桃と鬼 | ナノ
 閑話:桃と刀

夜闇の中へ溶け込むように佇む鬼の姿を見据え、静かに刀を構えた。

幸いにも鬼がこちらに気が付いた様子は無く、好都合とばかりに息を潜め…足音を忍ばせながらゆっくりと背後へ近付く。


寝不足でふらつく足では音を立てずに歩くには随分難儀したが、どうにかこうにか鬼の背後を取り、ややほっとしてしまう。

…こんなに近くに居るのに気が付かないなんて。
いくら何でも鈍すぎやしないかと溜息が出そうになるが、それはぐっと堪え。

見ていて不安になる程生っ白い項へ刃を押し当てる。


ここでようやっと鬼が振り向き、驚いたようにこちらを見やったが、もうどうにもなりはしない。
以前ならこの時点で首を落とし、さっさと任務を終えていた所だが…今はどの鬼にも私的に用事があるので。

うっかりそのまま首を圧し斬ってしまわぬよう、かなり力の加減をしながら近くの木の幹に鬼を押し付けたのだが。


「げぇ…っ!?」


途端に、鬼が何とも言えない声を上げて白目を剥き。
暴れて両腕を振り回した拍子に爪がこちらの頬に掠って血が迸ったのが分かったが、やはり痛みは全くないどころか、傷口はすぐに閉じてしまう。

それを見て更に混乱したのか、闇雲に大口を開け、噛みつこうとしてきたので。
刀にかけた力を僅かに強めて押さえ付け、鳩尾の辺りを左手で軽く殴り付けてやれば、鬼はそれきり青い顔で俯いて…以降、こちらとは絶対に目を合わせようとしなかった。


「なん……だ。なんなんだよ…何なんだ、お前。そのふざけた面、鼻が曲がる程甘い肌の匂い…全部が全部おかしいおかしい、おかしい…おかしいぞ、オイ、」

「?」


早口でぼそぼそと繰り返される言葉に首を傾げつつ、何の気になしにその鬼の顔を覗き込もうとすれば。


「穴が空いたような悍ましい顔面をこっちに近づけるなっ…この化け物がっ!!!」


用があったから一息に殺さず生け捕りにしたというのに……。

凄い剣幕で拒絶された上、この分だと話を聞くのも難儀しそうだというのが薄らと分かってしまい、急に気が滅入りだした。

遊郭で死の間際まで追い詰められた折、双子の弟の存在や死に際の姿を思い出したのと同時に奇跡的な生還を果たしてからというもの───自分と出会した鬼は皆こちらを見て酷く怯えて震えたり、冷や汗を浮かべながら目を合わせようとしなかったりと、おおよそまともでない反応をしてくる。


元よりそんなに怖がられるような面をしている訳ではないし、威圧的なまでに上背がある訳でもない。

以前の討伐でそれがどうしても気になり『下手に嘘をついたりしたら承知しない、』と前置きをし、どういう訳かと生け捕りにした鬼を問い糾したところ。

曰く、その辺りを歩いている一般人やら他の鬼殺の隊士の顔は、目があって鼻があって口もあり、その位置に個人差がある……という具合に、きちんと顔を認識出来るそうなのだが。

今相対しているこちらの顔面があると思しき位置には丁度黒い靄が罹って顔が見えないだけでなく、頑として晴れる事のないその靄を眺めていると、何故だかどうしようもない恐怖と不安に駆られ、震えが止まらなくなるのだという。


聞いた直後は、そんな眉唾な話信じられるものかと若干苛々しながらすぐ絶命させてしまったものの。

思えば、用事。
もとい、知りたい事の核心に触れるような所まで易々と語って聞かせた上、言えば自身に不利になるような事柄まで包み隠さず話すような……所謂、口と頭の軽い鬼であったので、もう少し話をさせてから命を取った方が良かったかと僅かに後悔する。


