桃と鬼 | ナノ
 11:回顧

───今までよりか、一等濃く甘い桃の香りがする。

一度、二度と瞳を瞬きながら、そんな事を思う。
頭から落ちたというのに、自分はまだしぶとく生きていた。


普通ならあまりの痛みに悶え苦しむか、意識を飛ばしてそれきりなのだろうが…この体では、そんな死に方すら許されぬらしい。

いつ掻き消えるとも分からぬ僅かな命を無意味に燃やし、浅く苦しい呼吸を繰り返しながら、暗幕の張られた空を眺めて。


「(…ほし……星、は…。)」


人は死んだら黄泉へ行くと言うけれど。
流れて潰えた星は、一体どこに行くんだろう。

霞み始めた視界の中、何とも場違いに考えつつ、目を閉じようとした際。

不意に、チリチリ…と、頭の芯が痺れるような不可思議な感覚に苛まれた。


血溜まりと、噎せ返るように濃い桃の香り。
流れ星に、夜空に、苦しそうな浅い呼吸───いつだったか、私はこれと似たような物を目にした事がある。

ああ、でも。
それはどれくらい前の事だったか…。


詳しく思い起こそうとすればする程変に息が上がるような気がして。
一度目蓋を閉じ、どうにか呼吸を整えようと試みるも、なかなか上手くいかない。

幾度も繰り返しているうち、手足がじんわりと痺れるような感じがしたのと同時に、いよいよ意識が朦朧としてきたので…今度は息を止めようと試みるも、やはり上手くいってはくれなかった。


は、は、は、は…と。
酷く浅く。それでいて早い呼吸を繰り返し、苦しさを感じた刹那。

目を開けている感じはあるのに、何故だか視界が狭まっていき。
それきり真っ暗な部屋へ閉じ込められたようになり、じきに何の音も聞こえなくなった。


***


闇夜を裂くように、星が流れるのを見た。
鮮烈で美しくはあるけれど、一瞬で消え去る姿にはどこか尾を引くような儚さがある。


「…やあ、流れ星だ。」


前を行く、自分とよく似た顔の少年もそれを見ていたのか、無邪気な声を上げて。


「そういえば、西洋の方では…流れ星が見えると、星が流れ落ちてしまわぬうちに三回願い事を唱えるんだって。」


柔らかな笑みを崩さぬまま。
願い事は出来た?と問うてくる彼は、どこか楽しそうだ。

その様を眺めて、こちらまで楽しくなって。


「ううん…あんまり速くって、出来なかったの。でも、次星が流れていくのを見たらすぐお願いをするわね。」

「なら、常に上を向いて歩かなきゃね…俺は姉さんが転ばないように確り足下を見て、手を引いていてあげる。」

「それじゃ駄目よ。あなたのお願い事が叶わないじゃない、」

「……俺は今さっき済ませてしまったから平気だよ。さ、ここからは下り坂で危ないから、きちんと手を繋いで降りよう。」


差し出された手に自分の手を伸ばせば、確りと握ってくれる。

いつもの事なのに、幾つになっても些細な触れ合いが嬉しくて。
笑い声を押し殺そうとした途端、また空を横切る物が視界の端に映る。


「……見て、桃七!また流れ星が、」



────妙に大きな自分の声で驚き、目が醒めた。

辺りは随分と薄暗く、何の気なしに見上げた空には、えらくぼんやりとした輝きを湛えた星が眠そうに光っている。


そのままゆっくり視線を下げれば、大きな木々がひしめき合うようにして立ち並んでいた。
森の匂いが鼻先を擽り、控えめな虫の声が耳に届いた時。

ここは森の中なのか、とようやく合点がいく。


まだ夜に沈んだ森の中。
どういうわけか、自分はどこかの山の入口らしき苔むした石段へ一人腰掛け、刀を抱いて眠っていたらしかった。


「(流れ星…か、)」


夢の中の自分が嬉々として話していた内容が、まだ寝惚けたままの頭へ何とはなしに浮かぶ。

ただの夢とするには、あまりにはっきりとしすぎていた感じもあるが、あの少年には見覚えがあった。


うたた寝が出来た時に必ずと言って良いほど出て来て、一緒に遊んたり、話をしたりしていたものの…名前だけはどうしても思い出せずにおり、ここ最近は寝ても覚めても永らく気になってはいたのだが。


