桃と鬼 | ナノ
 12:剥離

「(……きれい、)」


夜闇へ煌めき、尾を引きながら一瞬のうちに流れていく星を呆然と眺めながら、そんな事を考えていた。

今思えば、生きたまま背中をこじ開けられ、様々な箇所を弄くられる痛みに怯えるあまり、必死に逃避をしていたのかもしれない。


夜闇の中へ溶け込んでいたのだろうか。

桃と契り、桃七と共に藤襲山を目指す道中。
突如として現れた洋装の男に手を掴まれたかと思えば地面へ転がされ…気付いた時には、足で確りと踏み付けにされていた。


逃れようと藻掻きながら見上げた男の肌は紙のように白く、癖のある黒髪の間から覗く目。
そのまた奥に見える瞳孔は、猫のように細い。

どういう経緯でここへ辿り着いたのかは分からないが…正しく、その場にいたのは鬼であった。


「顔の無い亡霊め、」


憎々しげな呟きを放られて幾らもしないうち。
節くれ立った指先へ生えた硬い爪で、食卓へ上げられる魚のように着物ごと背を裂かれた。

当然ながら、持ちうる言葉で言い表せぬ程の痛みに襲われたし、ぐちゃぐちゃ…と耳を塞ぎたくなるような生々しい音を引き連れ、尖った爪に自身の内側が弄られているのを感じ、不快感に悶えてもいた。


それがどれほど続いたのかは定かでない。

随分長かったのかもしれないし、存外短かったかもしれない。


しかし、その手が胎内をほじくり回すのを止めた時。
鬼はこちらの顔を覗き込んできた。

最初のうちは無表情で。
…しばらくすると、妙に整った顔が露骨に歪む。

言葉は無くとも、鬼灯のように赤い瞳はこちらの存在が忌々しくてたまらないと雄弁に語り、噛み締められた唇の隙間から舌打ちが降ってくる。


「まだ子どもとはいえ、これ程の深手を負っても尚死なぬとは。」


……何と奇異な、

そう吐き捨て、鬼は踏み付けたままだった背から一旦足を離し。

次の瞬間、とんっ…と。
鞠でも飛ばすかの如く軽快に。
けれど、まだ子どもだった自分にとっては十分に重い一撃を脇腹に貰い、地面を転がって───勢いを殺しきれず、崖から落ちた。


頭から落ちて地面に叩きつけられ。
体中が軋むように揺らいで、あちこちから血が滲み出していた。

夏の初めだというのに、妙に肌寒く。
頭のどこかで、自分はきっとこのまま、誰にも見つかる事無く一人きりで死ぬのだと、本気で思った。


浅くて早い呼吸を繰り返し、生暖かい自分の血潮に浸って。
噎せ返るような桃の香りを肺腑の奥へ吸い込み、泣きながら瞼を閉じ。

次に、目を開けたら……何ともなかった。


どんなに確かめようとも、体には傷一つないし、血が滴った形跡すらない。
痛みも無い、変な感じのする所だって無い。

正直、何が起こっているのか分からなかったし、状況が状況だっただけに冷静さを欠いていたので───ひとまず、自分の身の上には『何もなかった事』とした。


そうしているうち、落ちてきた崖の上から桃七の呼び声がしたので、慌てて岩場をよじ登ると。
其処には、先程の鬼に傷付けられたのか、息も絶え絶えの弟の姿があったのだった。


「…どうして、」


脳裏を塗り尽くす凄惨な光景を、目の前にある弟の亡骸に重ね合わせて眺めながら呆然とする。

弟の事だって、その死に関する一連の出来事だって…きっと、本当は忘れていたわけではない。


もし仮に、彼に連なる出来事を思い出せない、分からない物として無意識下に放り、そっとしておかなかったとしたなら。

私は今まで鬼狩りを続けてこられなかっただろうし、ただ生きてくのすらままならなかったろう。


だから今まで。
もうずっと、忘れた事にしていた。

そうしておかなければ、あんまりに辛すぎた。


「ごめん、ごめんね…桃七、」


あなたを忘れた事にして。
私だけ、大人になって。


「怒ってるよね…、」


鬼に負けて死んだ後。
黄泉へ行く間際になって、ようやっと思い出すだなんて。

何もかもが遅すぎた。
もう、全部が全部手遅れだ。


甘い桃の香りが肺腑の奥へ忍び込み、すっと鼻先へ抜けていく。

自分と同じ香りを纏う弟の亡骸へ手をのばしたが、やはりどうあっても触れる事は叶わず…項垂れながら、また口を開く。


「桃七、あのね。」


勿論、返事はない。


「……私ね、鬼に負けちゃったの。一生懸命戦ったけど…負けちゃって。きっと、もう死んじゃったからここに来れたの。儀式の時、桃の木へ…あなたと一緒に『鬼には負けない、勝ち続ける』って誓って、ずっとずっと頑張ってきたのに。」


