▼ 01:遠きに行くは必ず近きよりす
産屋敷邸で密命を受け、それから更に二日後の早朝。
百瀬は、藤の家紋の家の裏口に立っていた。
いよいよ、今日から目付役の任務が始まるわけだが。
彼女の服装は、いつもの隊服と、桃の花が描かれた羽織…ではなく、それよりかもっと質素な物に変化していた。
いつも以上にきっちりと結いまとめられた髪は、その上に被せられた白い手拭いへ隠され。
この年頃の女性がまず着ないであろう、無地で暗い色合いの着物に、足袋と草履を合わせて。
極めつけには、手拭いと揃いの白い布に包まれた四角い荷物を背中に背負うという有様である。
これでは『鬼殺の隊士』というよりかは、一般人………もっと言うと、田舎から出て来た行商女のように見える。
着物や細かい物品は、全て藤の家紋の家の主に調達して貰ったものであり、いかんせん時間がなかったもので『思ったより見窄らしい見た目になってしまうかも知れませんが…。』と先に謝られたが、彼女自身はこの見た目に随分満足していた。
正直な話、今回の任務は、とにかく目立たないという点が一番重要なのだ。
要は、誰の目から見ても、明らかに『通行人の一人』として認識される事が大事なのである。
これからしばらくの間は、昼も夜も。
竃門兄妹の後ろを、付かず離れず。
気配も出来る限り消して、目立たないようついていく必要があるのだから、万一視界に入ってしまった時の事も加味するのであれば、これくらい地味で印象に残らない見た目の方が良い。
百瀬としては、足袋は履かずに、いっそ素足と草履だけでも良かったのだが、屋敷の主人から『隊士様に、これ以上粗末な格好はさせられません!』と断固拒否されたので、渋々ながら足袋は履いて出て来た次第である。
───それはさておき、幸先良く、辺りには濃い霧が立ちこめていた。
普通は嫌がられる天候であるが、今回ばかりは有難い。
これから竃門兄妹に追いつくのだから、やはりこちらの姿は極力見られない方が良いからだ。
どこからか飛んできた彼女付の鎹鴉が肩に留まり、嘴に咥えた書状を押しつけてくる。
『まずは北西の町へ。道中、くれぐれも息災で。』
広げた書状に記された文字を眺めながら、一歩踏み出す。
これから、どんな出来事が待ち受けているのかは未知数だが、とにかく行って見てみない事には何とも言えない。
そんな思いで、彼女は細い小道を歩み始めた。
───しかし、歩き始めたのと同時に、周囲の様子が淡く透けて見えるまでに晴れ始めた霧に、少しがっかりする。
まあ、人生だってそう上手くは行かないのだから、自分の力でどうにもならない天気や気候に対して腹を立てても仕方がない。
「(気長に、気長に…。)」
そう自分に言い聞かせた矢先。
目視でざっと一町程先に、薄ぼんやりとした人影が見えた。
───まさか、もう追いついてしまったのだろうか。
ひやりとしつつも、足音を忍ばせ、気配をあらん限り消して。
さらに近寄ってみると、その人物が市松模様の羽織を身につけ、箱を背負って歩いているのが見えてくる。
鎹鴉から伝え聞いていた特徴と重なる部分が多々ある事やら、赤みがかった不思議な色の黒髪を見るに、彼は『竃門炭治郎』で間違いないだろう。
その事実を確認するが早いか、彼女は極力音を立てぬように立ち止まり、着物の袂から出した小さな巾着をさっと帯に忍ばせる。
程なくして、自身の周囲へ仄かに漂い始めた白檀の香りに、緊張が高まった。
…実は、師からの手紙に『炭治郎は多少鼻が利く、』と書いてあった事を直前に思い出し、匂いを覚えられて怪しまれたり、途中で気が付かれたりしないよう、香り袋を自前で用意してきたのだ。
見た目の面は、着物を着替えたり、荷物を持ち替えたりと工夫を凝らすのは勿論、香り袋も複数持ってきているから、それを毎日取っかえ引っかえして身につけておけば、気が付かれる確率はぐっと低くなるだろう。
こちらの心配や緊張を余所に、つけられている事などつゆ知らず。
遙か前方の炭治郎は、何やら背中の箱に向かって話しかけていた。
いかんせん距離が開いてしまったために、何と話しているのかはよく聞き取れないが、所々ではっきりと『禰豆子』と言っているのは聞こえる。
「禰豆子、今日は───。」
「禰豆子……………。」
行けども行けども、炭治郎の声は聞こえるが、禰豆子からの応答はない。
話によると、昼間はずっと寝て過ごしている、とも聞いたが…。
そうして、付かず離れず。
適度な距離を置いて歩いているうち、任務地として指定された町が見えてきた。
遠目から見ても、そこそこ大きく、栄えているような雰囲気が伝わってくる。
百瀬からしてみれば、この規模の町は然程珍しくはなかったが、炭治郎からすればそうではなかったらしく。