「とうしち、」


夢の中の自分は、彼を確かに『桃七』と呼んでいた。

それが彼の名であるのだという確信を持ちながら、幾度も口の中で呟く程…懐かしく、切ないような気持ちがせり上がってきて。


ざわつく心根をどうにか宥めようと、自分で自分を強く抱き締めながら深い呼吸を繰り返し。

ようやっと気分が平らになってきたところで、徐に自身の手の平を眺め…はっとした。


「血が出ていない…?」


何故にそんな事を思ってしまったのかは謎だが。

念のため体を触ってみるも、傷は一つも無く。
さも当然とでもいうかのように、身に纏った隊服や羽織には破れも解れもない。


討伐の直後というわけでもない癖、唐突に怪我の心配をするなんて…おかしな事もあったものだ。

そもそも、怪我をしたとて後に響く事も無く、痛みを感じる事だって無いのに。


「(ああ…何だか頭がぼんやりする、)」


こうなる前は、一体何をしていたのだったか。
今日はどこからここへ来て、何をするつもりであったのか。

どう頑張ろうとも、これより前の事が思い出せずにいたが、こういう時に頼るべきは鎹鴉だ。

鴉の…いや、ミゾレの事であるから、呼んで事情を話せば、自分が成すべき事を迅速かつ丁寧に教えてくれるだろう。


そうと決まれば、もう少し拓けた所へ出て鴉笛を吹こうと思い至り、立ち上がろうとした時。

とん、とん…と。
上の方から誰かが降りてくるような足音が響いてきて、飛び上がらんばかりに驚いたのは言うまでも無い。


染み付いた癖で腰の刀に手を伸ばし、いつでも抜けるように柄を握って暫し。

苔むした石段の先に見えたのは、鬼ではなく。
どう見ても普通の子どもで…訝しみながらも、とりあえず刀を握るのを止める。


こんな時分に、子どもが何故こんな所にいるのだろう。
あの子どもの父母は、一体何をしているのだろう。

…疑問は尽きなかったものの、一度会ってしまったからには『任務に関係が無さそうだから、』と見なかった事に出来る程冷たい性分でもなく。

とりあえずはあの子どもを保護しがてら話を聞いてみる事とし、そちらへ向かって足を進めた。


***


森の中をどれだけ歩いたか。
定かでないが、空は少しずつ白み始めている。

不思議と疲労感は無く、空腹や喉の渇きも無い。


…このままなら、どこまでも。
それこそ、地平の果てまでも歩いて行けそうな。

ぼんやりと考えながら、子どもと付かず離れずの距離を保って歩いているうち。
いつの間にやら、藤の花が咲き乱れる山中へ差し掛かっていた。


自分の少し前には、薄浅葱色の着物と灰色の袴を纏った少女が、憔悴しきった表情でとぼとぼと歩いている。

それから、彼女の背には明らかに女物と思しき着物を着た同じ年頃の少年が背負われており。
彼は全身に負った傷から血潮を溢しながら、青白い顔で藤の花を眺め上げていた。


彼女らが石段から降りてくるのを見かけた際はよっぽど驚いたのだが。
傍へ寄っていって何があったのか問うても、怪我の手当てを申し出ても、彼女達は何も答えない。

…いや。
答えない、というよりかは、まるでこちらの声が聞こえておらず、今の今まで姿形すらそこに無いものであるかのように振る舞われている。


尚、これは痺れを切らして彼女達に触れようと手を伸ばした際に気が付いたのだが…どういうわけか、自分から彼女達に触れようと働きかけたところで、何処にも触れる事が出来なかったのだ。

何度も試し、試した数だけ彼女達の体をすり抜ける自身の腕を目にし、呆然として。

直後、迫ってきた不安に背を押されるようにして、近くにある木や藪、花等にも手当たり次第に触れようとしたものの、同じ事であった。


悪足掻きで『あちら側から向かってくるならどうか』と思いつき、彼女達の進路に立ち塞がってはみたものの───結果として、彼女達はやはりこちらの存在に気付いた様子もなく。

