▼ 09:侵蝕
小さい頃母親が歌ってくれた子守歌を口にし、禰豆子がどうにか眠ってくれたのを見届けてすぐ。
先程自身が対峙していたと思しき鬼女の金切り声を筆頭に、刀同士の触れあう硬質な音が飛んでくる。
何とも言えぬ不穏さが漂う中、宇髄と百瀬の居る建物の壁を突き破り、ぎらつく何かが夜闇の中を勢い良く飛びすさっていくのを目にして、眉間に皺が寄っていく。
月灯りの元。
ようやっと見えた妙にぎらつくそれは、二対の鎌のように見えた。
「(どういう事だ…!?)」
弧を描き、回転しながら室内へ戻っていくそれを唖然としながら見送り、背筋が寒くなったのは言うまでも無い。
「(さっきまで俺が戦っていたのは、肉色の帯を駆使して戦う鬼だったはず、)」
しかし、偶然目撃した件のあれは明らかに初見の武器で…こうなってくると、もしかしなくとも新手の鬼が出て来たと考える方が妥当だ。
次いで。
夜風に乗り、自身の鼻先へ流れてきた匂いに違和感を覚える。
これは…。
「(宇髄さんの血の匂いと、百瀬さんの香り…?)」
甘く、瑞々しい桃の香り───それが、いつものようにふわりと香る程度ではなく、宇髄の血の匂いや花街の夜の匂いを掻き消すかのように。
それこそ『この区域全体を覆っている』と言っても過言でないくらい強く香っているのだ。
どうしてこうなっているのか、おおよそ見当も付かないが。
間髪を入れず、また響いてきた鍔迫り合いを思わせる音の隙間を掻い潜って。
「水の呼吸、激流。壱の型___誘い水。」
聞き慣れぬ型の名を乗せた百瀬の声が一階の壁越しに聞こえたのと同事に、チン…と。
刀を鞘へしまったような音がし、はっとする。
「(…そういえば、百瀬さんは冨岡さんと同じ水の呼吸を使う剣士であるとは聞いていたけど。)」
彼女は元々、水の呼吸の一門内でも珍しい流派の出身であり。
『激流』と名の付く型を会得している希有な類の剣士であるらしい。
そんな彼女と、これまで一緒に任務をする機会には恵まれてきた方だと思うが、背中合わせで戦うような事も無く…この日まで件の剣技を目にする機会も無かったわけで。
こんな時ではあるものの、区分的には自身の姉弟子に当たる人の使う、珍しい型の呼吸や戦い方を見る事で、ヒノカミ神楽に通ずる道が拓けるような気もして。
壁に開いた僅かな穴から恐々中の様子を覗えば。
鎌を持った男の鬼と激しく斬り合う宇髄の姿と、帯鬼と対峙したまま刀を収めて一歩も動かぬ百瀬の姿が目に入る。
「ハッ…馬鹿ねぇ!!戦ってる途中で急に刀を収めるなんてどうしたのよ?それとも、もう死にたくなったのかしら!?」
帯鬼はどこか嘲るような調子で声をかけ続けていたが、対する彼女は何も言わず、じっと帯鬼を見据えているだけだ。
そのうち、痺れを切らしたのか。
「……黙ってんじゃないわよクソ女!!もういい…そっちがその気なら、こっちから行ってやるんだから───生きたまま腸を抉り出すのも良いし、化粧無しじゃ女か男か分からないその顔の肉を削ぎ取って。元の形が分からないくらい顔面をズタズタに弄くってやるのも良い。ああ、でも…さっきのお礼はまだだったわねぇ…?」
一方的な会話を唐突に切り上げ、帯鬼はどこか値踏みするように百瀬をじろりと眺めて。
「その肌。滑らかさといい張りの加減といい、頭に来るくらい抜群に良いけど、肉が臭いから食べるのは無理ね───決めた、やっぱりアンタは八つ裂きよ…!!」
宣言通りに彼女の体を引き裂かんとして。
鬼は数多の帯を伸ばし、高らかに笑う。
…そこで始めて、百瀬に動きがあった。
彼女が俯き加減に短く息を吐き、やや腰を落とした瞬間。
ザァ…という音と共に、周囲へ水が激しく渦巻いて。
「迎撃。玖ノ型___潮騒、」
酷く冷静な声音に乗って技の名が飛び出した途端、瞬く間に周囲は潮騒の音と押し寄せる紺色の水流に満たされる。
それに驚いたのか。
咄嗟に帯を飛ばす範囲を狭め、今度は自身の盾とするように帯を前へ広げたが…その動きすら読み通りとでも言うかのように。
瞬時に抜刀した彼女は帯を容易く斬りふせ。
合間をくぐり抜けつつ鬼の懐へ飛び入り、ごく近くで刀を振り抜く。