その誓いも守れなかったし、私はもう死んでしまった後だから、あなたの仇の鬼を見つけ出して手を下す事も出来ない。


「私にはもう、出来る事が何も無くなってしまった……。」


最後の方の声は掠れて、上手く話せなかったように思う。


全てはもう起こってしまった後であり、どう足掻いたとしても無かった事には出来ない。

よく分かっているけど、自分だけが生き残り、彼が死んでしまったという結果だけでなく───それを永らく見えない所へ放って思い出せないように仕向け、あたかも忘れたかのように過ごし、都合が良いように書き換えていたという罪が物言わず目の前へ佇み、こちらを蔑むように見下ろしている気がして。

堪えきれず、強く目を閉じて耳を塞ぎ、弟の骸の前に蹲る。


この先、どうあっても罪を償いきれる見込みもなく。
たとえ身を引き摺りながら長い時間をかけて幽世を彷徨い、擦り切れ、いつか消え失せたとて…自分のしでかした事はなくならない。


精神が削れ、散り落ちるかのように。

考えが、気持ちが、かつて無いほど纏まらず。
ついには、きちんと物を考えられているのかすら分からなくなる。


こんなの、耐えきれない。
耐えきれる訳がない。

体がばらばらにされるのは平気でも、心が傷付くのはこんなに辛くて苦しいのだ。
それを改めて思い知ったのが、今の今だなんて───。


既に意味は無いと分かっていた。
分かってはいたけれど、自然と手が腰へ差したままの刀へ触れる。

起き上がって柄を握り、抜いて…星の無い夜空によく似た黒い刃を、迷い無く自分の首へと宛がう。


生身の体でないというのに、刀身の冷たさは骨の髄まで染み入るようで。

それを一度引き離し、幾らも間を取らず…また自身の首筋へ勢い良く刀を食い込ませる。

やはり痛みは無かったが、確かな手応えと共に、鬼の物よりか余程柔い肉を切り裂きながら、刀がゆっくりと首へ入っていく。


肩口をじっとりと濡らしているのは、切れた所から噴き出した血だろう。

…こんな事をしたとて、何にもなりはしない。
むしろ、無駄には違いないけれど。
それでも『しなければならない』という思いに突き動かされるまま、柄を握る手に力を込め、ぐいぐいと刀を押し進め。

途中でガチンと固い物に当たったのを認めると、わざと刀を引き抜いた。


普段なら刃へ血がついた時点ですぐ払い、鞘へ納めるところだが…今ばかりはそれをする気にもなれず、ただ隣へ抜き身で転がすに留める。


続いて、恐々患部へ触れてみると…流石に傷は塞がっていなかったが、当然のように痛みは無い。

しかし、本来ならば塞がっている前提の箇所へ無理矢理に穴を開けたのだから。そこから息が漏れ、異様なまでに苦しかった。


でも。


「(たりない……、)」


こんなものじゃ、まだ…全然足りない。


「(桃七は、これよりか。もっともっと…苦しくて辛くて痛くて悲しくて怖い思いをして死んでいったんだっ……!!!)」


ひゅ、ひゅ、と奇妙な音を立て。

上手く息を回せぬ故に意識が朦朧としてきた中、震えながら歯を食いしばる。


私には痛いのは分からないし、この先その感覚を取り戻せる日は二度とやってこないのかもしれない。

だからこそ、精神的な苦痛や息が止まる間際の苦しさという物だけは、彼が味わったのに近い感覚を体感しておかねばならない───。


何とも言えぬ虚脱感と、溺れ死ぬ間際のような苦しさに苛まれながらも、噎せ返るような濃い桃の香りに抱かれて。

必死に姿勢を正し、いつまでもいつまでも…まるで置物にでもなってしまったかのようにそこへ兀座し続けた。


***


「…………っ!?!?!?」


息も荒く飛び起き、自身の首を幾度か触って。

確かに切ったはずの…右の方の首筋がひやりとしたもので濡れているのに気が付き、大層驚いたものの。
幾度も触れているうち、それがただの汗だと分かった途端に力が抜け、へたり込んだ。


