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▼ §人形遊び/白龍

*単行本ネタバレ、病み注意


何かが壊れる音や、人の悲鳴が絶えず響く───。

普通に考えれば明らかに異様な状態であり、誰しもが『逃げなくてはならない』とか『ここにいるのは危険だ』という判断を下すはずなのだが。
今の瑠音にはそんな選択肢すら頭の中に存在しない。


いや、そもそも“考えられない”と言った方が適切か。

少し前から濃い霧がかかったようにぼんやりとした彼女の頭は、正しい判断というものが出来なくなっていたし、何か物を考えようとすれば、ビーズが散らばっていくように上手く考えがまとまらない。


それどころか、どうして自分がこんな風になってしまったかを思い出そうとすればするほど、先程、禁城内の一角にひっそりとあるこの部屋を出て行った夫に言い聞かせられた妻としての役割が何度も頭の中を巡るばかりである。


「つまの、やくわりは…、」


口をついて出る言葉を繰り返し、彼女は縫い物を再開した。


「妻の役割は…夫を愛し、夫を支え、夫のやる事に口出しをしないこと。そして、何があっても刃向かわないこと…。」


ちくちく、と彼女が器用に針を動かす度に、白い綿の反物は見事な着物へと姿を変えていく。


「常に大人しく、夫の言う事に従順に従うこと。夫を労り、尽くすこと…。」


似通った内容の『妻としての役割』を何度も呟きながら、彼女は虚ろな目をして針先を見つめるばかりである。

一時も手を休めることなく作業を続け、独り言を繰り返し続ける彼女は、何かに操られているようにも見えた。


それから程なくして。
縫い上がった着物を膝の上に広げ、彼女はぼんやりと思う。


あの人が着る物にしては、生地の質が少し地味かもしれない。
あの人は、煌の現女皇帝陛下…玉艶様を倒しに行かれたんだもの。

もし彼が玉艶様に勝ったら…王位継承者が出払っている今、事実上彼が煌の支配者になる。

上に立つ者が、庶民と同じ生地の着物を身につけていたのでは、どうにも示しがつかない。


まあ、着物は後で絹を縫って新しく作り直すとして。彼が帰ってきたら、まずは出迎えなければならない。

それが妻としての役割のひとつだから。


上手く働いてくれない頭で精一杯に考え、針を片付けようとした瞬間。

部屋の戸が荒々しく開かれ、彼女の夫───白龍が姿を現した。


「……………。」


無言で立ちすくむ彼はひどく疲れているようで、乾ききらない血が着物に染み込み、紅のまだら模様を作っているのが戦いの激しさを物語る。

こうしてはいられない、と瑠音はすぐに彼の元へ駆け寄り、義手でない方の手を握った。


「お帰りなさい、白龍様。女皇帝陛下にお勝ちになったのですか…?」


「ああ、何とか。」


短い返事のあと、グラリと傾くように寄りかかってきた彼を何とか受け止め、彼女は無言のうちに部屋の戸を閉めた。


***


「何か、飲まれますか…?」


そう声をかけたが、彼は無言のまま調度品の椅子に背を預け、目を瞑るだけだった。

傷付いた鎧や、ボロボロになって血を吸い込んだ着物を注意深く脱がせつつ返答を待つが、彼の口からそれらしい言葉が発せられる事はない。

そこにあるのは、痛いほどの沈黙だけである。


余程疲れているのだろうか。
まだ少年らしさを留める薄い胸板をゆっくり上下させてうたた寝をする彼を眺め、彼女はこの部屋に押し込められて初めての笑みをこぼす。

熱い湯に浸した布で傷口にこびりついた血や汗をできるだけそっと拭ってから、縫ったばかりの着物を着付け、彼の背後に回って髪留めに手を伸ばした。


下手に髪を引っ掛けて痛い思いをさせてしまわぬよう細心の注意を払って金具を外すと、案外簡単に外れる。

男性にしては細くてやわらかい髪を掬い上げて櫛を入れ、何度か梳いたあたりで、彼は『ありがとう』と礼を述べた。


「白龍様、ご気分は如何です?」


ゆっくり髪をとかしながら問えば、彼はいきなり立ち上がり、瑠音の体を力一杯抱きしめた。

