▼ 薔薇の花/シンドバッド
・ギャグ要素を含みます。
※名前未入力の場合、表記は全て『ルネ』で統一。
『お疲れ様でした!!』
誰からともなく発せられる声が、ルネの勤める職場の退社時刻を告げる合図となっていた。
次々と帰っていく同僚、後輩達に続きいてジャーファルや上司に頭を下げつつ、彼女も廊下に出て自室へと歩き出す。
…最近は徹夜の数も減り、ちゃんと定時で上がれるようになったから、労働者の自分としては万々歳である。
これから部屋に戻ったら、すぐに風呂に入るのもいいが、むしろ入浴は明日の朝にする事にして、このまますぐに眠ってしまうのもいい。
でも、趣味に時間を費やすというのも捨てがたい…。
「(何しようかな…?)」
こんなふうに、ちょっとだけワクワクしながら自室のドアを開ける―――ここまでは、いつもと同じだった。
いつもと違ったのは、ドアの向こうの景色。つまり、彼女の住まう部屋の中だった。
彼女は、基本的に必要最低限の物しか持たない主義である。
当然、部屋の中あるものと言えば、生活するのには必須と思われるような家財道具か、貰い物のインテリアしかない。
それなのに…これはどういう事なのだろうか?
「私の部屋の中が真っピンクじゃないの!?」
そう。本当に、見た感じが“真っピンク”なのだ。
…別に怪しい意味ではない。
普段はこざっぱりとしている彼女の部屋の中を、目が痛くなるくらいの“真っピンク”に染め上げていたのは、見た事がないくらいの大量の薔薇の花だった。
聞くだけならすごくファンシーな展開なのだろうが…実際にされたのでは、たまったものじゃない。
不法侵入とか、そういうのに引っ掛かりはしないのだろうか?
勝手に独身女性の部屋に上がり込むだけで罪となりうるのに、部屋の中を本人の意向も聞かずにこんなに乙女チックにするという暴挙に出たのはどこのどいつなのか。
まるで額縁に飾られた絵を見るかのように一歩引いた場所で呆然と中を眺めていると、暗がりでいそいそと薔薇の花をテーブルの上に飾り付けている男の姿が目に留まった。
特徴的な紫色の髪と、見覚えのある背中。そしてほんのり漂う香水の匂い…最早、犯人の検討をつけるまでもない。
彼女は眉間に皺を寄せながら、未だに薔薇を弄くっている男に詰め寄った。
「…王よ、ここで一体何をしておられるのです?」
「や、やあ…ルネ、お帰り。」
今日は早かったんだな…。
若干冷や汗を浮かべつつ、弾かれたようにパッとこちらを振り向いたのは、『七海の女たらし』ことこの国の若き王――――シンドバッド。
酒癖も女癖も悪く、おまけに仕事を滞らせる事もしょっちゅうあるため、いつもジャーファルに怒られてばかりいる男である。
「王、どうして私の部屋の中を薔薇だらけにしてるのですか?」
一応聞くだけ聞いてみようとしたが、彼はちょっと困ったような顔をしただけだった。
「…すまない。もしかして、気に入らなかったか?」
「『気に入る』か『気に入らない』かの問題ではないのです。あなたが私の部屋の中に勝手に入り込んで、そこら中に薔薇を飾り付けているのにはどんな意味があるのかを是非伺いたいのですが。」
威圧感たっぷりに言い、逃げられないように壁際まで彼を追い詰めれば、いよいよ焦りだしたようだ。
「そうだ。ルネ、最近言葉の使い方と口調がジャーファルと似てきたな…。」
「あら、光栄ですこと。」
話題をすり替えられても巧みに切り伏せ、橙色の瞳を凝視して本題が出るのを辛抱強く待つ。
「いや、その…ほら。薔薇の香りは女性ホルモンを活性化する働きがあると聞いてな、それが本当ならルネの胸が大きくなるかなぁ、と思って。」
「…はぁ?」
「いや、だからだなぁ…俺はよかれと思って薔薇を君の部屋に飾りに来、」
「―――それ以上、何も言わないで下さい。」
何て馬鹿馬鹿しい。
子供だって、王が言った事よりも少しはマシな嘘をつきますよ?
そう一蹴してやれば、彼は視線を泳がせた。
自分より歳上のくせに、発想が子供並。いや、以下とは…『七海の覇王』の名が泣いている。
そもそも、上がこんなんで国が成り立っているのが不思議でたまらない。
苦し紛れに、どうぞ、と彼が差し出してきたピンクの薔薇を受け取りはしたものの、それはどこにも飾られる事なく、怒り心頭のルネによってすぐさまへし折られた。
「―――で、他に何か言いたい事はありますか?」
「でって…、ほ、ほら。胸が大きくなるのは嬉しい事だろう?」
「何度も繰り返すな……おあいにく様。私は現状で十分満足しておりますので。」
こうも重ねて言われると、先程以上の怒りが込み上げる。
この人、本当に何なのだろう?
失礼にも程がある…大体、何で他の女の子達がこの男に惚れるのかが理解出来なかった。
それに、コレって…世に言う『セクハラ』というヤツではないだろうか?
