桃と鬼 | ナノ
 14:末々

「仁科……仁科百瀬、」


随分久方振りに呼ばれた名に吸い寄せられるかのように意識が覚醒し、ゆっくりと目蓋を押し上げる。

…そこまでは良かったのだが、薄目を開けた途端、隙間から砂粒のような細かい異物が入り込み、ごろごろと目蓋の裏側で悪さをするので。

痛みはないものの、堪らず目を擦ろうとしたところで、宇髄や炭治郎の事が頭を過る。


二人とも無事だったのか。
自分を含めて何人生き残ったのか。

異物を押し流さんとし、反射でじんわり滲んできた涙を潤滑油代わりに何度か瞬きをし。
様々考えを巡らせていると、頭上からまた声がする。


「鬼の討伐が終わったのは大変めでたい事だが、五人束になってようやっと討ち取ったのはたかが上弦の陸だ。大した怪我も体の欠けも無いのは褒めてやらんでもないが、これしきの成果でやり切ったような顔をされるのはいただけない……ところで、一体いつまで寝ているつもりかね。」


この言い方といい、声といい…そこに居るのは蛇柱の伊黒で間違いなさそうだ。
今の今まですっかり忘れていたが、少し前、彼に応援を頼んでいた事を思い出す。

来てくれた事に安心したし、感謝もしたが、こうねちっこく詰められるのはどう頑張ったって慣れない。
ただ、言われてみればそうかと納得してしまう所もあり、口を開いて謝罪しようとするも。

何とも間の悪い事に、今度は口の中へ粉塵らしき異物が舞い込み。
…結果、盛大に噎せた上、息を僅かに吸っては咳として多量に吐き出してを繰り返している内。


やっとまともに使えるようになった目をゆっくりと動かし、周囲の様子を覗えば、やや眉根を寄せながらこちらを眺め下ろしていた伊黒と。
その華奢な肩へ巻き付いていた白蛇と目が合い…はっとして勢い任せに起き上がれば、何故か盛大な舌打ちと共に思い切り顔を背けられる。

元よりあまり好かれているわけでないのだから、彼の態度も当たり前かと再度謝ろうとしたが、それすら手で制されて。


「───常々自分に無頓着な奴とは思っていたが、まさかここまでとは、」

「………?」


何の事やら分からず戸惑ったが『下を見ろ、』の言葉に従い、おもむろに視線を下げると。
酷く破けた隊服の合間から、自身の胸や腹が躊躇無く曝け出されているのが見え…一瞬のうちに顔が赤らむ。


「あっ…も、申し訳ありま「謝るより先に前を隠せ」」


今、すぐにだ。

有無を言わさぬ口調で僅かな隙に割り込まれたのと同時に、彼が瓦礫の山から引き摺り出し、投げつけてきた着物を受け取って羽織るが早いか、すぐ前を掻き合わせ。

落ち着くために、一つ深呼吸をして。


「お見苦しい所を見せてしまい、大変申し訳ありませんでした…。」


もう、大丈夫ですから……。

やっとこさ絞り出した声は思いの外震え、ようやく白んできた空へ昇って解けていく。


程なくして。
左右で色の違う伊黒の瞳がこちらを見据え、何か言いたげに顔が顰められるが…やめだ、と言わんばかりに溜息をつかれた。


「とにかく、今回の仕事はこれで終いだ。お前以外の面子は大なり小なり負傷しているが、命に別状はない。この後の隠部隊の指揮は俺がしておく───お前はすぐお館様の屋敷へ向かい、葬儀の支度をしろ。」


分かったな、と念押しされてつい頷きそうになるも、ぐっと堪え。


「あの、すみません……お葬式って。」


どういう事なんでしょうか。

おずおずと問えば、彼は『なるほど、まだ伝わっていなかったわけか』とだけ呟き、また話し始める。


「ここへ来る途次、鴉に伝えられたままを話す。夜中の内、お前の実家が鬼に襲撃された。近くで任務をしていた隊士が駆け付けた際、鬼は去った後であったようだ。家には火が回り、母親は既に死んで体が燃え、半分は骨になってしまっていたが、父親の方はまだ辛うじて生きていて……お館様の屋敷へ担ぎ込まれて手当てを受けている最中に息を引き取ったとの事だ。」


