時ちょっと珍しいような気もしたが、念のために蚊帳を引っ張り出してきて吊ってみた。
枕元には、咽が渇いてしまった時に厨へ行かずとも済むよう、水差しとコップを置いたし、布団だって、ちゃんと二組分敷いた。
あとは…何か他に足りない物はあったろうか?
蚊帳の中を行きつ戻りつしながら考えていると、不意に障子が陰り、最近よく見かける小さなシルエットがひょこりと現れる。
ああ、来た来た。
思わず笑みを漏らしながらそれを眺めていると、障子越しに、少々不安気な声が投げかけられた。
「こんばんはー…大将、ちゃんと起きててくれてる?」
………先に寝てたりしないよね?
次第に小さくなっていく声がまた何ともいじらしく、可愛いなぁと思ってしまう。
この本丸の中で一番年下なのは誰かと問われれば、当然ながら自分一人が該当する訳だ。
どれだけ見た目が幼かろうが、言動が若々しかろうが。
ここに居る刀剣男士は皆『年上』という表現では済まされないくらい途方もない年数を過ごしてきている事は、頭で理解している。
…理解してはいるものの、大抵の場合は各々の見た目に相応した言動をするため、やはりふとした瞬間に出るあどけなさやら、緩みきった表情を可愛らしいと思うのは、致し方ない事として大目に見て欲しい。
「大丈夫、まだ起きてるよ。」
こちらが返事をするのを聞いてすぐ、彼の声の調子は明るくなり、いつもの通りになる。
「ほんと!?良かったぁ…。」
安堵の笑みを浮かべているであろう彼の顔を早く見たくて、こちらから障子を開け『入っておいで』と促せば、信濃は綺麗な赤毛を揺らしながら、しずしずと。
何ともお上品に部屋の中へ入ってきた。
いつもなら部屋に入る事を許した途端、彼はすぐに飛び込んできて、自分の傍にぴったりとくっついてくるのに、今日は如何したというのか。
小脇に枕を抱え、不安定な足取りで畳の上を歩く姿は、何だか珍しい。
それに加え、彼の体格には少し大きいらしい寝間着の裾が、おぼつかない歩みに合わせて後ろをついて回るのに目が行ってしまい、転んだりしないかとハラハラしてしまう。
もしや、ここに来る前に、一期一振に一通りの作法を仕込まれたのだろうか?
問いかけようとして口を開くと、それより先に信濃が『大将、今すごく大事な所だから後にして!』と止められてしまう。
それでも、小難しい顔をして右へ左へ足を運び、ふらふらしているのを見る限り、どうもそうらしかった。
粟田口の短刀達を審神者部屋に泊める際、毎度繰り返されるこの行動は、最早、ちょっとした恒例行事になりつつあった。
例えば、乱や五虎退というように比較的初期の方から本丸に居る短刀なら、練度が高い事やら、人の体にも慣れている事も手伝って、どこに連れて行っても恥ずかしくないくらいの振る舞いが出来るが、最近来たばかりの。
それこそ、鉛筆や箸をしっかり持つ事にすら、まだ四苦八苦している後藤や信濃に同じような所作をして見せろというのは大分酷である………そう感じるのは、きっと自分だけではないはずだ。
一期一振には、大分前から『あまり気を使わないで短刀達を寄越してくれて構わない』という旨をやんわり伝えているつもりなのだが、結局どの子にも一通り所作を囓らせてから寄越すという所から、彼の真面目な性格が窺い知れる。
ここのところは互いに忙しいせいで一期とゆっくり話す機会が持てない日が続いているが、普段の行動を見ていると、彼は大分細かいところまで気にしすぎる質らしく、いつか倒れてしまうのではないかと心配しているところである。
…それはそれとして。
信濃の方は、未だに危なっかしい足取りで懸命にバランスを取りながら、部屋を大回りしてこちらへやって来ようとしているところだった。
信濃と一緒に居てまだいくらも経っていないが、今まで見てきた中で特に難しい顔をしているのが見て取れる。