後悔したところであの瞬間に立ち返る事なぞ出来ないので、溜息交じりに件の出来事を頭の隅へ追いやってしまってから、目の前で震えている鬼に再度視線を移す。

自分と然程変わらぬ背丈で髪が長かったので。
初見では何とも安直に女の鬼かと思っていが、声の低さと骨格からして…男の鬼で間違いないようだ。


だからといって、やる事にかわりはないのだが。

ことに、鬼に聞かねばならぬ用事があるのなら、朝が来る前に始末を付けてしまうのが一番だろう。


自身の唇を鬼の耳の辺りに近付ければ嫌がって仰け反られたが、構わず。
土気色の冷たそうなそれへ、何とも頼りない掠れた声で囁きかける。


「これから一つ質問をしますが、答えるか否かは好きにして頂いて構いません。ただ、無言が続けば首を刎ね、即座に殺します───癖のある黒髪に、赤い瞳をした…人間によく似た姿をした鬼に心当たりはありませんか?」


直後、ひゅっ、と鬼の喉が鳴ったのが聞こえた。

ただでさえ不健康そうな色の肌は、恐怖のためか青ざめて…より一層白さが際立ち、憐れみすら覚える程だ。


痛んだ長髪の合間から覗く濁った瞳はどちらもあらん限り見開かれ。
血生臭い息を、浅く幾度も吐き出しながら唇を震わせている。

その様を眺め、しばらく待ったが、鬼が何か言わんとしている気配は無い。

ならば予告通りに、と刀を僅かに前に押してやると。


「イッ…だだっ…いだ、いだいぃっ!?!?」


刃は容易く鬼の首の肉へ食い込み、与えられた痛みでまた暴れ出してみたものの。

動いたせいで余計刀が深く食い込んで苦しみ、涙や鼻水を垂れ流しながら悶える様をどこか冷めた目で一瞥しながら、刀の柄を握る手に力を込め直した。


まるで、捕まえた虫の四肢をもいで弄ぶ幼子のように。

暴れ続ける鬼を至近距離で押さえ付けながら様子を覗ってみたが、状況が変わりそうな気配は一向にない。


このまま、何も言わずに死ぬもよし。
知っている事を吐いて、僅かばかり長らえるもよし。

後からの手間を考えるなら、なるべく後者の方でお願いしたいところだが、様子を見る限りまともに話をできるような感じでもなさそうだ。
面倒ではあるが、また新たに鬼を見つけて。そちらの方に聞く事とするか───考えを巡らせながら、刃をさらに奥へ押し込まんとした時。


「待っ…まっでっ、心あだり、あるっ!!!だがらっ….だがら、」


殺さないれっ…!!!

涙と鼻水を垂らし、ぐしゃぐしゃになった顔で懇願されてしまったので。
やや怪しみながらも手を止めると、鬼はしゃくり上げながら、やっと話を始める。


「名前までは、言えないっ…でもっ、お前が探してるその鬼は…俺を鬼にした奴で、間違いないと思うっ………。」


ひどく震えた声でそう言い、鬼はまた泣き出した。


「名前が言えないというのは、」


どういう事です、

小さく掠れた声で少々強めに問うが、鬼は激しく頭を振り。


「言えない.….!それだけは言えない…勘弁しろよぉ…!!」


そう繰り返すばかりで埒があかない。
ならば聞き方を変えてやるかと少しばかり思案し、
また耳元へ口を寄せて。


「その鬼は、上弦?それとも、下弦───もしくは、あなたと同じくらい?」


そう問えば鬼はさらに震え上がり、忙しなく目線を泳がせる。

ただ、ここで言わねば命がないのもよく分かっているようで。


あっちを見、こっちを見して…よっぽど言葉を選びながら、消え入りそうな声で物を言う。


「上でも、下でもない。それどころか、俺と同じなんて滅相もない…!!!鬼の中でだって、あんなにおっかないのは早々いねぇよ……!!」

「左様ですか…ところで、その鬼がどこを根城にしているか「分かるもんか!!ご親切に教えてやると言われたって知りたくもないっ…!!!」


最後の方は、これで終いだとばかりに勢い良く言われてしまい、呆気にとられたが…これ以上搾り取れる情報も無さそうであったので。


「ご協力、感謝します…ありがとうございました。」


なけなしの声で礼を言ったが最後。
元よりまともな声量で話が出来ていたわけではないが、それきり声を出す事が叶わなくなり、苦し紛れに何度か咳払いをしたり、唾を飲み込んで喉を潤したりしてみたが…どう足掻いたとて、一度こうなってしまうともう駄目で。