ごく簡素に。
淡々とした口調で告げられ、葬儀をせねばならない理由については理解できたが───突然の事に頭の中がさざめき立ち、じわじわと不安が広がってていくのが分かる。


「(家が鬼の襲撃を受けたって、)」


何がどうなっているんだろう……。

思う事は沢山あったし、本当なら人目を憚らず喚き出したいくらいでもあった。
実際、自分がもう少し若ければ、父母の死を伝えられた時点で泣き崩れていたところだろう。

憔悴してはいたが、この件を伝えてくれたのが伊黒であった事に感謝せねばなるまい……事柄を感情的に伝えられるよりか、幾分淡々としていた方が諦めもつく上、心がざわめくのだって最小限で済む。


そんな風に思いながら、何度か息を吸い、無理矢理口の端を釣り上げ。


「そうでしたか……教えて頂き、ありがとうございました。」


鼻の奥がツンとしてくるのを感じながらやっとそう言えば、彼はまた眉根を寄せてこちらを見下ろし。
今度は、きっちりと目線をかち合わせたまま口を開く。


「酷いな……何て面だ。お前の一族は、代々鬼に対して化け物じみた強さを発揮する剣士を出し続けてきたとは聞いているが。その血筋の者は、実の親が死んだ時ですら泣かんのか、」


初めて知った、とまで言われてしまえばもう駄目で、取り繕った笑みは霧散し、自分がどんな顔をしているのか分からなくなる。


そこは触れずにいて欲しかった点だが、いざ突かれてしまうとどうにも抑えが効かなくなるもので。

堪らず視線を逸らし、目の端から零れ落ちそうになる涙を必死にせき止めていると、彼は深々と溜息をついてみせて。


「下手くそな顔の使い方をするよりか、一時でも人間らしい表情をしていた方がまだいい……精々、泣くのが許されている身分のうち、好きなだけ泣いておくがいいさ。」


それきり口を噤み。
もう用は済んだと言わんばかりにさっと踵を返し、伊黒は一人で歩き去ってしまう。

どんどん遠くなる背を追う気力も無く、ぼんやりとそれを見送って。


やや棘のある…いや、彼なりの気遣いであったのだろうと取らせて貰う事にし、自分は自分で反対方向へ歩き出す。

途中、我慢が効かず勝手に溢れてきた涙を乱暴に腕で拭い、何とも言えぬ喪失感に苛まれながらも、歩みを止める事は出来ず。

子どものように涙を溢し、一人とぼとぼと瓦礫の山の中を歩いた。


***


周囲には、死臭を誤魔化すために焚かれた香の匂いを打ち消すかの如く…甘くはあるが、どこかえぐみや渋みを含んだ桃の匂いが立ち込めている。

夕暮れ時特有の茜色の光が差し込む産屋敷家の一室は、聞いていたのと違わず通夜の場として提供され。
今自分が一人で居る廊下側からは、百瀬の父の遺体が寝かせられているのと、ぼんやりとした明かりを湛えた大きな祭壇が置かれているのが見えた。

普段は広く感ぜられるはずの部屋へ妙な窮屈さを覚えるのは、それだけ人が集まっているからだとも言えるが……もし三人の嫁を全員連れてきていたのなら、冗談抜きで身動きが出来なかったろう。


通夜の最中なら、人の出入りが忙しないのは当然であるようにも思えたが、何しろ、鬼殺隊内では名家として広く認知されているあの『仁科家』の当主が亡くなったのだ。

数々の噂話の種となり得ている家の当主がどんな顔をしていたのか。
特に関わりはないものの、興味本位で見に来た者だっているのだろうし、次の当主になる百瀬に顔を売っておくためにやって来た者もいるのだろう。

…となると、この中で純粋にお悔やみに来た者がどれだけ居るのか怪しくなってくるところだが。


眼帯に隠されていない方の目で辺りを満遍なく眺めながら座敷へ入ると、お館様の娘達が座布団を並べたり、使い終わった茶碗を片付けたりして忙しなく動き回っているのが見え。
同時に、妙に人が密集している個所が目に付く。