大真面目に自らの足先を見据える姿は何だかやけにしゃんとしている上、俯き加減や、少々しかめられた顔が一期によく似ていて、思わず息を飲んだ。
刹那、脳内に一期一振の姿がちらついく。
触ってみると、意外に癖のある浅葱色の髪。
蜂蜜のようにとろりとした金色の瞳。
やわらかな物腰と、品のある出で立ち。
どれを取っても、彼は何処にも文句の付けようがないくらいにしっかりした刀剣男士であるが、彼女自身、彼のそうでない部分も多く知り得ている。
例えば、気を抜いて無防備に眠っている姿や、ふとした瞬間に慌てる様子───情事の際に見せる余裕のない顔まで、彼女は、全てとはいかないながらも、様々な彼を見てきていた。
こうしているだけでも、肝心の彼は隣に居ないというのに、一期の纏う香りがいつまでも自分の近くに漂っているような感じがするから不思議だ。
主殿、と。
後ろから優しく呼びかけられているような気さえしてきて、胸の奥の方がじわりと熱くなる。
そもそも、最後に彼と肌を重ねたのはいつだったか。
懸命に思い出そうとするが、褥を共にした回数が少なくない事や、最近仕事が忙しいのも手伝って、結局、どうであったかは忘れてしまった。
ふと顔を上げると、ようやく作法を終えたらしい信濃がこちらの顔を覗き込むように屈み………心なしか、何か企んでいるような表情を見せた。
「ねぇ…大将、」
幼くはあるが、その端正な顔をギリギリまで近付け、彼はニヤリと笑う。
「………今、一兄の事考えてたでしょ?」
「なっ………、」
しかしながら、咄嗟に誤魔化そうと他の言葉を紡ごうとする彼女の口は、彼の手に寄って塞がれてしまう。
それだけでなく『全部分かるよ、』とでも言うかのように得意気な瞳が、悪戯っぽい光を宿してこちらを見つめていた。
「一兄のこと、好き?」
核心を突くような質問を寄越されてすぐ、彼女は小さな手を引き離し、気持ちを落ちつかせようと深く息を吸い込む。
本丸内に居る刀剣男士達に対して、一期と自分が付き合っている事は特に隠しているわけではないが、そう露骨に聞かれてはさすがに焦ってしまう。
それでも、信濃はやっぱり笑みを崩さずに、さらに具体的な事を問うてきた。
「大将は、一兄のお嫁さんになるんだよね?」
「お、およめさん…?」
何の確信を持ってそんな事を言い出したのか見当も付かず、小声で最後の方の言葉を反復するも、彼は真面目な顔をして頷く。
「この間、乱達と話してたんだけど、大将が一兄と結婚したら、大将は俺たちのお姉ちゃんって事になるでしょ?」
「うん、まぁ…そうね。」
「本当にそうなったら、すごく嬉しいんだけどなー…。」
期待するような目線が少々痛い。
そもそも、そんな話が粟田口の短刀の間でまことしやかに囁かれているとは思いもせず、多少なりと驚いていた。
審神者という職に就いた以上、結婚は諦めた方が良いというのが普通であるし、刀剣男士と結婚出来ないこともないが、その場合は、大分根本的な所から考えなくてはならない。
要は、自身の結婚の事など全く考えてこなかったから、彼女は余計に混乱しているのだった。
***
あれから信濃に散々『ねえ、いつ結婚するの?』『一兄とどこまで進んでるの?』という具合に、見た目の割には大分ませた質問を受けながら、一刻程経っただろうか。
渋る信濃をどうにか寝かし付け、彼女も、うつらうつらと夢を見ながら床の中に居た。
煌の香りが蚊帳の中に広がり、この上ない程気持ちの良い空間に、二人分の寝息が聞こえている。
このまま何も無ければ、朝まで、短い夏の夜の穏やかな時間が流れていくはずだった。
彼女は夢を見ていた。
青く、高く晴れた夏の空。
真っ白な入道雲が、ずっと遠くから、もくもくとわいて…。
その景色は、彼女が子どもの頃に田舎で過ごした夏の風景とよく似ていた。
それを懐かしく眺めながら、彼女は本丸の庭で水を撒く。