次声を出せるようになるまで、少なくとも丸一日は無理矢理声を絞り出そうとはせず、喉を休めなくてはならないのである。


常人にはわけなく出来るはずの事が段々出来なくなっていく事実に強い恐れを抱きながらも、目の前のそれには気持ちを気取られたくない一心で、その妙に尖った耳へあらん限り自身の唇を近付けて。


「では、最後に───その鬼の名は『鬼舞辻無惨』で間違いありませんね?」


たっぷり間を取り、確信を持って囁きかけた直後。


「…お前っ……おまえお前、おまえぇッッッ!!!!」


先程まで泣きながら震えていた癖、鬼は急に勢いを盛り返し、大口を開けて飛びかからんとしてくる。

これまでの経験則で、かの鬼の名を出せば大抵の鬼は逆上して襲い掛からんとしてくるのも読めていたから、当然強く柄を握って押し止めたのだが。


「このアマ!!…始めっから知ってたくせにわざわざ聞きやがったな!?小賢しい真似しやがってっ…やっぱ、物の怪みてぇな見た目をしてやがる奴は性根も捻じ曲がってるばかりか、人の心もないときたもんだ!!」

「……………。」

「何とか言ってみろ!!!」

「……………。」

「オイ、聞こえてんだろ!!何か、言ってみせろってんだ……!!!!」


怒号の直後、体の割に大きな鬼の両手がこちらの首へ伸び……いとも簡単に指と爪を食い込ませ、一息に締め上げた。


「……!!」


勿論痛みは無かったが、急に息が苦しくなったのやら、反射的に息を吸おうとしても上手くいかないのやらで流石に弱ってしまう。

…ただ、正直なところ。
生死に関わる深傷を負わされても平気だった事もあるのだから、こんな事くらいで死ぬわけもなかろうという思いと、このまま死ねたらどれだけ楽か知れないなという考えとが鬩ぎ合い、頭の中は混沌としていた。


もう半年も前から患っている寝不足が祟って、いよいよ自分が何をしようとしているのかも分からなくなり。
いっそこのまま放っておいて、本当に死んでしまうか否か試してみるかと思い始めた所で、いよいよ意識が朦朧としてくる。

今のうちに何とかした方が良いに決まっているのはよく分かってはいたが、そんな気力もなく。


げほっ…と息を吐ききっていくばくもしないうち、視界が狭まっていくも、怖さや恐れはない。

これで死んだら、父母や弟達に会う事が出来るだろうか。
もしそうなったら、何を話そう───。

虚ろに宙を眺め、一つ、二つと瞬きをして。
終いには、何も見えなくなった。


***


息をしたと同時に、血の匂いがしたような気がしたが…それも一瞬の出来事あった。

ゆっくりと。
蝸牛が地を這うかのようにゆっくりと肺腑へ息を吸い込めば、血の匂いを打ち消すかのような濃い桃の香りが鼻を擽る。


「(………つめたい、)」


は、と息を吐きながら、漠然とそう思う。

夜闇の中、幾度か瞬きをして。
ぼんやりと浮かぶように見えたのは、血を連想させるような赤い瞳。

次いで、炙り出しのようにぼんやり見えだしたのは、神職を思わせるような格好をした男が自身の体の上にのし掛かり、冷たい手を首へ添えながらこちらを見下ろしている姿であった。


件の双眸はこちらをさも憎々しげに睨め付けて眺め下ろしている癖、忙しなく視線を彷徨わせながら震えているようであったため、目が合っているような感じは無い。

首に掛かった手には然程力が込められていないと分かったが、肌同士が触れあった所から、向こうが尋常ではないほど震えているのが分かった。


少しだけ息苦しさを感じたので、薄く唇を開き。

は…と僅かに息を吐いた時。


「なぜ………、」

「?」

「何故お前が…私より先に死ぬはずだったお前が、何故昼の日中でも平気で生きているのだ……!!」


突然恨みの隠った言葉を放られたので唖然としてしまったが…彼の声は僅かばかりに震え、裏へ薄らとした戸惑いや憔悴が溶け込んでいるようであり。

そんな考えを察しているのか否か…定かでないが、赤い双眸は爛々とした光を湛えてこちらを見据えている。


「穴が空いたような悍ましいその面、鼻が曲がるほど甘い肌の匂い…あまりに疎ましい。やはり、お前がこんな有様になってまで永らえんとするより前───病に伏せり、慎ましやかで清らかな内、この手で殺しておくべきだったっ…!!」