部屋の端へ寄せるように置かれた卓のすぐ近くには、喪服に身を包んだ百瀬が居て。

茶を出しつつ、訪れた隊士達に順繰り礼を言っているのが見えるも、余程忙しいのかこちらに気付いた様子もない。


何しろ、この人の多さである。

二言三言、彼女と故人について言葉を交わし、茶を一杯馳走になって帰る、という自然と出来たであろう流れに身を任せる者が多数を占める中。
別段親しい間柄でもなかったくせ、いつまでも卓に居座って故人と何ら関係の無い長話を続ける…所謂、不粋極まりない輩もいるわけで。


もし自分が彼女の立場なら一喝して叩き出してやるところだが、通夜に来てくれた客人という体が邪魔をしてか。

当の本人は窶れた顔に薄らと困っているような表情を張り付けながらも空いた碗に茶を足し、いつ終わるとも知れぬ男性隊士の話へ律儀に耳を傾け続けていた。


「いやあ、ご両親が亡くなった上に、実家まで焼けてしまったなんて。百瀬さんも可哀想になぁ……この先、住む所のあてはあるのかい。」

「…いえ、それがまだでして。とりあえず、葬儀が終わってから決めようと思ってはいるんですが。」

「そりゃいけないねぇ…家を借りるにしたって、女一人じゃ何かと不便するだろうし……ところで、うちには随分部屋が余っているんだが。君さえよければ一緒に住んではくれないか、」


聞くつもりが無くとも耳に入ってきたのは、やはり碌でもない内容だった上、親切ぶってはいるが、隠す気も無い剥き出しの下心に辟易する。

この時ばかりは自分の耳の良さを恨みに思ったが、どうせ塞いだところで…なぞと思っているうち、望まぬ続きが聞こえてきてしまう。


「ご親切に、どうもありがとうございます。ですが、今すぐには決めかねますので…、」

「いやはや、オレとしたことが申し訳ない。『よければ』なんて曖昧な言い方じゃ、君もいまいち踏ん切りが付かないだろうし、遠慮もしてしまうのだろうから───ここははっきり『是非一緒に住んではくれないか』と言っておくよ、」


わざとなのか、そうでないのか。
茶を濁そうとしたところを掻き消した挙げ句『今すぐでなくとも、色よい返事が貰えれば嬉しいんだが』と来たものだ。

あまつさえ、ここは通夜の席で。
父親の遺体がすぐ近くに置かれているというのに、喪も明けていない彼女を口説きにかかるという凶行に出るとは。


常識の則を越えた行動に怖気が走るのが分かったが、どうにかそれを振り払い。
とりあえず助けてやるかとそちらへ足を向けるも、事態は思わぬ方向へ転がり出す。

……こちらがやっと一歩踏み出したところで、件の隊士と同じ卓で茶を飲んでいた他の男性隊士のうちの何人かが急に立ち上がり、件の男に抗議を始めたのだ。


「さっきから黙って聞いていればとんでもない事ばかり言いおって…この助平が!!!こんな品の無い輩と暮らすなんてあんまりに可哀想だ───百瀬さんは自分が妻として引き受けさせて頂く!!!」

「そりゃもっともだ…だが、お前だって同じ穴の狢って奴だろ。馬鹿も休み休み言え。生憎、こいつは俺と一緒になるのが決まってんだよ。」

「……ああ、嫌だ嫌だ。これだから血の気の多いお兄様方はいけないや。百瀬さんはこんな野蛮なお兄様方よりも、お利口で若くて従順な…僕みたいなのがお好きでしょう?ね、そうだって言って聞かせてやって下さい。」

「訳知り顔で言いやがって!そんな出鱈目がまかり通ると思ってるのか、このませガキが!!!仁科家の婿に相応しいのは、どう考えたって名家出身の私に他ならないだろう!!」


上は三十辺りから、下は十代半ばといったところか。
ぱっと見た感じ、年齢に大きな偏りはなさそうであったが、皆最低限の分別と教養が備わっていて然るべき齢であるには違いない。

それが、諍いをどうにか止めようとしている百瀬の話を聞かぬどころか、人目を憚りもしないで『百瀬に相応しいのは自分だ、』と醜い言い争いを続けているのは、最早非常識だの異様だのを通り越し、いっそ無様でもあった。


「(ったく…そのうち『仁科の女当主』の字面に釣られて馬鹿共がわんさか来るだろうとは思っちゃいたが……ここまで酷いと引いちまう。)」


人波を縫うようにして足早に近付いていくうち、いよいよ掴み合いの喧嘩に発展しそうなのが見え、慌てて声を上げようとしたその時。


「…止めて下さいと言っているんです、」


耳が無いのですか?