しかし、彼女の目に映ったのは目の前の白龍ではなく、自分の手から落ちた櫛と、今まで彼が座っていた椅子が勢い良く倒れる様だ。


「あ………!」


直後、彼が何かを言っているのが聞こえたが、彼女はまったく別の方を見ていた。

自分でも何故かは分からないが、無意識のうちに手が床の上に落ちた櫛を追いかけようとする。


何だか、これはとても大切な物だった気がするのだ。

『拾って手元に置いておきたい。』
どうしてそう思うのかは分からなかったが、体が勝手に動き、全力で櫛へと手を伸ばさせた。


もう少し…、もう少しで手が届きそうなのに…!

その動きと比例するかのように、体にかけられる力がどんどん強くなっていく。


「瑠音、どこを見てるんです?」


ちゃんとこっちを向きなさい。

そう叱りつけて、彼は虚空を彷徨う彼女の手を握り、物憂げな瞳を向けてきた。


「やっと。やっと二人きりなんです、ちゃんと俺を見てください…。」


懇願するような。
それでいて、どこか甘えるような響きを伴った彼の声が振ってきてから、瑠音は白龍を見上げた。

依然として無表情のままの彼と自然がかち合った瞬間。
彼女は突如として言われようもない程の恐怖を感じ、反射的に身を捩ったが、彼の腕の中から抜け出す事は叶わない。


まるで、蛇に丸呑みにされる直前の蛙のような気分である。

左右で色の違う彼の瞳からは、底知れない不気味さが漂って、それが余計に彼女の頭を混乱させ、混沌へと引きずり込んでいく。


この人は…白龍様は私の夫で、私は白龍様の妻のはずなのに。
それだけのはずなのに。

どうしてこんなにも心穏やかでいられないものか。

どうして、彼に対する『愛情』だとか『恋慕』の感情がちっともわいてこないのか…。

どうして私が、彼に怯えているの…?


どうして?
どうして、どうして…!?

留まる事を知らずに次から次へと膨れては萎む疑問を繰り返して頭はパンク寸前だ。


ああ、頭が痛い。くらくらする。

いつの間にやら体を震わし、涙をボロボロと流した…端から見れば明らかに異常な状態の私を余所に、彼は窓越しに誰かと話しているようだった。


「だから…………………だろ?」


「それがどうした、…お前には関係ない。」


「ああ、そーかよ…そんなら、せいぜい一人で楽しくお人形遊びしてればいいだろ!!」


“それ”がちゃんとお前を見てくれるようになる日が楽しみだなぁ…白龍?

捨て台詞を吐き捨ててすぐ、その誰かは何も言わなくなった。
ただ、どこかに行ってしまったのかもしれないが。


「あの、『にんぎょう』って、なんのこと…ですか?」


恐る恐る問うてみると、白龍は今まで見た事が無いくらいに優しい笑みを貼り付けて、彼女を抱き上げたと思えば、そのまま寝台へと向かう。


「…はくりゅうさま?」


優しく寝かし付けられてすぐ覆い被さってきた白龍を見上げると、彼は深く溜息を着きながら彼女の髪をそっと梳く。


「知らなくていいですよ、…ええ、あなたは何も知らなくていい。」


彼はまるで、自分に言い聞かせるかのように言う。


頭痛は収まるどころか、めまいの他に吐き気まで出てきた。
あまりの痛みに耐えきれず、次第に意識が遠退いていく。


「俺が、瑠音を守ります。どんな手を使おうと…ずっと、」


彼はごく優しい声音でそう告げた後、横になったために少々着崩れた着物の隙間から見えた彼女の白い首筋へ顔を埋め、だから、と続けた。


「俺の子を孕んで下さい、」


あの紅炎の子ではなく、俺の子を………。

体の芯から底冷えするような甘い囁きに震えつつ、瑠音は為す術もなくゆっくり目を閉じる。


『紅炎』って、誰の事かしら…?
とても大事な人のような気がするけど、思い出せない。

───どうしても、おもいだせないの。
あたまのなかに、もやがかかってるみたいに。


end

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