そこまでは目視できた。
このまま鳴り止まぬのではないかと思えるような潮騒の合間、チン、と。
彼女が再び納刀したのを皮切りにし、すぅと引いていった音と水流の合間から…切れ切れになって蠢く肉色の帯と、畳へ落ちた鬼女の両腕が見えた。
「(今の隙に五回…いや、六回斬った……!?)」
詳しい所こそよく見えなかったが、切断された範囲からして、今し方予測した程の攻撃はこなしているに違いない。
…このままいけば、先に帯鬼だけでも討伐できるのでは。
何より、自分があれ程苦戦した相手に余裕のある戦い方をする彼女の姿を見て、少なからず希望を持ったのも確かで。
「(そうだ、俺も加勢に…。)」
隙間から目線を外し、箱はどこへ行ったろうかと考えて踏み出そうとした時。
「俺様がご到着じゃぁっ…!ありがたがって頼りにしやがれ!!!」
聞き覚えのある声が耳に刺さり。
振り向いた先から、伊之助と女装をしたままの善逸がこちらへ走ってくるのが見えた。
「伊之助!!善逸…は、寝てるのか…?」
同期二人が生きていた事に安堵し、本当に良かった、と涙ぐみそうになったのも束の間。
今度は、周囲へ充満していた桃の香りが更に濃くなっている事に気が付き…何故だが不穏な予感がして鳥肌が立つ。
「…すまない、俺は禰豆子を箱に戻してくる。伊之助達は、宇髄さんと百瀬さんに加勢してくれ!」
「任せて安心しとけコラ、この俺様、伊之助様が大暴れしてやるぜ………ド派手にな!!!」
…割と影響されやすい質なのだろうか?
何処かで聞いたような言葉を後ろにくっつけ、自信ありげに胸を張る伊之助にひとまずこの場を任せ、軋む体を引き摺りながら前へ進む。
直後。
「…伏せろ!」
突如上がった宇髄の声を追いかけるように爆発音がし、振り返りかけるが…屋根の上へ箱が放置されているのを見つけ、ぐっと堪えてそちらへ急ぐ。
「(宇髄さんも百瀬さんも、俺よりずっと強い人なんだから…。)」
………だから、きっと大丈夫。
体力を消耗しているせいか、つい悪い方にばかり考えが行ってしまいそうになる自身に渇を入れ。
幼児程の大きさまで体を縮めて寝息を立てている禰豆子を抱き直すと、力を振り絞って屋根へとよじ登った。
***
突如放られた宇髄の言葉に従い、鬼女との戦闘を切り上げ。
その場へ転がるように伏せた途端、彼が投げたと思しき何かが発火する。
それらが火花を上げながら辺りへ飛び散ったところまでは見たものの───衝撃ですぐに家屋が揺れ出し。
これは堪らないと咄嗟に羽織を頭に被って揺れが収まるのを待つ。
その間にも、辺りには火薬の匂いと煙が充満していて、何かの拍子に引火でもしてしまえば冗談抜きで鬼と心中する事になってしまいそうだが。
正直なところ、仮に体の一部を吹き飛ばされたとしても。
今の自分は痛みも感じず、傷も凄い勢いで塞がってしまうのだから、案外けろっとしていられるのかもしれない。
程なくして。
ようやっと揺れも収まり、恐々頭を上げれば…乱れた髪を結わえる暇も無しに刀を構え、自身の近くで座敷の奥を睨む宇髄の姿がある。
それにつられ、未だ充満する煙の中で目を凝らし。
壁の所々に空いた穴から煙が逃げていくに従って見え出したそれに顔を顰めた。
「(丸い…何?)」
座敷の奥には、丸く大きな塊が鎮座している。
脈打つように微かに震える肉色のそれは、まさしく鬼女の腰に付いていた帯であり、こんな使い方も出来るのかと目を細めた時。
「分かっちゃいたが…そんなに上手くはいかねぇわな。」
不敵に笑いながら、宇髄は独りごちた。
間もなくして。
帯は縮まっていき…帯の主である鬼女と、自らを『妓夫太郎』と名乗った鬼が揃って姿を現す。
「俺達は、二人で一つだからなぁ……。」
「…そうかよ。生憎と、こっちだって二人だぜ?」
「確かにそうか。しっかし、違うなぁ…特に、派手な身なりのお前。今まで殺してきた柱共とはワケが違う。」
そこで一度言葉を切り、鬼は宇髄を確りと見据える。
「お前はよぉ…きっと、生まれた時から才能のある…特別な、選ばれた奴だったんだろうなぁ、」
ああ、妬ましいなぁ…。
一刻も早く、死んでくれねぇかなぁ……!