然程大きくはないものの、酷く冷たい百瀬の声が辺りへ響き。
あれだけ騒いでいた隊士達もはっとしたように動きを止めて彼女の方を見やる。

並んだ十の眼は、怯えたように自分達よりか余程小さな体躯をした女を見返し…彼女はというと、彼等を一瞥したかと思いきや、亡くなった父親そっくりの固い表情を顔に貼り付けたまま、落胆とも取れる溜息をついて見せ。


「お見受けしたところ、あなた方の中で仁科に来られそうな方も、私を上手く御せそうな方もいらっしゃらないように思います───申し訳ありませんが、どうかお引き取り下さい。」


他でもない本人からはっきりと断られてしまえば、もう誰も迫れず。

同時に、周囲の隊士から白眼視されているのに気が付きだしたからか、一人…また一人と気まずそうに踵を返し、すごすごと出口へ向かっていく。


それらを見送り、一足遅かったかと申し訳なく思うも、窮地を脱したのは事実であるので。

百瀬の居る所まで然程距離も無かったが、幾分歩みを緩めれば、俯いて咳払いをしていた彼女がぱっとこちらを振り向いたので、意図せず目が合う。


一瞬驚いたように目を見開き、眼帯で隠れた方の目と無くなった片腕を眺めていたようだったが…驚きの方が大きいらしく、あちらから声をかけてきそうな感じはなかったので、こちらから話を始めることにした。


「今回は、父親に母親に…本当に残念だったな、」


まず、心よりお悔やみを。

───その言葉と共に頭を下げれば、向こうも同じ動作をした後、やや震えた声で礼を言って。


「あの、宇髄殿…先程の………なんですが、」


掠れた声で囁くように言われたので、肝心な所がよく聞き取れず。

何の気なしにもう一度頼むと伝えれば、彼女は少しだけばつが悪そうに黙り込んではいたものの…瞬き一つの間に顔を上げ、やはり掠れてはいたが、幾分かはっきりとした声音でまた話し出す。


「先程はお恥ずかしいところをお見せしてしまって…申し訳ありませんでした。驚いたでしょう?」


あまり自信はありませんが…ああいった方々とも上手くお付き合いしていかなければ、これから残っていけませんものね。

伏し目がちに。
それでいて、自分で自分に言い聞かせるかのような言葉の裏には、じっとりとした寂しさと不安が滲んでいる。


だが、それを直に指摘するのがどれだけ不粋な事なのかも分かっていたので。


「俺は見ての通り…この様なもんで、今回限りで引退する事にしたんだが───その口振りだと、お前の方はまだ現役で張るつもりなんだろ。」


ごく婉曲に問えば、百瀬は子どものように一つだけ頷いてみせる。

しかし、目線は絶えずゆらゆらと彷徨い…何か考えているふうであった。


平生から妙に生真面目な彼女であるから、さぞ難しい事を考えているのだろうが。

これからその真面目さで己の首を絞めてしまわぬか。
加えて、家族も家もいっぺんに失ってしまったせいで変な気を起こすんじゃないかという不安もあり。


「…なあ、」


気付いた頃には堪らず声を上げ、どこか不穏な感じを纏い出していた彼女の意識を無理矢理こっちへ引き寄せていた。

…こうでもしなければ、そのうち煙のようにふらっと消えてしまいそうな危うさがあり、それがどうしようもなく恐ろしくて。


「お前、この先何か困った事があったら遠慮しないで誰かに言えよ。それこそ、同門の冨岡やら、竃門やら…もし、現役の忙しい連中にじゃ気が引けるってんなら、俺でも、俺の嫁でもいい。人の迷惑なんざ考えんな……にっちもさっちもいかなくなった時は、誰でもいいから近くの奴に頼れ。」


