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▼ 水彩画/及川徹(HQ)

誰もいない放課後の美術室でいつものようにパレットと水を準備し、まだ白い箇所の目立つキャンバスの前に立つ。

そうすると、たっぷり時間をかけて、何も無かったキャンバスの中に描き出した自分の世界が、水彩絵の具独特の薄くふわふわした色を纏ったまま、こちらをじっと見つめた。


…もちろん、本当はそんな事はない。
怖い話じゃあるまいし。

これはただの。
本当に、何の変哲もない風景画なのに。


それに加え、この絵の中には、人は一人もいない。

ただの一人もいやしないのに、見ている、だなんて思えたのはどうしてだろう。


改めて見返してみると、絵の中にあるのは、自分の通っている高校───青葉城西のただっ広い体育館だ。

特に目立っている所と言えば、手前の方で無造作に転がっているバレーボールが数個だけ。
既に背景と化し、何食わぬ顔をして絵の奥の方にひっそり構えているのは、コートとそれを二分するネット。


『運動』と名の付く物には生まれてこの方縁が無く、万年文化部の一部員として、何に巻き込まれるでもなく平和な学生生活を送ってきた自分が、こんな場所の絵を描くだなんて。

我ながらおかしな事をしたもんだ、と自嘲気味に笑う最中、立て付けの悪いドアが、ガガッ…と、勢いに任せて開け放たれる。


「なんだ、やっぱりここにいたんだ!」


背後から放ってこられた言葉を受け取る気もなかったが、念のために振り向けば。

そこには、満面の笑みを浮かべた及川徹がいた。


今日は部活動がないのか、彼が纏っているのは、普段見慣れたミントグリーンと白のコントラストが鮮やかなあのジャージではなく、ごく普通の制服である。


「瑠音ちゃん、何処かにいないかなぁー…って、随分捜したんだけど、なかなか見付からなくって。」


心配したんだよ〜?

笑みを浮かべたまま、一人で楽しそうに話を続ける彼を尻目に、彼女は再びキャンバスの方へ向き直った。


真っ白なパレットの上に赤い絵の具をほんの少し絞り、たっぷりの水で解かす。

続いて、黄色い絵の具を絞ってそれに混ぜると、水彩絵の具らしい薄く優しい感じのするオレンジ色が出来上がった。


その間、彼の気配が背後に迫ってくるのを感じたが、構ってはいられない。

筆を取り、作ったばかりの色を掬ってキャンバスに乗せるという作業を繰り返すうち、彼はどうやら真後ろに陣取るというスタンスを取ることに決めたらしい。


「あれ?もしかして、瑠音ちゃんが今描いてるのって…バレーのコート?うわ、やっぱそうだ。すっごい細かい所まで似てるし。もしかして、見に来てくれてたの?」


あ、もちろん俺の応援もしてくれてたんだよね!?

返答を促すような物言いの最後で、さり気なく自意識過剰な発言をしている辺りから察するに、彼はまだここにいるつもりらしい。


上手だね、と誉められて顔が熱くなったのはきっと気のせいだ。

そうこうしているうちに、うっかり一箇所だけ色が濃くなってしまった個所に数滴水を垂らし、布巾で調節しているうちにも、彼は話をやめない。


「あ、そうだ。ちょっと聞いてよ〜…実はこの間、岩ちゃんがまた、」


俺の事『エロ川』とか『アホ川』とか言ってきたんだよ!?

ほんと、扱いが酷いっていうか…。


俺ってさ〜…、皆から見てどう映ってんだろうね───ちなみに、そろそろデートとかしてみない?


ぽいぽいぽいっ…と。

彼から緩く放られた言葉のボールが自分の背中に当たっては床に転がり、足元を埋め尽くしていくようだ。


もちろん、自分でその中の一つを拾い上げて彼に放る事など今まで一度だってありはしないし、これからだって無いのだろう。

こちらが何も言わなくたって、話題はあっという間に変わり、散らばっては消え、また出て…を延々と繰り返す。


滲んだ箇所を隠すように絵の具を塗りたくると、何とかそれなりの状態に戻って安心したのも束の間。

今度は、この美術室に向かって複数人の足音と、黄色い歓声が響いてくる。


恐らく、彼目当ての女子達だろう。

彼女達は、何時であっても学生とは思えないほど着飾っている事が殆どで、生活指導教員もびっくりのその身なりは、いくら見ていても飽きないくらいには面白い。


華美すぎるその格好は端から見ればちょっと引いてしまうくらいなのだが、彼女達から言わせれば、彼女達なりの『イカす』『かわいい』といった概念が詰め込まれた大事な物であると同時に、短い学生生活を謳歌するための大事な一張羅でもあるらしい。

