▼ §獏/太郎太刀
ぼんやりと薄目を開け、天井を仰ぎ見る。
視界の端には、点滴の針が刺されている様がよく似合う、妙に白い自分の腕がちらついた。
───今日は、何年何月の何日だろう?
とりあえず自力で体を起こそうとしたが、大分長い間眠っていたせいか、どうも上手くいかなかった。
この体は自分の物で間違いないというのに、まるで他人の体のようにぎこちない動きしかしてくれない。
再度挑戦するも、ただ布団の中で体をゴソゴソと動かすだけの動作に終わってしまうのが残念な所だ。
どうやら、日頃から寝てばかり居るせいで、本格的に筋肉が落ちてしまっているらしい。
陸上競技の選手だった高校時代の友人が、カロリーや食品に含まれる物質を気にしながら一生懸命体を作っていたのを思い出す。
確かに、一流のアスリートが栄養士から指導を受けているとか、食べ物に気を付けているとか。
そういう話はよくは聞くが、口から接種した物から吸収される栄養素など微々たる物なのだから、それ程神経質にならなくてもいいだろうに…。
万年文化部だった自分は、当時そんな事を思っていたが、昼も夜も関係なく寝てばかりの今は、その友人の気持ちが痛いほど分かる。
結局、体を作るのは高カロリーな点滴液でもなく、大量のビタミン剤でもない。
野菜、肉、穀物等の食べ物なのだ。
口から食べ物を摂取出来なくなれば、栄養剤を飲んだり、点滴を打たねばならない───今の私のように。
ふと近場の文机を眺めると、そこにあるのは書類ではなく、大量の点滴液が居座っているだけだ。
一体、自分が寝ている間にどれだけアレが体内に入ったのだろうか。
点滴のパックがいやに大きいのを見てぞっとした。
しかしながら、こんな液体に自らの生命を維持して貰っていたとなると、どうにも不思議な感じがするものだ。
時間をかけ、やっとの事で体を起こすと、寝ている時にこそ気が付かなかったが、枕元に自分の携帯端末が置かれていた事に気が付く。
ハッとしてその平たい端末を手に取ると、何だかずしりと重い気がした。
触れてみると、画面が明るくなり、中心よりやや上の方に時間と曜日、何月何日であるかが表示され、今日は七月十一日である事が分かった。
スケジュール帳を開き、仕事の記録やら、最後に何をしていたのか、何をする予定であったか等を確認し、ひとまずほっとする。
「…良かった、一ヶ月は経ってない。」
そう。
如何せん、どのタイミングで眠ってしまったのかがハッキリとは分からないため、勝手な憶測ではあるが。
スケジュール帳に残されたデータを見る限り、自分が眠り続けてから、まだそれ程時間が経過していないのだ。
日常生活をしている際に、突然原因不明の強い眠気に襲われ、数日間。
多いときには、一週間や二週間はずっと眠ってしまうというような症状の出る奇妙な病にかかってからは、自分は非常に時間に厳しくなったと思う。
…どちらかといえば、こうでもしていないと、自分が眠っている間に、いずれ世間から存在を忘れ去られてしまうのではないかという不安に駆られているからこその行動なのだろうが。
彼女自身、実を言えば、自分のことが大好き、というような部類ではないし、若い頃から自分を卑下したり、自虐的な物言いをしたりする事も多かった。
そうではあっても、いざこういった状況になり、病の進行の度合いによって、下手をすれば『誰の記憶にも残らない』『ただそこに居るだけ』というような、世の動きから完全に取り残されていく存在になってしまう事が、どうしようもないくらいに恐ろしく感じられたのだ。
これを、一般的には“我が儘”と言うのだろうか。
自分が、もし。
今よりも長い時間眠るようになったとして。
誰かに自分を覚えていて欲しいと。
目覚めるのを待っていて欲しいと思うことは、そんなにいけないことなのか。
───誰に問いかけたところで、ここには、ハッキリと答えてくれる者はいないのだろう。
しんどくなって後ろに体重を掛けると、不抜けた音を立てて、自分の体が柔らかな布団に沈み込んでいく。
そうして、また眠気が襲ってくるのだ。
あれだけ寝たというのに、まだ眠いとは…何と恐ろしい。
子どもの頃は、眠る事など少しも怖くなかったのに、今はこんなにも不安になる。
ただ、恐ろしくはあっても、現代の医療技術ではどうしようもないというのが現状であり、政府お抱えの医師にも匙を投げられたばかりであった。
緩い微睡みの中、彼女は懸命に目をこじ開け、精一杯の抵抗を計る。