とにかく、お前は一人きりってわけじゃねえ…そこんとこ忘れんな。
こんな具合に、些か乱暴な言葉で尻を結んだ時。

ふふ、と…窶れた顔を僅かばかりに綻ばせて。
彼女は己の口元を隠し、初めて控えめな笑みを溢した。


「ええ…そう、でしたね……私は、一人きりじゃない。」


いつまでもうじうじしていたら、父にも、弟にも…きっと笑われてしまいますものね。

弱々しい声で、柔く。
囁くように独りごちる彼女はやっぱり寂しそうな顔をしてはいたけれど、不穏な空気が少し和らいだのが見て取れて、とりあえず安堵する。


だが、良かったと思ったのも束の間…彼女は何か企むような笑みを浮かべ。


「では、お言葉に甘えまして…この先、何かあったら真っ先に宇髄殿を頼らせて頂きますね。」


もしもの時は、どうかよろしくお願い申し上げます。

悪戯っぽく言う癖、馬鹿丁寧に頭を下げてくるもので、一瞬の内に苦い物が胸の内を占めた。


「お前な───、」


こういう時は、と言いかけたものの…すんでのところで止めにした。
どこまでも妙に丁寧なのは、親譲りか。

元よりそういう性分であるのだし、別段本人の負担にもなっていないのなら余計な口出しは無用であろうと思い直す事にする。


「好き勝手言った手前だ、どんと来いとしか言いようがねえよ…何たって、俺達は同い年だろ。こっちこそ、今後も嫁共々よろしく頼むぜ。」


そう返せば、百瀬は笑顔で頷き。
何か言わんとして口を開くも、出て来る声は掠れていた上、酷く弱々しく…周囲のやかましさも相まって、半分も聞き取れない。


「あら、変ね…。」


弱々しい掠れ声で独りごちながら咳払いを繰り返すが、やはり上手くいかないらしく………終いには、困ったようにこちらを見上げて。


「───申し訳ありません、」


やっぱり…何でもありませんわ、と。
更に小さく頼りない声で謝ってくる。


日がな一日、ほとんど一人で。
それも、かなりの数の客人の相手をしていたようだったから、この辺りで喉の調子が悪くなるのも当たり前だろう。

先程からかなり声が掠れていたのもそういう訳かと踏み、無理をするなと伝えたが、彼女はそれきり浮かぬ顔で喉を押さえ、俯くばかりであった。


その拍子に『流行に乗って切ってみた』と言い逃れするには随分短く揃えられた彼女の黒髪がさらりと流れ。

白く柔そうな項へ薄茶けた痣がついているのを認め、はっと息を飲む。


元々、こんな物あったか。
いや…少なくとも、遊郭の任務中には付いていなかったはずだ。

人間の両の手の形を模したような薄らとした痣は、どうも張り付くように首をぐるりと一周しているらしく、まるで誰かに絞められた痕のようだと考えてしまったが最後、すぅと背筋が寒くなる。


「お前、首のそれ…どうした。」


思わず指摘してやると、中性的な容が妙に緩慢な動作で上目にこちらを見やり、目線が絡み合っていくばくもしないうち、内緒話をした後の子どものように人差し指を立て…紅を引いた口の端を僅かに引き上げ、物言わずにただ微笑む。

一見すると可憐な行動ではあったが、その裏に有無を言わさぬ圧を感じてすぐ頷くと、指はすぐに引っ込められ。
窶れた顔へ、どこかほっとしたような表情が浮かんだが。


「(こいつ、百瀬…だよな……?)」


今、一瞬。
微笑んで人差し指を立てたほんの一瞬だけ、見ず知らずの誰かと対峙していたような。
どうにも説明のつかない違和感を持っただなんて言えるはずもない。

任務後の疲れが抜けていないせいか、あるいは………。


そこまで考えはしたが、これ以上先を考えるのは憚られ。

とりあえず置いておく事として目線を逸らすと、いつの間にやら辺りは薄暗くなり始め。
虫の鳴き声と共に、縁側の方から涼しい風が吹き込んでいるのに気が付く。

それが、部屋中に重苦しく漂っていた桃の香りを攫って押し流し、かわりに物悲しい匂いに入れ替え、遠巻きに秋の訪れを告げているようであった。

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