桃と鬼 | ナノ
 17

茜色の光が差し込み始めた駅は、客車へ乗り込む人とその見送りで来たらしい人とで大変に混雑していた。

発車するまでまだ猶予があるというのに、これだけ人が集まるのは珍しく感じたが。
件の列車が長らく運行されていなかった事も考えれば妥当な混み具合なのかもしれない。


よく眠れていないせいでまたぼんやりし出した頭に渇を入れるという名目で。
自身の太股の辺りを袴越しに撫ぜれば、固い物が指先へ触れた。

右足へ一振り、左足へ二振り。
今回の任務のため、自らの足へ括り付けて隠した日輪刀は変わらずそこにある。


『これから任務なのだ』という意識が頭をもたげたのと同時に気が引き締まり。
どうにかいつもの調子が出てきた所で振り返れば…優しげな表情を浮かべ、弁当屋の少女と話をする煉獄の姿が見えた。

かいつまんで聞いた所によると、煉獄は前の任務の関係で彼女と知り合いになったらしい。

今自分が居る位置からでは彼等が何を話しているか聞き取る事は出来ないし、わざわざ盗み聞きをする気もおきず、つい素知らぬふりをした。


…再び見えた汽車は黒々とした体を携え、夕日を受けて鈍い光を放っている。

初めて汽車を見た日には、こんなに大きな物が動くのか、と酷く驚いたものだったが。
慣れというのは恐ろしいもので、何度か乗り降りしているうち、最初の驚きも感動も薄れていってしまったのが記憶に新しい。


正直、自分の足で方々を歩き回るよりか汽車に乗っての移動の方が遙かに楽で速いから、もっと沢山駅が出来たら良いのにと思う事もしばしばあるが……世の中が便利になればなるほど、鬼だってそれに便乗し、人を襲いに来るに違いない。

野山や廃寺。
町の薄暗がり等だけでなく、駅や汽車の中にまで頻回に鬼が出没するようになっては困るから、やはり今のままが一番良いのかも知れない。


俯き加減で物思いに耽っていると、少し離れた所から『あの…すみません、』と呼び声がして。
反射的にそちらを見やれば、数歩離れた所へ声の主らしき着物の男性が立っていた。

癖のある短髪に、細身な体。
歳の頃は三十手前といったところだろうか。

優しげな微笑を浮かべたままのその顔には全く見覚えがなかったが、声をかけられて何も返さないというのも分が悪かったので。


「…私に、何か御用でしょうか?」


とりあえず月並みな問いを投げてやると、声をかけてきた当の本人は少々気まずそうに微笑んだ。


「…いやはや、突然失礼致しました。私、麻布の方で呉服屋を営んでいる者でして……素敵な着物をお召しになっているようでしたので、ついお声掛けしてしまった次第でした。」


お分かりになるようでしたらで結構ですから、どちらで手に入れた物か教えては頂けませんか?


言われてすぐ、目線を下へやるも…薄浅葱色の着物と濃紺の袴といった、特に面白味のない私服が見えただけである。

これの何処が素敵だというのか。
もしかしたら、女性らしからぬ色合いの着物を着ているからと揶揄われているのか。


やや考えた末。
この着物は、丁度背中の中央へ一つ刺繍紋が入っていた事を思い出す。

そんな所まで見た上で声をかけてきたのだとしたら……麻布で呉服屋を営んでいるという件の口上は、ひょっとすると本当なのかもしれない。


「この着物は、私の父が若い時分に普段着として身に付けていた物だそうで…それを女物として仕立て直して着ているんです。」


特に小細工をするでもなく簡素に伝えると、男性はどこか嬉しそうに頷いた。


「なるほど、お父上から譲り受けた物でしたか。それにしても、一つ紋入りの色無地を普段着に、とは…お父上は粋な方なのですねぇ、」


しみじみと呟かれた言葉に何と答えるでもなく黙り込んですぐ…実父の影が脳裏にちらついた。


仁科家。
いわゆる生家の古いしきたりにより、自分は赤ん坊の頃から母屋で父に育てられた。

実母は存命であったものの、しきたりによって一緒に暮らす事は叶わず…かわりに、母は弟達と離れで暮らしていたのが思い出される。


実際のところ、一緒に暮らせないとはいうものの、母屋と離れは細い廊下で繋がっており。
母に会いに行く事自体に制限がかけられていたわけではないため、会いたいと思えばいつでも会いに行く事は出来たし、日中に限り双方の行き来は自由だったのだけれど。

