▼ とある秀才の末路/アラジン
〜緑斜棟〜
「こんにちは、お姉さん……起きてるかい?」
薄暗い部屋の中、ルネは寝台に横たわりながら男の子の声を聞く。
この声は多分、あの子だろう。
のそりと寝返りを打ち、彼女はゆっくりと目蓋を上げて天井を眺めた。
あー…、怠いなぁ。
ごしごし目を擦ってもう一度枕に頭を埋めるだけで、強烈な怠さが襲ってきたが、ドアの向こうの少年は根気強く同じ問いを繰り返す。
しかし正直言って、返事を返す気にもなれない。
もちろん、怠いから、というのもあるのだが、気持ち的な問題もあるのだ。
…何て言えばいいのか。
今の自分の気持ちは、所謂『誰にも会いたくない』『一人でいたい』『放っといてほしい』という反抗期に誰もが抱く感情にちょっと似ている。
開始早々ネガティブな事ばかり考えていて、尚且つ物臭な女に見える彼女は、最近ちょっとした理由で部屋に閉じ籠っていた。
ありとあらゆる手段を使って外界との接触を絶っているルネの元へと定期的に通ってくるのは、朝夕の食事を持ってきてくれるピスティか、あの子しかいない。
青くて長い髪の毛を後ろで三つ編みにして、いつも花が咲いたような笑みを浮かべて…。
まるでいろんな人に幸せを振り撒いてるんじゃないかと思うくらいに愛嬌のある可愛らしい男の子。
ちょっと前、たまたま起きていた時に彼がいきなり入ってきて。
それから、ちょっとした交友関係が出来たのである。
もっとも、彼女は彼の名前を知らなかったし、聞きもしなかったから、彼の事は『あの子』と呼ぶしかない。
それでいて、彼の方もこちらの名前を知らないようだから、『お姉さん』とだけ呼んでいるようなのだが。
とりあえず、ルネが眠っているという事に気を使い、なるべくこちらが起きている…と思われる時間帯を見計らって来てくれるいい子である。
そんないい子を、本当なら扉を開けて部屋の中に招き入れてやるべきなのだが、今はどうにも気乗りしない。
とりあえず、起き上がろうとしてみても、四肢に力が入らなかった。
何度試してみても、半分まで体を起こしたところで、頭がちゃんと枕の上に戻ってしまう。
一日の半分以上を『ナマケモノ』のように寝て過ごしていて、食事もろくに取っていないから、体はずっと軽いはずなのに。
どうしてか、体を動かす事が、前の倍くらい苦痛になっている気がする。
「(あ…何かもう、ダメかも。)」
もう一度体を起こそうとしてまた寝台に倒れ込んでからやる気が完全に消失したため、ルネは扉の方に背を向けるよう寝返りを打った。
つまり“寝てないのに寝たふり”である。
最近狸寝入りがすごく上手くなって、あのマスルールやジャーファルまで騙せるようになたから、やっぱり自分はせかせか動き回っているよりか、大人しくしている方が性に合っているのかもしれない。
彼には悪いが、『返事がなければ寝ているから』と教えているたため、もうしばらく黙って寝たふりをしていれば帰っていく―――はずだが。
今日に限って部屋の鍵をかけ忘れていたため、彼はそっと扉を開けて中に入ってきたのだ。
『女の子の部屋に入る時には、一声かけるかノックしてからよ!!』
咄嗟にそう叫びそうになったが、声を出す事すら怠いから、目は閉じたまま、耳をすませた。
ぺたぺたぺた…と素足で床を歩く音が近付いてきて、自分の寝ているベッドの傍で止まる。
「お姉さん、やっぱり寝てるよね…。」
起きて僕と一緒に遊んでくれたりしないかなあ…?