彼は、しきりに辺りを見回したり、橋の上から船を眺めたりと、随分物珍しそうにしていた。
***
あれからしばし。
昼間は『恋人が夜中に突然姿を消した、』という青年に事情聴取をし、鬼の痕跡を辿る炭治郎の様子を遠目で見守り。
そうしているうち、辺りは夕闇に包まれていた。
正直な所、恋人の失踪にかなり傷心しているであろう青年に一番に声をかけたり。
昼間だというのに、往来の真ん中に顔を擦り付けるようにして鬼の匂いを辿ろうとしたり…等々、彼の突飛な行動には大分驚かされた。
そして今、彼は鬼の居所を突き止め、昼間から一緒に行動している青年や、鬼が食料として生け捕りにしてきた一般人の少女を庇いながらの戦闘を余儀なくされているわけだが。
───対して百瀬は、近くの民家の屋根に登り、お館様から頂いた『望遠鏡』という物越しに炭治郎の戦闘を見ていた。
もっとも、ただ見ているだけではなく。
彼女は、手元に置いた紙へ『炭治郎がどんな様子で戦闘をしているのか、』『禰豆子はどんな様子であるのか、』『本当に人を襲っていないのかどうか。』を事細かに。
それでいて、あくまで客観的に記録していた。
彼女の肩には、鎹鴉が止まったまま、うつらうつらと船を漕いでいる。
こちらが頭を使いつつ、必死に手を動かしている最中にも、戦闘は進んでいく。
望遠鏡につけられた硝子玉越しに、よく見える炭治郎の姿。
繰り出そうとしている技は、構えからして、水の呼吸の伍の型。
しかし、次の瞬間。
一歩踏み出したところで、彼は歩みを止め。
突如地面から這い出て来た三体の鬼を、食い入るようにして眺めていた。
「(やっぱり………。)」
すんでの所で刀を持ち直し、型を変えて鬼に斬りかかる彼を眺め、百瀬は相も変わらず筆を走らせる。
恐らく、炭治郎は調査をしている段階で、鬼が分裂している可能性を考えていなかったのだろう。
一瞬の判断で型を変えて斬りかかる事が出来たのは、新人隊士としては『見事』と褒めるべき点であるが、太刀筋に戸惑いが出てしまっており、いずれの鬼にも致命傷を与えられてはいない。
…飛んで、跳ねて。
鬼からの一撃を避けて。
そうしているうち、禰豆子が箱から出て来て、鬼の頭に強烈な蹴りを入れたので、ぎょっとした。
近くには、一般人が二人もいるので、内心冷や汗ものだったが、幸いにも、禰豆子はそちらへ行く事なく、鬼を追いかける方に意識を向けているらしい。
しかし、炭治朗が何か彼女へ声をかけたのか。
禰豆子は彼の元へ戻ってきて…それから、一般人である青年と少女の方へ目を向ける。
「……………。」
一瞬の沈黙。
それから、禰豆子は二人の方へ手を伸ばし───泣いている幼子を宥めるように、ただ頭を撫でた。
お館様の話によると、暗示をかけられた事により、禰豆子には普通の人間が自身の家族のように見えているらしいが。
「(それが本当なら、彼女には彼等が弟や妹のように見えている、という事になるけれど………。)」
二年前のあの日。
炭治郎と百瀬が、家族の遺体を埋葬している時も、彼女は酷くぼんやりとした状態であったのを思い出す。
今は多少なりと自我があるように見えるが、果たして彼女は、自身の家族が既に兄一人だけになってしまったという事実を、はっきり理解出来ているのだろうか。
もし、そうでなかったとしたら。
もし人間に戻った時、彼女はその事実を受け入れる事が出来るのだろうか……。
悶々と考えながら望遠鏡を覗いていると、またも戦況に変化があった。
───どうやら、地上に出た鬼を禰豆子が。
地下に潜った鬼を炭治郎が倒す、と分担する事にしたらしい。
恐らくは鬼が血鬼術で作り出したであろう地下空間へ飛び込み、完全に姿が見えなくなった彼を見送った後、彼女は改めて禰豆子を見やる。
ここをしのぎ、炭治朗が上がってくれば、勝ちは確定したようなものだ。
───もし、炭治朗が負け、禰豆子が人を食うような事になれば、彼女がそれを止めて後始末を済ませるのみだ。
今回は鬼との直接的な戦闘はする必要がないため、いつも愛用している二振りの日輪刀の帯刀は認められなかったが『護身のために必要だ、』と食い下がり、何とか持ち歩く事を許可された一番小さな…所謂、世間一般的に言う合口と呼ばれる部類の大きさの日輪刀は持ってくる事が出来た。
鍔のないそれを懐から取り出し、万が一の時にすぐ使えるよう脇に置いて、戦況をひたすら見守る。
こうして、深い夜の中。
炭治朗の初仕事の結末を見届けようと、彼女はじっと望遠鏡を覗き込んでいた。
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