次いで勢い良く放られた言葉を少なからず悲しく思いはしたが、何て身勝手な理由でこちらの命を奪わんとしているのかと思うと…静かにではあるが、自身の内側へふつふつと怒りが沸き上がってくる。

そもそも、此奴は今や鬼と成り果てた輩───以前からの悪事も数えれば、例え三遍死んだとしても到底罪が償えまい。


加えて、私のみならず一族郎党を今宵殆ど殺し尽くしてしまい。
気の迷いだとしても、褥で思いを甘やかに囁いてみせたその口で今や呪詛に近い暴言を吐いて……私を殺さんとしているお前を、決して許せない。

一時でも『我が妹』『背の君』と呼び合うような間柄であったから。
本気で好いていたからこそ、目の前で起こっている事を信じたくない気持もありはしたが、それにも勝って悔しさや恨めしさが強く出た。


唇を強く噛みしめ、今にも死にそうな程白い面をした男の顔を睨み。


「…せの、きみ。」


かつての呼び方で呼んでやれば、かの男は目を見開き、生唾を呑み込んだ。


「ああ、背の君…あなた様は一時の怒りに任せ、ご自分で人に戻る道を絶ってしまわれた。私にはそれが悲しくて、おいたわしくてなりません。ですから、せめて…ここで約束をいたします。あなたが下さった桃の枝を抱え、あなたの愛して下さったこの容貌と声で…いつの日か、必ず逢いに参ります。相見えるその日まで、どうかお待ち下さい。」


あなたへの道を阻む悉く。
遍く全てを打ち倒し、幾年月がかかろうと、必ずや逢いに参ります。

掠れた、酷く弱々しい声で言い終わった途端、首へ添えられた手に力がかかって急に息苦しさが増し…抵抗はしたが、男と女では力の差がありすぎる。


元からの体勢も相まって難なく押さえ込まれ、薄ら涙が滲んだ。

そのうち苦しさは薄れていき、いよいよか、と僅かな間で自身の終わりを静かに悟る。


「(死とは常に隣へあり、誰にも等しく訪れるもの───。)」


以前は常に自身の体へ付き纏う死の気配を感じ、酷く虚ろで気弱な日々を過ごしていたが……医者にかかり、病がすっかり良くなってからはそれを忘れて暮らしてしまっていたのを顧みて、ふっと力が抜けた。


あなたは、物言わなくなった私の体だけを見て何と思われるのか…いいえ。
案外、何とも思わぬのやも知れません。

平生よりあなたの奥底に揺蕩っているのは、生への強い執着のみでありますが故───。


***


「〜っ!」


はっと飛び起き、朝日の眩しさに目が眩む。
…どうやら、意識を無くしていたうちに朝が来ていたようだった。


結局のところ、やはり死にはしなかったな。

そんなふうに思いつつ恐々首を触ってみるも、怪我をしていたり苦しかったりという事は無く、先程首を絞めてきた輩の姿も見えなかったので、ひとまず息をつく。

赤い瞳に、波打った黒髪。
顔色の悪い痩せ型の………思い出したくなくとも勝手に脳裏へ浮かび上がるその姿は、今自分が探している鬼とよく似ていた。


さっき見た物は夢なんだろうが。
それにしては妙に生々しく、尾を引くような後味の悪さがある。

考えれば考える程。
その時の空気や何とも言えぬ重苦しさまでが鮮明に思い出され…多少の気持ち悪さが生じたので、やや前屈みに体を倒した時。

目の前に生い茂る草の合間へ、太陽の光を受けて鈍く耀く物があるのに気が付いた。


特に深く考えもせず両の手で葉をかき分けてみると。

背の高い草の合間へ、朝日を浴びて既に崩れかかった…先程対峙していた鬼の頭部と思しき物が無造作に転がっており。
丁度眉間の辺りへ突き刺さった刃の先が陽を反射し、鈍い光を放っているのだった。