眠るものか、と頑張っているその最中、不意に障子に大きな影が映り、それは律儀にも彼女の居る部屋の前で屈むような仕草を見せた。
髪型的には青江に似ているものの、見に着けている着物は石切丸と似ている。
そうなると…そこに居るのは太郎太刀か。
襖越しに伺いを立てる声を聞いて、予想は確信に変わる。
「主よ、起きていらっしゃいますか…?」
極力そっと。
こちらの体に障らぬようにという配慮なのか、いつもより小さめの低い声が投げかけられた。
「…さっき起きたの。寝たままで悪いけど、良ければ入って。」
目を閉じながらそう言えば、まさか返事が来るとは想っていなかったのだろう。
彼は少々戸惑いながらも、静かに障子に手を掛け、僅かばかり音を立てながら部屋に入ってきた。
自分の手が届く範囲まで彼が近寄ってくるのを感じながら、他の皆はどうしているかと問えば、出陣も遠征も滞りなく進めているので、仕事の事は心配しなくてもいい、という旨の返答が返される。
「皆、主を心配しておられます。」
「……そう。」
「加減は…良くはないのですね。」
薄く目を開いてほんの少し首を動かすだけで、その端整な顔を歪め、憐れみと労りを込めた目でこちらを見下ろす彼の姿を簡単に拝むことが出来た。
本来ならば、自分が彼等の事を気にかけ、心配してやらねばならない立場なのに。
そもそも、執務の代行を頼むだけならまだしも、看病までしてもらい、いらぬ心配をかけさせてしまうとは…審神者失格、と。
政府からいつ解雇処分通知が届いても、文句は言えない。
情けなさと無力感に苛まれながらも、彼女は擦れた声で太郎に問いかける。
「ねえ、太郎…私、生きてる?」
「主、何を仰います…。」
気落ちしている事を咎めるような口調に怯みそうになるものの、こればかりは譲れない。
痛いほどの視線を感じながらも、彼女は先程よりゆっくりした調子で話を続ける。
「ごめんなさい。別に深い意味は無いの。自分が息をしてるのは勿論知ってるし、心臓がちゃんと動いてるのも分かる。けど…どうしても生きてる心地がしないのよ。」
今、自分が本当に起きているのかどうかも怪しいし。
「これがもし夢なら、私は余程弱っているのかもね、」
自嘲気味に笑って、静かに目蓋を閉じる。
病人に、生き死にに関する事を聞かれていい顔をしない者が多いように、きっと彼は渋い顔をしているに違いなかった。
太郎は今、どんな気持ちでこちらを眺めているのだろうか。
彼は時偶『地上がどうなろうが、思うところはあまりない。』等と零しており、平常時から特定の物に執着しない質のようであったから、案外私の事も、どうでもよく思っているのかもしれない。
個人的な付き合いの範疇で言えば、特に彼と懇意にしていたわけではないが。
ほんのわずかな間でも寝食を共にした、という認識があるためか、もし自分がこの世を去る事になった際に、彼に何とも思われない…というのは、ほんの少し寂しいような気がした。
「また、眠られるのですか?」
不意に投げかけられた言葉を受け取っても、返すまでには時間がかかった。
眠気は着実に彼女の意識を蝕み、また微睡みの中へ引きずり込まんとする。
「そうね…今度はいつ起きられるのだか、予想も付かないわ。」
やっとの事で答えると、また彼が何か言ったようだったが、眠気が勝り、声を拾う事も出来なかった。
…このまま完全に意識を手放してしまえば、またひたすら眠り続けるのだろうか。
誰の目にも触れず。
誰に目覚めを待たれるわけでもなく。
それがただ悲しくてたまらなかった。
次も必ず目覚められるという確証も無いために、頭に過ぎるのは『こうなる前に、あの友達に会っておけばよかった。』『学生時代に、もっと遊べば良かった。』というような未練がましい事ばかりだ。
私が、いかにも人間らしい考えを持ち、黄泉へ行く事を恐れていると知れば、彼はそれを笑うだろうか。
───完全に意識を手放す間際、寝惚けてばかりの耳が拾ったのは『死んではなりませんよ、主。』という声。
そのすぐ後に、刀を握る者の持つゴツゴツとした冷たい手が、慈しむように、するりと頬を撫でた。
こうして、まだ梅雨も明け切らぬ蒸し暑い日の午後。
彼女は再び目蓋を降ろし、果てしの無い夢の中へ落ちていったのである。
end
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