少々古くなってきた飴色の柄杓は、しっかりと手に馴染んで使いやすい。
たっぷりと水を入れた桶は重たいが、そこにごぷりと柄杓を入れ込み、掬った水を庭先に撒いてやると、夏の強い日差しに照らされた水が虹のような色を宿して空中に跳び上がり、じたりと地面に落ちて、瞬く間に染み込む。
その様があまりにも面白くて、年甲斐もなくバシャバシャやっていると、誰かが後ろから肩に手を置いてきた。
あまりに急だったもので、咄嗟に体を強張らせるが、それはすぐに安堵に変わる。
緩く胴の辺りに回された手には、見慣れた白い手袋がはめられており、耳元では、よく聞き慣れたあの声が『主殿…。』と、切なげに自分を呼ぶ。
こうして一期と触れ合ったのは、久し振りの事のように思えた。
耳の後ろから首筋にかけて温い息がかかり、顔を埋めた彼が軽く肌を吸うと、チクリとした痛みと共に、赤い花が咲く。
それすら愛おしいように感じ、彼の大きな手の上に自らの手を重ね合わせると、もう我慢ならぬ、とでも言うかのように彼の手が胸元をまさぐり、掬うような手つきでやわらかな双丘の片方を揉み、弄くる。
「…っ!?」
あまりに生々しいその感触に、ぞわりと全身が粟立った。
逃げようともがいても、腰をもう片方の手でしっかりと押さえつけられており、どうすることも出来ない。
「無礼をお許し下さい…どうか、そのままで。」
艶っぽく囁かれ、これはもう逃げることは出来ないだろう、と、誰に教えられるでもなく悟る。
着物の袷から、白い手袋を付けた彼の手のひらがするりと滑り込み、直に胸に触れる…、
一番恥ずかしいところで、彼女はようやく目を覚ました。
何だか暑い。
暑い上に、自分の胸元に、夢の中と同じく白い手袋を付けた手が添えられているのを見て絶句した。
一気に目が覚め、冷や汗をかきながら隣を確認すると、信濃が、布団ではなく蚊帳の端の方で大の字になって寝ているのが目に入る。
相変わらずの寝相に、少しだけ安心した。
続いて、確認のために『一期、』と、自分の背中に抱き付くような格好をしているであろう彼に声をかけると『申し訳ございません、起こしてしまいましたか…。』等と、小さな声が返ってきた。
彼の手が名残惜しそうに胸元から手を離したのと同時に、どちらともなく起き上がり、薄暗い中で向かい合う。
開いてしまっていた胸元を慌てて掻き合わせ、一期を眺めると、彼は遠征の後にすぐここに来たのか、夜中だというのに正装のままだった。
「どうしたの、こんな時間に…。」
寝ている信濃を起こさないよう、声を潜めてそう問えば、一期は考える素振りを見せ。
それから、伏し目がちになりながらではあるが、意を決したように声を発する。
「単刀直入に申し上げます…主殿は、私と最後に褥を共にしたのがどれだけ前の事か覚えておいでですか?」
はっきりと。
しかし、いきなり大真面目にそんな事を聞かれるものだから、困ってしまう。
でたらめに言っても、正確な日数を数えて答えても、どちらにせよ叱られてしまうような気がして、彼女は身を縮めた。
如何すれば良いものか、と考えあぐねているうち『分かる範囲で構いません。お答え下さい。』と、回答を催促する声が投げかけられてしまい、どうしよう、どうしよう…と、散々迷ったあげく、彼女はさらに身を小さくして、呟くように答える。
「二週間…くらい前?……ごめん、分からないです。」
正直にそう言えば、一期は目の前で困ったような笑みを浮かべ、重々しく溜息を着く。
「残念ながら、それ程短くはありません…正確には、ほぼ一月前、ですな。」
「そ、そんなに…?」
改めて教えられ、自分でも驚いた。
考えてみると、この一月の間は、ひたすら仕事をしていた記憶はあるが、確かに、一期一振と睦み合った覚えは無い。
そればかりか、ここ最近。
彼との唯一の接点と言えば、すれ違いざまに挨拶をしたり、業務連絡を行ったり、食事の席で顔を合わせるだけ…という具合に、まともに会話を交わす事すら出来ていなかった。