いつも世話を焼き、食事を作ってくれるのは父で、髪を結ってくれるのも一緒に寝てくれるのも父とくれば、別段母に固執する必要もなく。

幼い頃の自分は、時間の許す限りいつも父と共に居たように思う。


けれど、父は表情がほとんど変わらず、寡黙で静かで───幼心に『何て取っつきにくい人なのだろう、』とも思っていたけれど。

交わす言葉は少なくとも、父と過ごす静かな時間は心地が良かったのを覚えている。


「(そういえば、最後に父様と会ったのはいつだったかしら…。)」


今年は正月に一度会いに行ったきりで、それきり実家へ近寄る事もなかったな、と思うと、急に父に会いたくなってくるもので。

この任務が終わったら、近況報告も兼ねて一度実家へ戻ろうと決意した所で。


「あっ…いた……!!おとうさーん!!」


駅舎の方から元気の良い子どもの声がした。

気付けば、目の前の男性は子どもの居る方へ向かってにこやかに手を振り『今行くから、待っておいで。』と声をかけて。


「…家内と子どもが待っておりますので、私はこれにて。」


今日の事、お父上にもよろしくお伝え下さいね。

ごく簡素に言い置き、男性は駅舎の方へ歩き去ってしまう。


それを追い掛けるように振り向くと、入れ替わりに煉獄がこちらへ歩いてくるのが見え。

程なくして隣へやってきた彼は、両手に風呂敷包みを提げていた。


「すまない、待たせたな。」

「いいえ…ところで、それは…?」


つい質問してしまったが、彼はさして気にしたふうでもなく、すぐ答えてくれた。


「これか?これは全て牛すき鍋弁当だな。」

「牛すき鍋……ああ、御夕飯でしたか。」


先程話をしていた少女からの差し入れだったのだろうか。

それにしては量が多いような気もしたけれど…大食漢な彼の事であるから、このくらいわけなく平らげられるだろう。


そのうち、煉獄は風呂敷の中へ手を入れて弁当を一つ手に取り。
どこから取り出したものか…上へ割り箸を乗せるが早いか、おもむろにこちらへ差し出す。

つまり、くれるという事だろうか。

遠慮がちに手を伸ばして弁当を受け取り、軽く会釈をすると、彼はにこりと笑ってみせた。


「この弁当は巷で『美味い』と評判の物でな。実際食べた者の話によると、味付けもはっきりしているらしい…口にしてみて、もし気に入ったのなら、任務終わりにでも教えてくれ。」


彼の心遣いに溢れた言葉に頷き、返事をしようとした時───会話に割り込むように鋭く汽笛が鳴り響く。

低く大きなその音は、出発の時刻が差し迫っている事を周囲に伝える物に違いなかったが、些か間が悪すぎた。


煉獄も似たような事を思ったのか、眉根を下げて汽車を眺めやり。
再びこちらへ向き直ったかと思えば、少々困ったように笑う。


「む……まだ時間があると思っていたが。生憎と、もう乗り込まねばならないようだな。」

「そうですね。ここからは別々に行動する手筈になっていますから、初めから煉獄殿の隣で刀を握る事は叶いませんが…どうかご無事で。」


短く挨拶を済ませ、急ぎ足で後ろの方の客車へ向かい、乗り込まんとした時。


「君…俺が近くに居なくとも、無理はしないように頼むぞ!!」


なかなかの質量を伴って投げかけられた言葉に驚きはしたが、再三釘を刺されているのだから忘れるはずもない。

煉獄の方を向いて頷くと、彼は満足そうに笑って目の前の客車へ乗り込んで行った。


***


タタン…タタン…と、一定の間隔で揺れる列車。
膝の上にまだ食べかけの牛すき鍋弁当を乗せたまま窓を眺めやれば、少しずつ夜へ転じていく空が目に留まる。

先程まではあんなに穏やかな茜色をしていた空には幾つも星が光り始め、沈んでいく夕日を見送るように白く薄らとした月が顔を出しかけていた。


目前に鬼が現れずとも、客車へ乗り込んだ時点で既に任務は始まっているわけで。

先程から一定の間隔を開けて辺りを警戒してはいるが、それらしき物とはまだ遭遇しておらず、周囲に座っている人々の様子にも変わった所はない。


ただ『鬼が出る』というのは嘘ではないようで。

客車の中へ乗り込んだ時から、ほんの僅かにではあるものの……鬼が近くに居る時特有の嫌な気配を肌で感じていた。


「(姿を現さないのは、まだ日があるせいか。それとも何か策があって、仕掛けるために安全圏から様子を覗っているのか……、)」


考えを巡らせながら、弁当の隅へ残りの米と肉を集め、そのまま口へと運ぶ。

弾力のある肉との食感を堪能しながら幾度か咀嚼し、呑み込んでしまってから。
早くも空っぽになった弁当箱に手を合わて食後の挨拶を済ませ、簡単に片付けをした。


煉獄から聞いた通り、この駅弁は味が確りとしていて。

牛肉に付けられた豊かな風味といい、それを引き立てるかのように固めに炊かれた米といい、久方振りに心から美味いと思えた食物であった。

実際のところ、感ぜられた味はごくごく僅かな物ではあったのだけど…随分前から食べ物の味がほとんど分からなくなってしまった自分にとっては、少しだけでも味が感ぜられたのが嬉しくてたまらなかった。