暗く広々とした部屋に、柔らかな布団。
床の間には、桃の木が描かれた掛け軸。
使い込んだ鏡台と、箪笥と、文机。

見慣れた物に囲まれている事に少し安堵はしたものの、ここ数年の間は殆ど帰っていない実家にいるのだと気が付いた途端、何とも言えない気分になる。


どういうわけか…真っ暗な自室の中央へ敷かれた布団から起き上がり、寝間着のまま息も荒く頭を抱えているわけだが。

自分で自分の首へ刃を入れた事や、もっと前の…自分の死を確信した出来事もはっきり覚えているだけに、今の状況はかえって空恐ろしいように感ぜられた。


ただの長い夢と片付けるのは簡単だが、それにしては内容があまりに物騒すぎる。

汗でしっとりと濡れた布団には自分の影が薄らと落ち、唯一の出入り口へ填められた障子から差し込んでくる月光は妙に仄白く、冷たさを伴って皮膚へ刺さるようだった。


見慣れているはずの弱々しい光を眺めているうち、汗を吸って重くなった寝間着をいつまでも身につけているせいか、いよいよ寒くなってきたので。

怠い体を引きずりながらようやっと布団から這い出し、替えの服がなかったかと茶箪笥の方へ向き直り、今正に立ち上がらんとした時。


別段、誰かの足音がしたとか、話し声がしたとか…そういった事があったわけではない。

けれど、一瞬のうち。
本当に瞬き一つ程の合間に、障子の外へ人の気配が立った。


流れに任せて振り向けば、これまで足音もしなかったというのに。
部屋を出てすぐの場所にある縁側へ、大きな影と小さな影が絶妙な間を開け、何をするでもなく座っているのが見えた。

…まさに、降って湧いたと言わんばかりの無茶苦茶な登場の仕方に驚いたものの、常識的に考えてこんな夜中に来客があるわけがない。
加えて、ここが自分の実家である以上、家族のうちの誰かが何か用事があって来ているのかもしれないと思い、恐々声をかけてみる。


「そこにいるのは誰?こんな夜更けに、何かあったの…?」


声をかけてから随分待っても返答はなく、二つの人影は微動だにしない。

痺れを切らして障子の方へ近付き、窪んだ箇所へ手をかけて開けようとしたが…何故だか、どんなに力を入れても障子が開かない。


妙な事もあるものだ、と障子を押したり引いたりしてみたが、やはりどうにもならなず。
かくなる上は…と、紙を指で突いて外の様子を覗き見ようと試みたが。

どういうわけか。
障子へ張られた紙はどれもこれも鉛の板のような触り心地であり、一つでも指を通せるような箇所はないと来たものだから、流石に焦り始める。


「ねえ、お願い…そっちからここを開けられるか試してみてくれない?こっちから出ようとしてるんだけど、少し障子がおかしくて…私だけじゃ、どうしても開けられないの……。」


先程よりか大きな声で。
障子を隔てた向こう側の二人に向かって声をかけるも───確実に聞こえているはずであるのに、返答が無いばかりか、あちらから障子へ触れるような動きすら無かった。