「こうして仕事以外の話をするのも、久方振りですが、お元気でいらっしゃいましたか?」
口調はきわめて優しいが、とどめを刺すような言葉が耳に痛い。
加えて、いつも通りの優しい笑みの下に、寂しそうな表情が見え隠れしていて、泣きたくなった。
「そう、だよね…ごめんね。」
私は一体、何に対して謝っているんだろう。と、自嘲気味な笑みが漏れる。
仮にも、自分と彼は恋仲で。
本来ならば、彼と過ごす時間を大切にしなければならないというのに、仕事にかまけて一月もほったらかしにしていたのだ。
恨み言で済むならいくらでも言って貰った方が、いっそ気が楽だ。
別れを切り出されても仕方が無いような流れに、彼女はしょんぼりと俯く。
「ごめんなさい…。」
再度口をついて出た謝罪も、力無くすぼんで消えていく。
自分が招いた結果とはいえ、今更それを帳消しには出来ないだろう、という思いが、ずんと心にのし掛かった。
「怒ってる?」
「はい…と言っても、一月放っておかれた事に関しては、あまり怒ってはおりません。審神者という職務上、仕事をこなさねばならないのは当然ですから。」
彼が笑みを浮かべていたのはここまでであった。
次の瞬間、彼は苦し気に顔をしかめ、彼女の手を恭しく取ってそっと握る。
それは、まるで何かを懇願するかのようで、思わず心臓が跳ねた。
「───むしろ、私が怒っている事として上げるならば。この月は一度も私を近侍として傍に置いて下さらなかった事くらいですな。」
主がお側に置いていたのは、長谷部殿や膝丸殿ばかり…確かに、彼等の方が良く仕事が出来るのは存じておりますが、私ではご不満ですか?
悲しそうにそう問われ、彼女は視線を泳がせる。
実を言えば、一期一振を近侍にしなかった理由はちゃんとあるし、意識的に近侍にしないよう避けていた節もある。
「あのね、私は…一期に不満があるわけじゃないし、長谷部や膝丸の方が仕事が出来るからという理由で、あなたを近侍にしなかったわけじゃないの。」
ただね、と。
彼を傷付けないよう、言葉を選びながら、彼女は続ける。
「一期の事は、もちろん大好きよ?大好きだけど、その……仕事の時に、隣にあなたを置いてしまったのでは、甘えて何でも頼んでしまいそうで。」
それがいけない事だと思ったから、あなたには近侍を頼まなかったの。
正直にそう言えば、彼も納得してくれたようで、幾らか表情が和らぐ。
これでこの話は終わりになるか、と思われたその時に、一期は溜息を着き、こちらに問うてきた。
「甘えて何でも頼んでしまいそう、ですか……主は、私に甘えるのがお嫌いですか?」
「そういうわけじゃないけど、ほら。『親しき仲にも礼儀あり』と言うでしょう?一期とはそういう仲だし、あまり私が頼り過ぎちゃうと、疲れるだろうし。」
そう言った途端に、彼は『いいえ、そんな事はございません。』と即答する。
「この際ですから、はっきり申し上げます。どうかお聞き下さい。」
あまりに真剣なその様子に気圧され、思わず頷くと、彼は居住まいを正して、真っ直ぐにこちらを見据えた。
「私は…主殿を強くお慕いしております。本当の事を言えば、常に危険と隣り合わせでいなければならないこんな職からは身を引いて頂きたいと思うこともありますし、自分や弟達以外の他の男士と話をしている姿を見て、それを羨ましく思うこともありますが。」
第一に、あなたは他人に頼ることを滅多になさらないので、心配しているのです。と。
痛いところを突かれ、彼女は言葉に詰まった。
「一人で抱え込んでどうにかしようと頑張ってみても、どうにもならん事の方が多いものです…そうなる前に、私を頼って頂きたい。寧ろ、今までの遠慮の分を差し引きすれば、もっと甘えて縋ってきて下さっても構わないくらいです。」
それではいけませんか?