濁った瞳を瞬かせ、ぎりぎり…と音がするくらい歯を食いしばりながら鎌の柄を強く握って。
剥き出しの敵意と苛立ちを隠そうともせず、妓夫太郎は貧相な体を揺らし、飽きもせずに宇髄を眺めているばかりだ。
対して、宇髄は一瞬だけ口を閉ざし。
かと思えば、僅かな隙に捻じ込むように言葉を返す。
「ハッ───才能?俺に才能なんてモンがあるように見えるわけか…なら、テメェの人生幸せだな。」
強く、はっきりとした口調で。
口元には笑みすら浮かべながら、彼は続ける。
それを隣で聞き、刀に手を添えたままで鬼を見張っていると。
…ふと、鬼女がいつまで経っても妓夫太郎から離れないでいるのが気になった。
普通、少し時間が経てば相手から距離を取るものだろうが。
鬼女はいつまで経っても離れようとせず、幼子のようにその背に張り付いたままだ。
「(そういえば、この鬼達はお互いの事を『お兄ちゃん』『妹』と呼びあっているようだけど…。)」
『二人で一つ』なぞと豪語する姿といい、戦況が不利になるとお互いに助け合うところといい。
詳細な箇所は分からないにしても、彼等の間には、生前は本当に血の繋がった兄妹であったのかもしれないと思わせる、身内独特の絶妙な距離の近さがあるように見える。
まあ、こんな事を宇髄に話してみたところで『寝物語としちゃ上出来だが、』と鼻で笑われてしまうだろうが。
そこまで考えて苦笑しかけたところで、カタカタ…と。
小さくはあるが、自身の腰の辺りから僅かに振動を感じ、目線を下げると。
事もあろうに、刀の柄を握ったままの自分の手が細かく震え、それが直接腰へ伝わっているのだった。
武者震いで片付けるには余りに不自然すぎる手の震えは、止めようと意識したところでどうにもならない。
次いで呼吸が乱れだし、ひとりでに心拍が上がっていくのを感じながら、何気なく左手で右の腕を擦った時。ひやりと中指が濡れたような感じがあり。
恐々見やったそれは、どろりとした赤黒い血にまみれ、薄暗い室内で不気味にてらついていた。
先程斬撃を受けてぱっくりと開いた隊服の隙間。
その下から見えた自身の皮膚はいつものように塞がっておらず、傷口はいやに粘ついた血をたたえて。
患部は青紫に変色し、一面爛れたようになっているのが見て取れ、ぎょっとして…直後、立っていられぬ程の目眩に襲われ、やむを得ず畳へ膝を着く。
「(…これは、)」
桃との契りのせいで、いつもなら常人離れした再生力を見せる自身の体であるが、今は全く作用していない。
というより、それがどこか他のところに回っているのかも、と思ったところで、はっとした。
少し掠っただけで、体にここまでの不調をきたす攻撃といえば毒くらいしか思い当たる物が無いが、この特異な体を持ってしても、入り込んだ毒の分解に手間取り、傷を治すのを後回しにせざるを得ないのだとしたら───敵はかなりの強さの毒を使って来ているという事になる。
この読みが合っているとすれば、宇髄もそろそろ体に毒が回りだす頃合いかと思われるが。
やはり元忍という噂は本当らしく、顔色はあまり良くはないものの、まだ鬼と話を続けている。
その時、また粘つくような視線を感じてやっと顔を上げれば、案の定妓夫太郎がこちらを眺めていた。