「(もう我慢出来ない…!)」
元々、上司のジャーファルと同じくらい怒りっぽい彼女は、テーブルに置いていたペン類をひっ掴み、思い切り王に投げつけた。
しかし、相手は腐っても七人のジンを従える伝説の迷宮攻略者。
ペンの動きを全て見切っているとでも言わんばかりにひょいひょい避けるから、それがルネの怒りを増幅させていく。
「どうして逃げるのです、王が止まって下さらなければ当たらないじゃないですか!!」
叫ぶが早いか、今度は万年筆のキャップを外し、尖った部分を王に向けて投げつける。
「いや、当たったら俺が死ぬだろう!?」
…また当たらなかった。
彼が避けなければ、今頃は右肩に風穴が空いていたはずなのに。
「とにかく王は、女性に対して言っていい事と悪い事。それがダメなら、最低限していい事と悪い事を覚えた方がいいと思いますが。」
「ひどいな…ルネ。本当にジャーファルと似てきた。」
そんな王を鼻で笑う。
だから何だと言うのだ。
私は上司の上司である貴方から軽いセクハラを受けたからこうして行動で訴えているというのに。
「…わけの分からない人ですね。」
そう吐き捨て、彼女は部屋中に散らばってしまったペン類を拾い集め、ペン立てに入れる。
「…ええと、ルネ?」
「今度は何です?」
彼女はしかめ面のまま、近くにあった薔薇の花籠を掴み、突っ立っている王にそれを押し付けた。
「いや、何をしてるのかなぁって。」
「見て分かりませんか?」
撤去作業ですよ、撤去作業。
そう言ってのけ、彼女はその辺にある薔薇の花を取り外してはシンドバッドの方へと持っていく。
花は嫌いではないが、こんなにたくさんあったのではたまらない。
花とは本来、部屋の一部にほんの少しの割合で置くから粋なものである。
色は単色しかなくて。
そして、日常生活に支障をきたすレベルの量の花は、はっきり言ってあまり好ましくない気がした。
「あぁ…せっかく頑張って飾り付けたのに。」
落胆の声が後ろから聞こえたが、それも冷たく切り返す。
「こんな事に時間を割くくらいなら、きちんと仕事して下さいよ!ああ、そうだ…、念のために言っておきますけれど。これ以降勝手に私の部屋に不法侵入したら、今度こそジャーファルさんに突き出しますからね!」
鋭いトドメの一撃をさして、ルネは残りの薔薇の撤去作業にかかる。
その横で、シンドバッド王は力なく座り込んでいた。
***
その後の薔薇の撤去作業を黙々と続けたおかげで、残りの薔薇は数本。
取り除いた花は、そのつど王に向かって投げてしまったため、王の周囲は真っピンクになっていた。
「よし、これで終わり!」
背伸びをしてやっと最後の一本を壁から取った時、突然肩を掴まれた。
バランスを崩すと思いきや、そのままフワリと腕の中に抱き込まれる。
「ルネ。」
「王、一体何のつもりで…、」
自分のした事の償いのつもりなのか、彼が不特定多数の女性にするように、ルネの髪を優しく撫でて、抱きすくめた。
「君とのお喋りは楽しいんだが…何でもかんでも聞きたがるのは感心しないな。」
腰に響くような低く艶っぽい声で囁かれ、自分でも知らないうちに頬に朱が差した。
「おや?どうしたんだ、ルネ。耳まで真っ赤にして。」
緩やかに腰を撫でながら、王はまた低めの声を出す。
「や、やめて下さい…!」
“このままではいけない。”
そう思ってやっと出た言葉は、自分でもびっくりするくらいか弱いものだった。
たった一瞬で、シンドバッドとルネの形勢は逆転してしまったのだ。
「どうして?」
今度はからかうように問うてくる彼の腕から抜け出そうと身を捩り、その度に押さえつけられる。
「は…恥ずかしい、から…離れてほしい、です。」
いつもとは明らかに違う口調と歯切れの悪い返答。
完全に王のペースに飲まれている。
恋愛経験のない彼女はどうしていいか分からなくて俯くばかりだが、そうすれば今度は彼のつけている香水の香りが鼻先をくすぐった。
「そうか、恥ずかしいか…。」
可愛いな、君は。
にこりと笑って、彼はまたルネの頭を撫で、思う存分ぐしゃぐしゃにした。
その直後、最初と同様に突如として与えられた温もりは、すぐに離れていってしまう。
…もう少しあのままでもよかったのに。
そんな事を思った自分にぎょっとした。
彼の顔を見上げれば、心臓の鼓動は速まり、先程まで触られていた箇所が熱を帯びていくような奇妙な感覚に襲われる。
思考回路は凍結寸前。
…さらに憎たらしい事に、彼はこちらが何も考えられなくなる事をも想定内に入れていたらしく、小狡く素敵な笑顔を浮かべた。
「今夜は邪魔して悪かったな…ああ、そうだ。この事はジャーファルに喋っちゃだめだぞ。」
じゃあ、お休み。
最後にとびっきり優しくそう言ったかと思えば、彼はルネの額にかかっている髪の毛をほんの少し退かして、額に口付け、満足そうに部屋を出ていく。
ガチャリ、と。
完全に扉が閉まるまでは何とか堪えていたものの、シンドバッドが出ていった途端―――彼女は顔を真っ赤にしたまま寝台へとダイブし、思い切り枕に顔を埋めた。
「××××っ…!」
自分でもわけの分からない言葉ひとしきり言ってしまってから、嫌な事も恥ずかしい事も眠ってリセットしようと試みたが。
あんな事をされた後に平然と寝られるはずもなく、さらに部屋には、彼のつけていた香水の匂いが残っていて、それがなおの事先程の行為を鮮明に思い出させる…。
結局、彼女は正体不明の感情を抱いたまま、一睡も出来ずに朝を迎えたのだった。
end
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