他でもない、恋仲の彼が心配して申し出てくれているものであるために、無下に断るのは憚られる。
実感の沸かないまま頷くと、彼はやっと脱力し、いつものような笑みを浮かべ。
こちらへ躙り寄ってきたかと思えば、あっという間に彼女を押し倒し、布団の上に組み敷いた。
「あ……、え…?」
先程の話の内容と、今の行動と。
あまりに落差が激しすぎて、理解が追い付かぬままオロオロしていると、一期は優しい笑みを浮かべ、そっと彼女の耳元に口を寄せる。
「ご安心下さい。何も、恐ろしい事をするわけではございません。ただ、先程の様子ですと、まだ主殿が私に頼ってきては下さらないように思われましたので、」
まずは、今一度仲を深める事から始めましょう。
夢の中で聞いたような艶のある声で囁かれたその瞬間、場違いに体が疼き出す。
息を詰めたその途端に、信濃が『ん〜…』と唸って寝返りを打っているのが視界の端に映り込み、彼女はびくりと体を振るわせた。
そうだ。
同じ部屋の中では、信濃が寝ている。
それなのに、自分はその隣で一期に抱かれるというのだろうか…?
背徳感に苛まれ、それと同時に、信濃の事を忘れ、一期にこれからされるであろう事を期待した浅ましい自分が泣きそうなほど恥ずかしい。
対して、一期はというと。特に信濃の方を気にする様子もなく、彼女の寝間着の帯を解かんとしている最中だ。
彼の体温や荒い息遣いを久々に間近で感じ、ドキドキしている自分に驚きながらも、彼女はすんでの所で一期を押し留める。
「ま、待って…まさか、ここでするの!?」
「ええ。そのつもりですが…いけませんか?」
あまりにも自然に彼が首を傾げるので、こちらが何か変な事を言ったような雰囲気になるが、実際の所、そうではない。
「ほら、その…信濃君が居るのに…?」
私達がこういう事をしてる最中に起きたりしたら、どう説明するつもりなの?
流されてしまわぬうちに、と、そう問えば、彼は特に焦るわけでもなく『ご心配には及びません、』と言って、信濃の耳の辺りを指さす。
何かと思ってその通りに目線をやれば、何とも用意の良いことに、信濃の耳には耳栓らしき小さな黄色い詰め物が入れられていた。
ここからは角度的に右耳しか見えないが、恐らく左にも同じように詰め物がしてあるのだろう。
どのタイミングでこんな細工を施したのかはあまり考えたくないが、彼の行動からして、今夜は何が何でも自分を抱く気でここに来たのだという意図があるのは分かった。
「だからって…、」
しかし、皆まで言わせずに、一期が彼女の唇へ接吻を施す。
最初は浅く、優しく。
それから、徐々に角度を変えつつ、深く。
歯茎をゆっくりとなぞり、時々、舌や犬歯を吸いながら…そんなふうに、確実な方法で口内を犯され、彼女は、言わんとした言葉を封じ込められてしまう。
重ね合わせていた唇をようやく離してくれても、くたり、と。
即効性の毒を飲まされたかのように力の入らなくなった体では、最早何をしても彼にかないはしない。
これから何が始まるのか。
彼の口から直接聞かなくとも、いつもは穏やかなはずの蜂蜜色の瞳が、獰猛な光を宿してこちらを見下ろしていた。
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