「開けて!!開けてちょうだい!!聞こえてるんでしょう!?お願い、知らないふりをしないで…!!」


力一杯障子を叩き、あらん限りの大声で呼びかけても、向こうは黙りだ。

それでも諦めきれず、手を変え品を変えで様々やってみたのだが、随分頑張ってみても一向に成果はなく。
あちらの二人も黙りのままであったので、愕然とする。


少々疲れてしまったのもあって、休憩しがてら障子の前へ座り、息を整えていると。
…小さな影が大きな影の方へ向き直ったのを見かけたので、すかさず聞き耳を立てた。


「父様は、あれで良かったの?」

「良かったも何も……あんな幕引きだ、勿論不服な所は随分ある。向こうの出方が幸いして大敗とならなかっただけで…全体としては、どう贔屓目に見ても辛勝になるな。」

「…でも、父様も母様も、姉さんを守るために最後まで逃げなかった。そこだけは胸を張っても良いんじゃない?」

「言ってくれるな。大体、お前というやつは───。いや…止めておこう、」


今更何を言ったところで結果は変わらん…耀哉に文句を言われそうだが、そこはどうにか呑み込んで貰うしかあるまい。

それきり声は途切れ、二つの影は幾分か気まずそうに別々の方を向いた。


いつの間にやら息を殺し、障子へ耳を押し当てて会話に聞き入ってはいたが。

声の感じからして、大きい方の影は久しく会っていない自分の実父。
小さい方の影は、双子の弟…桃七で間違い無い。


当然ながら父はまだ存命であるのに対し、桃七は十年も前に亡くなっており。
現時点で父は生者で、弟が死者という事で間違いが無いはずだが。

……果たして、死者と生者が隣り合い、言葉を交わす事なぞ出来るのであろうか。


薄ら寒い物を感じながらも、障子の向こうへ居るのは紛れもない両者であるのだろうから。


「父様、桃七…そこに、いるの?」


一応声をかけるも、相変わらず返答は無い。

こんなに近くにいるのに、そこに無い物として扱われているかのような。
言い知れぬ不気味さに背を押され、たまらず障子の扉へ指をかけた瞬間…また外から声がした。


「これまでの一生の中で、私に出来る事は全てやってきたし、なるべく跡を濁さぬようにはしてきたが…唯一の心残りは百瀬だ。養子に入った東家のみならず、実家も。頼れる親族すら失ってしまったあの子は…百瀬は、これから一人きりで、如何して生きていくだろう。」

「……そうだね。父様も母様もこっちに来てしまったから…姉さんは、本当に一人になってしまったんだもんね。家族のうち、誰か。本当に、誰でもいいんだけど。姉さんと一緒に居てあげられる人が居たら良かったのに…。」

「タラレバだな。今回は分が悪すぎたばかりか、運にすら恵まれなかった。方々へ私の事が伝われば、百瀬はすぐ当主として立てられる事になるだろう。それも、耀哉が渇望していた仁科家の女当主として、だ───どんなに強く願おうと、避けられぬ事や上手くいかぬ事があるのだと。」


たった今、思い出したよ。

父の声は随分小さく、震えていたように思う。


いつも気丈で厳しい雰囲気を纏っている父のただならぬ様子と、あまりに不穏すぎる会話。

ずっと抱えていた不安がついに弾け…気付けば、狂ったように開かぬ障子を叩き、驚く程大きな声で叫んでいた。


「父様、桃七!!!わたし、私…ここに居るの!!すぐ、近くに、傍に居る!!!だから、ここを開けて…お願い、お願いだから……!!」


喉を枯らすように声を張り上げ、どうか気が付いて貰えますように、どうか私がここにいる事を受け入れて貰えますように、と。

柄にもなく祈り、願って声を上げ続けたが……二つの影は何を話すでもなく、此方へ何か答えを返すでもない。

ただただ、絶妙な間を開けて座っているだけ。


そのうち、障子越しに見えていた影が伸び。
立ち上がったかと思えば、足音を引き連れて。

二人とも別々の方向へ歩き去って行くのが見え、俄に焦った。


「───待って!!父様も、桃七も……お願い、お願いお願い…わたしを、おいてかないで……っ!!!!」


一人は嫌…ひとりは、怖い………!!!

最後は、殆ど泣き叫んでいたと思う。
それでも、父も桃七も戻ってきてくれる事は無い。


残ったのは、開かない障子に身を寄せ、一人どうしようもなく泣き続ける自分と、傷がついて血だらけの両手。

そして、


「(…………かたな、)」


涙で滲む視界へ、いつも使っている黒刃の日輪刀が映り込み、はっとする。

さっきまでは、何も無かった畳の上。
自身の膝頭の前へ突如として抜き身のまま現れたそれには、血がべっとりと着いたままになっている。


先程血を払わぬまま捨て置いてしまったからだな、とぼんやり思い───その最中に、ガッ…と。

背後から何か固い物が落ちたような音がした。


気怠げにそちらを眺め、決して開かぬ障子越し。
まだ見ぬ向こう側の月が寄越す青白い光に満たされた自屋へ視線を彷徨わせると。

床の間の、掛け軸の下。
そこへ、桃の実が一つ転がっているのを見つけ、息を飲む。


思えば、自分は常人よりかよっぽど桃を食べて育ってきた部類であったのだろう。
幼い頃は大好きで、甘く柔らかな果実を口いっぱいに頬張っていた覚えがある。

少し大きくなってからは、祝い事の度に貰っては食べ、もう少し大人になれば、儀式の度に必要な分だけ平らげた。


桃との契りを済ませてからは、まともに食べ物の味を感ぜられなくなった舌で僅かな甘みを感じたいがために食べ漁り…近頃は何だか苦手になってしまって敬遠していたが。

こうして久々に現物を見てみると、好き嫌いよりも懐かしさが勝るもので。


結局、刀は持ち上げずに床の間の方へ寄り、桃の実を手に取る。

あたかも、掛け軸の中に描かれた桃の木からもぎ取ったばかりというような実の固さに顔を顰めたが、香りはとても良く、小さな実であるというのに、持っていると不思議に安心できる重さがあって。