目を閉じていても、期待を込めてワクワクとこちらを眺める彼の視線が感じられた。
よっぽど起きようかとも思ったけれど、やっぱり駄目。
目を開けようとしてみても、今度は目蓋が接着剤でくっ付けられたみたいに重い。
昔はこんなんじゃなかったのに、おかしいな…。
ゆさゆさ、と彼に体を揺すられつつも寝たふりを続行し、彼女はいじけて泣き寝入りをする子供のように毛布を口元まで引っ張りあげ、これまでにあった事を思い出していた。
***
―――彼女は、半年前まではあのジャーファルと肩を並べるくらいに優秀な文官であった。
というのも、彼女はとある国の名門一族の出であり、彼女の親戚や両親、祖父母に至るまで、学者や博士、文官という誰もが羨む肩書きを背負っていたのである。
そんな家庭に産まれた事や、他に兄弟がおらず、一人っ子だった事もあって、ルネは滅多にないくらい特別な教育を受け、女性でありながらも男性に負けないほど高い教養を身につける事が出来たのだ。
両親達のたゆまぬ努力が報われたのか、彼女は身内の誰もが望んだ通り…まだろくに成人しないうちに、シンドリア王宮の文官として正式に登用された。
自分としては、その時はとても嬉しかった。
これでいいのだ、と納得できたし、今後の生き方に何一つ不満を持たなかった。
…つもりだった。
シンドリア城内で部屋をもらい、住み込みで働くようになってからというもの、ルネは気持ちが大きく沈むようになった。
昼夜を問わず自分に向けられるのは、無学な侍女達からの羨望の眼差しと、一部の同僚達からの冷遇。
別に直接何かを言われたわけではないし、あからさまに意地の悪い事をされるわけではないのだが、何となく空気で察してしまうもので。
幸か不幸か。
幼い頃から勉強浸けになり、無理やり優秀にしつらえられた彼女の頭は、こんな時にどう対処していいのかという的確な答えを弾き出せなかったのだ。
そこで初めて、気が付いてしまった。
自分が今まで必死に学んできた事は仕事の役には立ちこそすれ、その他の事柄にはまるで能無しであるという事に。
それなら父や母は、こんなふうになった時にはどうしていたというのだろう?
伯父や伯母は…?祖父母は…?
考えれば考えるほど、深みにはまって抜け出せなくなりそうだ。
一度は誰もが自分と同じように悩んだに違いないのだが、皆それに気が付かないふりをして。
周囲の視線を黙殺して、寡黙に仕事をこなし、今の地位を手に入れたに違いなかった。
人との関係を絶って仕事にしがみついているだけなら、楽しくも何ともない。
思えば自分も、勉学のために時間を割いたせいか歳に見合った遊びが出来ないし、友達もいない。
かといって、今さら下手に友達を作る勇気もない。
そんな重要な事が出来ないくせに、地位を与えられて思い上がってるなんて、馬鹿みたいだ…。
そんな考えを起こしてからというもの、驚くほどやる気がなくなり、仕事は休みがちになった。
そうして、両親や親戚など、血族一同に対する強い反感と嫌悪感の念から、彼女自ら縁を切り、今は完全に身寄りの無い状態になってしまったが…。
後悔はしていない。
むしろ、これでいいのだ、と心の底から思えた。
その気持ちを知ってか知らずが、雇い主のシンドバッドは『やりたい事が見つかるまで好きに過ごすといい、』と言ってこんな自分のために緑斜棟に個室を用意してくれた。
元上司のジャーファルも、彼女が仕事をやめたにも関わらず、涙が出るくらい親切にしてくれる。
怠い、怠い、と口では言うものの、それはある意味彼女なりに精一杯張っている“意地”であり、彼女は今後の自分の生き方とやりたい事を模索しているのであった。
そんな自分に比べれば、『遊んで!!』と、ついにベッドの上に這い上がってきたこの少年が羨ましい。
出来れば私も、君くらいの年齢に戻りたい。
友達を作って、毎日叱られるくらいに遅くまで遊んで…たくさん夢を抱えて、その中からやりたい事を選んでみたかった。
でも、もうやり直しは効かない。
自分はもう大人になってしまったし、浪費した時間は二度と戻って来やしないから。
「どうしたの?お姉さん…怖い夢をみてるの?」
ピタリ、と彼の小さくて暖かい手が、頬に添えられる。
気がつけば、閉じた目蓋の隙間から、ボロボロと涙が溢れているのだった。
時折、嗚咽が喉の奥から上がってくる。
寝たふりをしているとはいえ、泣き顔を見られるのはさすがに恥ずかしくて、もう一度寝返りを打ち、毛布を頭から被って丸くなった。
「泣かないで、お姉さん。大丈夫だから。」
かつて秀才と呼ばれた彼女は、今は子供のように縮こまって、自分より小さな男の子に宥められているのだ。
自分でも、何とちっぽけで弱々しい…と思わずにはいられない。
秀才であるが故に捨てたものはあまりに多く、また秀才であるからこそこれから拾っていけるものは少なすぎる。
自虐的な思いに浸りながら、彼女が願う事はただ一つだ。
今、こんな私を慰めてくれる優しくて賢いこの子が、どうか私のように実りの少ない生涯を歩みませんように。
まだ君の名前も知らないし、聞く勇気もないのに、こんな事を願うのはお節介というのかしら?
頭を使うのに疲れた彼女は、ゆっくりと目蓋を下ろし、夢と現実の狭間をさまよい出す。
秀才と名の付くものを蔑み、自分に嫌悪を抱きながら…。
end
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