「(任務が終わったら、煉獄殿にお礼を言わなくては…。)」


そんなふうに思いつつ、割箸や外側を包むように巻かれていた紙を畳んで弁当箱の中に入れ、元のように紐で結んでしまってから…隣へ割箸袋が落ちていたのに気が付く。

どうせなら一緒に片付けてしまいたいところだが、弁当箱の紐は固結びにしてしまったため、既に中へ入れる事は叶わない。


ならば、紐の間に挟んで…というようにも考えたが、元のように割箸を中へ入れているわけでもなし。
袋単体では安定感がなく、持ち運ぶ際にどうしても抜け落ちてしまうので。

やむなく一緒に纏めるのは諦める事とし、弁当を隣へ置いて再度割箸袋を手に取る。


かさかさ音を立てる袋を何となく折り畳んでいると、子どもの頃、折り紙で遊ぶのが好きだった時期があったのを思い出す。

なるべく沢山作れるようにと、千代紙を四つ切りにして。

箱を折ったり、小さな鶴を折って糸に通したり…折り紙で遊ぶのはとても楽しかったし、父様は私がそうして遊んでいるのを見ると、何故だか嬉しそうにしていたっけ。


脳裏に灯る思い出に浸っているうち、割り箸袋は既に小さく折り畳まれ…よく見れば、切符程の大きさになっている。

無意識のうち、爪で確りとアイロンをかけていたからか、それほどの厚みもなく。
本物の切符を取り出して見比べてみても、文字が記されていない事を除けば然程違いが無いようであった。


「(指で触った感じはほとんど一緒だし…暗い所でなら本物と間違えてしまうかも。)」


ありもしない事を考えつつ、それらを左袖へ放って───。


「(……ひだり!?)」


待て、落ち着け。
左袖は、元々ゴミを入れる方として使っていたのに。

…畳んだ箸袋だけでなく、何故に切符まで放った!?


慌てて左袖の中を探るが、丸まった懐紙と、紅を差す時に使ったちり紙が出て来ただけで、切符らしき物は一向に姿を現さない。

今し方袖に仕舞い込んだばかりだというのに、何故だか姿をくらましたそれを必死になって探していると、客車の後ろがガラッと開けられ。

───制服を身に付けた車掌と思しき男性が、端の客から順繰り切符を切り始めたのが見えた。


「(ああ、もう……!?!?)」


こういう時に限って、何て間の悪い。

怒ったり焦ったりしてもどうしようもないのは重々承知だが、子どもであるまいし。
二十四にもなった大人が、自分のうっかりのせいで切符を無くしたという言い訳が通るわけもない。


「(どうしましょう…このままだと、無賃乗車を疑われて次の駅で降ろされてしまうわ…。)」


そうしているうちにも、切符を切る音は刻一刻と迫ってきていて。
いよいよもう駄目かと思い始めるが…これだけ探して出て来ないというのもおかしな話。

もしや床に落ちたかと閃き、咄嗟に足元を眺めやっると。
果たして───空いたままだった前の席の下へ白く小さな紙が見える。

どう見ても、探していた物で間違いないようだ。


途端に、焦りはどこへともなく消え。
呆れ半分、灯台下暗しという奴だなと溜息が出る。

…まあ、失せ物が無事見つかったのだから。
それだけで良しとすべきか。


元を辿れば自分のせいなのだが、短時間の内に随分と無駄な労力を使ってしまったものだ。

溜息交じりに前屈みになり、切符へ手を伸ばした時。


カチ、カチ…と。
微かな音を伴い、客車へ備え付けられていた電灯が明滅しだした。


「………?」


咄嗟に、電灯の調子が悪いのかもしれないと思い至ったが…然程時間を置かぬ内、それは妙だという事に気が付く。

煉獄の話によれば、この列車自体は今日の運行再開に合わせて随分長い期間整備をしていたはずで。
だのに、こんなに早く機器類に不調が出る事もなかろう。

ともあれ、何かある前にと切符を拾い上げた途端。


「…切符を拝見致します、」


横からぬっと突き出された手。

それを恐々辿って見上げれば、妙に虚ろな目をした車掌が手のひらをこちらへ差し出したままで立っているのが目に留まる。


「…切符をお願い致します、」


無表情のまま再び催促され、それもそうかと手にしていた切符を渡した途端…パチン、と子気味の良い音を引き連れ、今度は客車内が真っ暗になった。

これには流石に他の乗客達もざわつき出すが。


「大変申し訳ございません。すぐ点灯致しますので、その場でしばしお待ち頂くようお願い申し上げます…。」


近くで車掌がそう告げたのと同事にぱっと灯りがつき、また客車内には静かな雰囲気に包まれる。


「───すみません、電灯の調子があまり良くないようでして。」


点灯と消灯を繰り返す客車の中。

車掌はごく淡泊に言いながら、今し方切れ込みを入れたばかりの切符をこちらへ寄越す。


余程疲れているのだろうか。
人の事は言えないが、見れば見るほど生気のない顔に空恐ろしい物を感じて固まっていると、車掌はどこか上の空でこちらの手に切符を握らせて会釈をし、歩き去ってしまう。


丸められたその背は、ひどくくたびれているようにも、どこか寂しそうにも見え。

結局、件の車掌が次の客車へ行ってしまうまで。
受け取った切符を手の内へ握ったまま、彼から目を離す事が出来なかった。

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