何とも面妖な事に、この体をすり抜けて歩いて行ってみせたのだ。


もし誰かからこんな話をされようものなら、眉唾だと笑って信じないだろうけど。

事実として、ぶつかったような感じは全くなく。
次いで件の二人が自分の体を真正面から難なく通り抜けていくのをこの目で見ているのだから…この奇妙極まりない出来事を受け入れざるをえなかった。


「(今確かに同じ場所にはあれど…私達は互いに干渉が出来ない状況にあり、片方はもう一方の存在を認識出来ないようになっている。)」


裏へどういう絡繰りがあるのかは分からないが…世の中には到底人の理解が及ばない事も数多く存在しているという話も聞くから、これもその類であるのだろう。


「(それに…今、私の前に居るのは。)」


どう見ても、子どもの頃の自分と桃七であるのだから。

…随分長く後ろを歩き、自分の姿を眺め続ける中で、少しずつ思い出して来た事がある。


自分には三人の弟達の他に双子の弟がおり、生家の父母の元で彼と一緒に大きくなった。


十四の春。
初潮を迎えた頃、生家のしきたりに倣い、その年の夏に桃と契る儀式をする事となり。
日が落ちてから桃七と二人で本家跡地のある山へ登って、その隣へ植えられている桃の古木へお参りをしたのだ。

ただ、儀式といってもそう堅苦しい物では無く。
桃の古木へ、鬼狩りの剣士になるための誓いを立てた後。帰りに互いの服を交換して身に付け、自分達の力だけで下山して…近くにある藤襲山の麓で待つ父母と合流すればそれで終わりというだけの、ごくごく簡単な物であった。


ここ百年のうち、儀式中に死んだ子どもはいないと事前に聞かされていたし、本家跡地には何度も行った事があり、山を登り降りすると言っても上から下まではほぼ真っ直ぐでなだらかな一本道であったから迷いようもない。

誰もが、儀式が無事終わると信じて疑わなかった。


事実として、桃の古木にお参りをし、これまたしきたりに倣って互いの衣服を交換して身に付け。

さて、朝餉は何かと、たわいもない話をしながら二人で下山している途中までは、拍子抜けするくらい何も無く、これから何かが起こるとは微塵も思っていなかった矢先───それは、何の前触れもなく自分達の身の上へ降り掛かってきたのだ。


山の中腹へと差し掛かった時だったか。
星を見ながら歩いていた途中、たった一度瞬きをしたきり、辺りの風景ががらりと変わって大変驚いたのと共に、彼の姿が見えない事に気が付き。

慌てて辺りを見渡したものの、彼は何処にもおらず…酷く慌てている最中に、崖の上から助けを求めるか細い声が聞こえたので。


大急ぎでどうにか崖を登りきった途端、辺りへ漂う濃い桃の香りに当てられてくらりとした。

香りの源は勿論彼である。
桃七は自身の体から流れ出た血が作る池の中に沈み、浅く。かつ、酷く早い呼吸を繰り返し……とても苦しそうにして。

ここから自分がどんなに頑張って処置をしたとしても彼を楽にしてあげる事は出来ないと悟った瞬間。


気を付けながら彼を背負い、後ろ手にその帯を解いて自分と彼の体をしっかり括ってから、藤襲山の麓で待っているであろう父母の元を目指してひたすらに足を動かした。

暗い森の中を歩いたり走ったりし。
時折、彼に声をかけて返事が返ってくるのを確認しながら、長いこと森の中を彷徨った末。
ようやく藤襲山へついたはいいけれど、入口側へ回らなければ父様達には会えなくて。


「(あぁ…。)」


ここまで思い起こすだけでも、冷や汗が噴き出て呼吸が乱れ、震えが足から上がってくる。


───これが、自身が無意識のうちに封じ込め、思い出せない事としていた物の正体なのか。

その重みに潰されそうになりながらも、決して触れる事の叶わぬ自分の背を眺めながら歩く道すがら、不意に少女だった頃の自分が背中の彼へ声をかける。


「もう少し……もう少しだから…、」


幾度となく同じ言葉を繰り返し、彼の生暖かい血潮が背中へ染みていくのを感じながら足を速める一方、背中の彼は困った顔をして精一杯の言葉を絞り出す。


「…姉さん、お願いだ。俺の事は、もう置いていって…」

「喋っては駄目!!…お願い、もう少しなの…ほんとに、あと少しで、父様達の所に着くから……、」

「いくら父さん達でも、これじゃもうどうにもならないって言うよ…元より、俺達はどちらか片方が二十五になる前に必ず死ぬように生まれついているんだから。それがほんの少し、早まったってだけなんだ。」