何とも悲惨な絵面に固まってしまうも、朝日を浴び続けたせいで頭部は溶けるように消え失せ、草の合間へ黒刃の日輪刀の上半分が落ちたのを認めた途端、一気に血の気が引く。

殆ど反射のように腰の辺りまで目線を下げたが、いつも刀を挟んでいる左側のベルトを見ても鞘が挟まっているのみで、刀本体は影も形もなかった。


再び目線を戻し、じっと件の刀を眺め。
懐から手拭いを取り出して、包むようにしながら拾い上げ、表面の汚れを落としてみると───果たして。

色といい、独特な厚みといい、曲がりの加減に至るまで…見れば見るほど、自分が長年使ってきた刀とまるきり同じ特徴が認められ、愕然とする。


「(…そんな、)」


信じたくはなかったが、鬼殺の隊士として仕事を始めて以来、毎日のように使っていた物を見間違うはずもない。


高祖父から曾祖父へ、曾祖父から祖父へ。
祖父から父へ、父から私へ…というように。

仁科家の剣士が代々自身の父から譲り受け、こまめな手入れや修繕を繰り返しながら大切に使ってきた家宝の黒刀を、私が折ってしまったのだ。


「(形がある物はいつか壊れる日が来るとは言うけれど、何も今でなくたって…。)」


折れた刀を眺め下ろしながら思うが、取り返しの付かない事をしてしまったのは他でもない…自分なのである。


このままでは刀も浮かばれないし、まず最初に柄を探して。
その後は隠を呼んで、昼になる前に事後処理を済ませなくては。

様々な考えが浮かんでは消えていくが、それに反し、体はなかなか動いてくれないもので。


「…………。」


落ち着こうと息を吸ったのと同時に、目尻へ浮かんだ涙が零れそうになったので、慌ててそれを拭った。

こんな私でも、今は仁科家の当主なのだから。
どんな事があろうと簡単に泣いてはいけない。


情けない所なぞ誰かに見られでもしたら…それこそ『今代の当主は頼りがいのない気弱な女だ、』と馬鹿にされるだろうし、そのせいで仁科の名に傷が付くのは後免だ。

上がってくる涙をどうにか押し止め、嗚咽を殺して。


「……父様、ごめんなさい。私、」


大事な刀、折ってしまいました───。

ろくに出ない声で既に故人となった父へ囁くように謝罪をし、項垂れる。

父母が突然亡くなり、葬儀を済ませてから既に半月も経っていたが…ここのところはずっと。
何かにつけ、どうにも寂しくなってしまっていけなかった。


なら、一旦どこか人の居る所へ行こうと思い立ち、里のある方角へ足を動かしてみたものの。

気が動転しているというのもあって、手拭いから僅かに出た刃で指の先を切ってしまい、白いそれへじわりと赤が滲む。


痛みは無いが、すぐに血が止まったのを眺め下ろし。
瞬時に傷口が塞がったせいでそうなったのかと思い至って、急に怖くなった。

今のところ、自分が桃の加護のせいで超人的な能力を獲得出来ているという事を知り得ているのは、お館様とあまね様…それから、育手の師範と岩柱の悲鳴嶼の四人だけであり。

時折怪しまれる事はあったものの、どうにかこうにか上手くやり過ごし、秘密を守って来たのだが。


もし。

何かの折にこれが事情を知り得ぬ人の目に触れてしまうような事があったとすれば───その時は『人外の化け物』と罵られたり『物の怪だ』と疎まれたりするのではないか。


小さな不安はあっという間に大きく膨らみ、人里を目指していた足はぴたりと止まってしまう。

事実として、自らの意志とは関係なしに桃の加護は強まるばかりで、この体は日々人外の何かへ近付きつつある。


このままいけばそう遠くない内。
自分の恐れていた事が起こるのかも知れないと思うと、目眩がするようだった。


当主たるもの『気丈であれ』『強かであれ』と自身に言い聞かせてみたが、この時ばかりはどうにも駄目で。

項垂れつつ幾度も自問自答し。
ある程度落ち着くまでは、なかなか動き出す事が出来なかった。

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