何から何まで計算されつくしたその身なりは、平常時から華やかな雰囲気の及川と並んだとしてもバッチリ映えるのは、考えるまでもなく分かるが。


別の絵の具を取ろうと屈んだ瞬間。

今まで背後に居たはずの彼がいつの間にか美術室のドアの前に立ち、女子集団を相手に、楽しげに話をしているのが視界に入った。


…うるさいな。

絵の具の入ったチューブを摘まみ上げる指に力が入り、中身がにちゃりと両端に偏る。


今まで持っていた筆を力任せにバケツへ放り込むと、反動で飛沫が飛び散って白いシャツに色を付けた。


「あ〜…、どうしよ。」


水彩絵の具だし、洗えばまだ何とかなるかな。


明らかに機嫌の悪さが滲み出ている低い声も、焦る自分の姿も。

もしかしたら誰かの耳に入ったかもしれないな、と気にする間もなく、美術室の外から聞こえる複数の声によって、瞬く間に掻き消された。


「及川君、私とデートしてくれない?」

「ずるい、私が先よ!アンタ、この前もそうやって…。」


「ほらほら、ケンカしない。なんなら、今度三人でどっか遊びに行こっか?」


「あの…及川先輩、私に勉強教えて下さい!」


「いいよ。じゃあ、いつがいい?君の都合良い時間に合わせるから、後で連絡して。」


「及川君にこの間あげたクッキー、粉っぽくなかった?大丈夫だった?私、すっごく心配で…?」


「うん、大丈夫だよ。すっごく美味しかった!また作ってね。」


「………………。」


まるで、私がここに居ないような。

たかが“ここ”から“そこ”というだけ。
彼と自分の間には、本当に僅かな距離しかないというのに………。


まるで別次元の存在を遠い場所から眺めているかのような疎外感を感じながら、彼女は冷めた目で彼の背中を眺めた。

それと同時に、喧騒を撒き散らすだけのうるさい同級生や後輩達をきつく睨みつけ。


───黒い絵の具の入ったチューブの蓋を取るが早いか、今まで描いていた絵の上へ派手にぶちまけた。

もちろん、八つ当たりに近いような行為だったから、筆や雑巾を使うだなんて事は頭の中には微塵も浮かばず、自分の手で。指で。

黒い色を絵の上に塗り広げ、覆い隠してしまったのだ。


その瞬間に、今まで息をしていた空間が無残に黒く塗り潰されただけでなく、淡く素直な水彩の色が窒息して動かなくなってしまった。

黒の侵食から僅かに免れたオレンジ色が助けを請うようにこちらを見つめていたが、それすら腹立たしく、人差し指にべっとりついた黒を擦り込んで黙らせる。


絵の具がついて真っ黒になった自分の手を振るえば、当然ながら、容易く思い通りの光景を拝むことが出来た。

悲鳴も上げず、大人しく黒に飲み込まれたバレーコートの絵の上へ滅茶苦茶に黒を垂らして塗りつけ、それでもまだ足りずに引っかき…。


ふと気が付くと、窓からはまだ僅かばかり温もりを残す夕日が差し込み、明かりを着けずにいた美術室内を憂いの籠もった紅に染め変えていた。

先程とはうって変わり、やけに落ち着いて自分の手を見やると、当然のことながらドロドロした黒で汚れきっている。


これはひどい。

爪にまで入ってしまった絵の具をやる気の無い目で一瞥し、首をゆるく捻ると、開け放たれた美術室のドアが目に留まった。


耳の奥を引っ掻くような黄色い歓声は、いつの間にやら声の主諸共姿を消していた。

それだけならまだしも。
…頑張って目を凝らそうと、開け放たれたドアにもたれ掛かるようにして雑談をしていた彼の姿はどこにも無い。

一緒に過ごしている時と比べる…と言うには語弊があるかもしれないが、いざ居なくなってしまうとなると、存外寂しいものだ。


改めてキャンバスに目を向けると、最早何が描いてあったのか見当がつかないくらいのひどい有様。

この短時間のうちに自分の中に生じた感情の幼い暴れ方を表しているようで、どうにもばつが悪くなる。


彼は。

…及川君は、私がキャンバスの中の風景を気が狂ったように、黒い絵の具でぐちゃぐちゃにしてしまったのを見ていただろうか?

───もしかして、それに驚いたから、他の女の子と一緒にどこかへ行ってしまったのかな。


答えは出るはずもない。

空が暗くなるのと同じように、静かな孤独感と、寂しいような、悲しいような思いが自分の中に沈殿していくようだった。


嫌われたくないな。
嫌いにならないで。

見向きもされなくなったら、きっと泣いちゃうだろうな。
ううん、絶対泣いちゃう。


頭の中で続く問答に区切り着け、立ち上がってすぐにクラリと来る。

きっと、座っていたのが長すぎたんだろう。
帰る準備をしなきゃ。


すっかり空になった黒い絵の具のチューブを拾い上げると、意図せずに自虐的な笑みがこぼれた。

私の彼への想いは、水彩絵の具のような物。

そして、彼にとっての私とは、きっと水彩画と一緒。
傍にたくさんある淡い色達と変わらないのだろう。


正式に付き合っているわけじゃないし、彼はただの気まぐれで私に興味を持ってるだけかもしれないのに。

その言動に少しでも、と期待してしまう辺り、自分は余程面倒な質をしているらしい。


甘ったるく、ぬるい内容の青春小説でよくありがちな展開ではあるけど、どうにも笑えない。


「…馬鹿みたい。」


誰に向けるでもなく呟くと、つう、と。
頬に温かな涙が伝って、制服の袖に染みこんだ。


end

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