何でもないように言って、ほんの少しだけ笑った彼の額には、脂汗が浮いていて。
相当傷が痛むはずなのに、こちらを心配させまいとしてか、まだ話を続けようとするその様を見て涙が込み上げる。

彼に残された時間が少ないのは、誰に教えられるでもなく明らかだった。


「今回は、死ぬのが俺だったっていうだけ。ただ、それだけの事だから。俺の事はもう忘れて…もう一生、思い出してくれなくたって構わないから。ただ、父さんとの約束が、きちんと守れてるのかどうか……それだけ、気になるかな、」


守れてなかったら、やっぱり…叱られちゃう、かなぁ……。

とびきり小さく言って、彼はそれきり口を噤む。


父と彼が何を約束していたのかは分からない。
分からないけれど、叱られるのを気にしているなら、と。

少女の自分が、必死で言葉を紡ぐ。


「…大丈夫。もし、守れてなかったとしたら…私が一緒に謝ってあげる。許して貰えるまで、ずっと一緒に謝るし、もし叱られるのなら、いつまでだって一緒に叱られるから…だからっ…一緒に、帰ろうよ…私達の家に。父様と母様の所に、一緒に帰ろうよ───ねえ、桃七…。」


とうしち、と。
再びその唇が呟いた時。

藤の花が咲き乱れる先…山中へ続く石段が見え。
次いでその近くに立っている着物の男女の姿を認めた途端、少女の自分は一目散にそちらへ走る。


散々動き回ったというのにも関わらず、何処にそんな力が残っていたのかと思うくらいには速かった。

慌ててその背を目指して走るも容易には追いつけず、ややあって。


少女の自分同様、父母の近くへ辿り着いた時。

地面の上へ降ろされた桃七は、母の手で顔に白いハンカチをかけられており。
自分はというと、目線の高さへしゃがんだ父に肩を掴まれ、諭されるようにゆっくりと声をかけられている最中だった。


「百瀬、よく聞きなさい…桃七はもう息がない。この怪我では、恐らく…お前の背に乗せられてすぐ事切れていたはずだ。」

「…そんなはずない!!ここに来るまで、私、たまに桃七と話をしていたもの…ついさっきまでだって、桃七は私が話しかけたら答えてくれて……父様との約束が守れなくなってしまうから、叱られちゃうかも、って、言って…」


一息に言ってしまおうと必死に口を動かしている途中、堪り兼ねたような表情をした父にぎゅっと抱き締められる。

桃の香りが近くなったのと同時に、父の肩口へ顔を埋めるような格好になり。
息苦しさにやや藻掻くも、抜け出す事は叶わない。

しばらくそうしていると、頭の芯がすっと冷えていくような感じに苛まれて。


「桃七は……死んじゃったの?」

「……………。」

「私の、せいで…私がもっと急がなかったから桃七が、」

「───違う。お前のせいではない。桃七の怪我は、元より致命的な物で…例え息があったとしても、助かる見込みはなかったろう。」


父の言う事は至極正しかった。
けれど、今は。

この時ばかりはそれを受け入れられず、少女の自分は吼えるように言葉を投げつける。


「…そんな事、言わないでっ!!私は、桃七が生きていてくれさえすれば…これからも、私と一緒にいてくれれば…ただそれだけで、他は何もいらなかったのにっ……ただ、それだけでっ…十分だったのにっ……!!」

「百瀬…、」

「何で…なんでっ…!!なんで桃七が…何にも悪い事なんかしてない桃七が死ななきゃいけないの……!!」

「……………。」

「…分からないよっ…私だけじゃ…一人だけだと、上手く考えられないっ……だから、戻ってきて。前みたいに、私に教えてよ……どうすればいいのか、一緒に…考えてよ……桃七っ、とうし…ち………っ、あ…っ、う、あぁあぁあぁぁっ……!!!!」