そのお陰か、いつの間にやら涙は止まって、心も幾分か落ち着いたような感じがした。


ただ。
持ってみたはいいものの、この後はどうしよう、と困り始めたその時。

今度は、鏡台の方から何か話し声が聞こえるのに気が付き、自然とそちらへ足が向く。


果たして。
桃を片手に、鏡台の前へ座ると…切れ切れにではあるが、やはり声がして。

思い切って僅かに布を上げると、よく磨かれた鏡面に自分の姿ではなく。
何がどうなっているのかは分からなかったが、瓦礫の散らばる地面に座り込む炭治郎と、自身が討伐しようとしていた鬼…妓夫太郎が向かい合い、睨み合っている様子が映し出されていた。


「炭治郎君…良かった、生きていたんだ……!」


まず先に安堵が出たが。
彼の怪我の具合といい、周囲の様子といい…戦況が芳しくないのは何となく分かる。

炭治郎以外の二人は。
宇髄や、その妻達は無事なんだろうか。
次々に湧き出てくる疑問と同時に、早く戻らなければ、と思い始めた頃。


「そういえば私…。」


死んだんじゃなかったかしら。

口にするより早く、鏡は真っ暗になり。
炭治郎達の姿が掻き消えたのと同時に、今度は瓦礫の山の上へ寝転がる女体を映し始めたのを見て、一旦布を元のように戻す。

そうして、息を整え。
覚悟を決めてから勢い良く布を取り払い、鏡を覗き込んで。


───件のそれを見て、思わず拍子抜けしてしまった。

鏡面へ映っているのは、紛れもなく自分自身の体であるには違いないが。


上の服や羽織が大きく破れ…本来ならば見えてはいけない箇所が丸出しになっているのを除けば、首や手足が変な方向へ折れ曲がっているなんて事も無いし、あんなに沢山付けられたはずの傷も全て塞がっていて。

想像していたのよりか、幾分か綺麗なままそこへ横たわっている。


胸も規則正しく上下し、息をしているのが分かり。
死んだものとばかり思っていたけど、体はちゃんと生きていたのだと思うと、少しだけ嬉しくなった。

鏡台へ両手を着き、鏡面の方へ身を乗り出すようにした時。
手の内にあった若い桃が離れ、ゴト、と無愛想な音を立てて鏡面の方へ行ってしまった。

…ただ、桃は跳ね返ってくる事無く鏡をすり抜け、向こう側で寝息を立てる体の方まで転がっていく。


面妖な事この上ないが、このまま鏡の中へ入れば向こうへ出られる、というわけなのか。
誰に教えられるでもなく分かって、更に鏡面へ体を近付けるが。

何とはなしに振り返ると、大きな影が障子の前に立ち、こちらを覗っているようなのが目に留まり、ほんの少しだけ戻るのを躊躇してしまう。


「………父様、」


影に向かって声をかけたが、返事もなければ反応も無い。

せめて、一言二言でも言葉を交わせたら。
そうは思ったが、これまでの事を振り返り…どんなに声をかけたとしても反応がないのなら、虚しくなるだけだと自分に言い聞かせ。

影から視線を逸らし、再度鏡に向き直る。


自分はこれまで、鬼殺の剣士を生業とする家に生まれたからという理由でしか刀を振るってこず、鬼を恨めしく思う事も無かったわけだったが。

───今なら。
桃七の事を思い出せた今なら、夜闇にのさばる鬼を一匹残らず陽の下へ引き摺り出し、滅し尽くさんと心から願う隊士達の気持が、ほんの少しは分かるような気がした。


「(記憶の中で見た鬼の目には、何の数字も入ってはいなかった…。)」


もしかすると、あまり強い鬼ではなかったのかもしれないが…まだ長らえているのなら、探し出し、この手で首を取りたいと、そう思える。

加えて、あれは鬼の中では珍しく…きちんと人間の姿を保っていたような物好きな輩であったのだから。
聞けば、案外すぐに根城が分かるかもしれない。


「(私の命が尽きぬ限り、きっと…。)」


例え、どんな手を使ってでも…必ず、あの鬼の首を刈り取ってみせる。

強く、ただ強くそう心に決め。
今度は振り返らずに鏡面の中へ身を躍らせた。

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