「ひひっ…お前のその辛そうな顔。俺の血鎌の毒がよっぽど効いてるみてえだなぁ…でも、苦しいのはまだこれからだぜ。じわじわ、じわじわ。体に毒が回ってくのを感じて、今際の際まで藻掻き苦しむ羽目になるんだからなぁ…!」
嬉しそうに。
本当に、楽しくて楽しくてたまらない、と行った調子の声は、興奮しているせいか僅かに震えている。
一頻りこちらを眺め回して満足したのか、濁った瞳は宇髄を睨みつけ、挑発的に口元を吊り上げた。
「まぁ、毒の量からしちゃ、どっちみち連れのが先に逝くだろうが…お前の体にだって、じわじわ毒が回ってんだ。自分が一番よく分かってんだろぉがよぉ…女の前だからって意地張りやがって。みっともねぇったらありゃしねぇ…!」
「いいや。全然効いてないね───踊ってやろうか!?」
絶好調で、天丼百杯食えるわ…派手にな!!
負けじと鬼に言い返し、刀を構えて。
宇髄はちら…とこっちを見やり『上手く逃げろよ、』と囁く。
一瞬の間を置き、火花と共に刃が激しく風を切る音がして。
それが耳に飛び入ってきた途端、思い通りに動かぬ体に鞭打ち。
宇髄が戦っているのと反対方向へ転がるように走り出す。
戦えぬ状態になってしまった以上、足手纏いになると分かっていてその場に居続けるのは得策でない。
ここは大人しく、宇髄の言葉に甘えさせて貰う事とし。何処かに隠れて、毒がある程度抜けるまで待機してからまた前線に戻るという策が最善だろう。
最早よく回らぬ頭で考え、とりあえず屋外への退避を目指した。
お世辞にも『まっすぐ』とは言えぬ、後にも先にもないくらい無茶苦茶な走り方で。
幾度もふらつき、転びそうになりながらひた走り、ようやっと先程の爆発で吹き飛んだ壁の前まで来た時。
すうっ、と。
不意に両足の感覚が無くなった。
気怠げに見やった足下。
そこに自分の足は見当たらず、腰から下には痛んだ畳の目が見えるだけである。
ついに体の一部すら認識出来なくなる程まで毒が回ったかと焦ったが、次いで腰の辺りに何かが巻き付く感じがあり、今度はそちらを見やると。
いつの間にやら。
先程切り落としたはずの鬼女の帯が残らず自身の体へ張り付き、脈打つように細かく震えている。
生暖かい肉色のそれらは、互いをやっと伸ばし合わせながら元の形へ戻ろうとし。
それと平行して、少しずつこの体を呑み込んでいると理解した瞬間、背へ薄ら寒い物が走る。
「(このままでは、完全に取り込まれる……!!)」
とにかく応戦しようと腰の刀に手を伸ばすも、毒の回った体ではいつものように抜刀する事すら叶わない。
ならば、と。
刀をベルトから鞘ごと引っこ抜き、両側から引いての抜刀を試み、四苦八苦しているうち。
腰や腹の辺りの感覚も消え始め…早くもくっついた帯の端に手を思い切り叩かれ、刀を取り落としてしまった。
そこから先は完全に勢いを盛り返した帯が、両腕、胸、首…という具合に次々と巻き付き、為す術もなく体全体が帯の中へ取り込まれてしまう。
遂には口にまで巻き付いた帯に呼吸すら阻まれ、意識が朦朧としてきた時。
「───百瀬っ!!」
慌てたような声と共に、幾分か遠くから宇髄がこちらへ来ようとしているのが見えたが。
…その手が届くのを待たずして、自身の意識はふっと途絶えた。
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