そこで初めて涙が溢れ、空きっぱなしの口からは嗚咽が漏れ出て。


「(そう───そうだった、)」


父母の言葉も聞き入れず…息が出来なくなるくらい激しく泣き続ける自身の姿を遠巻きに眺め。

どうにもいたたまれなくなって静かに視線を下げる。


悲しくはあったが、涙は出ない。
けれど、永らく忘れてしまっていた弟の亡骸をきちんと目にし、今一度弔いたいという気持ちから、彼の方へ足を進める。

両親の傍を通り抜ける時…少しばかりの期待を持ってその体へ触れようとするも、やはり叶わず。
伸ばした掌は、するりと父母の肩を通り抜けるばかりであった。


自分の記憶の中にある出来事をなぞり、ただ追いかけて傍観しているだけに過ぎないのならばそれも当然か。

少しの干渉も許されぬ寂しさに苛まれながらもまた足を進めると、容易に桃七の元へ辿り着いたので…傍にしゃがみ、その体をじっくりと眺めてみる。


元の色が分からぬ程に血を吸った着物。
擦り傷だらけの腕と、無理な力をかけて折り砕かれたのか、明らかに妙な方向へ捻じ曲がった片足。

…あまりの生々しさに、このまま直視するべきか否か一瞬躊躇ったが。

大好きで大切だった弟が亡くなった時の姿を二度と忘れぬよう、記憶に焼き付けるべきだという思いもあり、逸らしかけた目線をどうにかそちらへ向けた。


そのうち、血でぐっしょりと濡れた源…心臓の辺りへ、何かを突き刺されたような傷があるのを認め、息を飲む。

件の傷ははっとする程深く、その穴から向こう側が拝めると知れた途端、眉間に皺が寄った。


「(まるで、誰かに心臓だけを狙って突かれたような。)」


嫌な考えが脳裏を過ったのを皮切りに、自分の目は亡骸に残る違和感を次々と拾い上げていく。

着物の合わせに挟まって折れたと思しき、あまりに鋭く硬そうな爪の欠片。
冷たくなった指先に絡まった癖のある黒い頭髪。

見れば見るほど。
狼や猪といった類に襲われたわけではなく、他でもない……鬼に襲われたと思しき形跡が色濃く残る亡骸を眺め下ろし、呆然とした。


加えて『食う』ためではなく、明確に『殺す』事だけを目的としていたような傷の付き方が何か異質に感ぜられて、冷や汗が噴き出す。

どれだけ記憶を辿ろうとも、鬼の気配を感じた瞬間は無く、桃七の姿が見えなくなった時ですら────いや、待て。


隙あらば流れていこうとする思考をせき止めつつ、擦り切れるのではないかと思う程頭の中を繰り返し流れる記憶に触れ。

幾度もなぞり、なぞるうち…はっとした。


「わた、し…わたしは、」


さっきまで、遊郭で鬼と戦っていて。
後ろを取られた挙げ句、体の中をぐちゃぐちゃに弄くり回され…しまいには屋根の上から蹴飛ばされ、頭から地面に落ちた、


「…あ、」


自然と息が浅くなり、手も足も震え…ついにはまともに立っていられなくなり、地面に片膝をつく。


違う。
鬼に体内を滅茶苦茶につつき回されて、高いところから蹴落とされたのは、これが初めてじゃない。

私は、以前。
確かに同じ目にあった事がある。

恐ろしくてたまらぬ物と相対した時の幼子のように震えながら、自然と出て来た涙を拭う事もせず、ただ自分で自分を抱き締めるように胸の前で腕を組む。


これ以上は、思い出してはいけない。
一度思い起こしてしまえば…きっとただでは済まない。

自身の勘がそう告げているが、勢い任せに出て来てしまった物を今更大慌てでしまおうとしても無駄である事もよく分かっていて。


だから、あえて抗わず。
今にも焼き切れてしまいそうな熱を持ち、脳の裏から起き出した苦々しい記憶の叫びに耳を澄ませた。

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