▼ 04:剃刀の刃を渡る
炭治郎の鎹鴉が挨拶に来た日の夜。
突然、お館様からの呼び出しがあった。
今回炭治郎が最終選別を突破し、本格的に鬼殺隊の仕事を始めるにあたって、何か不都合な点があるのだろうか?
───それとも、二年前に義勇と二人で隊律違反を犯した事について、ついにお咎めがあるのか。
今回の直々の呼び出しについて思い当たるのは、この二つのどちらかしかないので、迎えに来た隠に目隠しを施され、背負われて移動している間も、気が気ではなかった。
隠の背中に揺られ、しばし。
『つきましたよ、』
という言葉と共に背中から降ろされ、目隠しを取り払われる。
そこは既に、産屋敷邸の庭園のただ中であった。
「毎度毎度、ありがとうございます。」
刀を差していたから余計に重かったろうに、ここまで文句一つ言わずに連れてきてくれた隠に頭を下げると『俺達は、これが仕事ですから。』と笑顔で返される。
「…それでは、俺はここいらで失礼します。」
『昇進の話なら良いですね。』
隠は、百瀬より深々と頭を下げたかと思うと、夜闇の中へ溶けるように消えていった。
隠をしている方々は、いつ寝ているのだろうか。
ぼんやりと思いながら、庭先の桜の木を眺める。
桜以外にも、満開の梅や、ほんの少し花をつけ始めた桃もあったが、今はどうしても桜に目が行ってしまう。
桜を見ると必ず、志半ばで亡くなった鬼殺の隊士…花の呼吸を使う彼女の事を思い出すのだ。
短い期間であっという間に柱にまで登りつめた、強く優しく、可憐だった彼女。
「(そういえば、大分前に彼女と二人で花見をした事があったっけ。)」
初代の花柱が『必勝』と名付けて植えた、立派な桜の木の下。
どちらも任務上がりで傷だらけだったというのに、隊服のまま。
桜の木の下へ、とりあえず目についた敷物を敷いて、買ってきたばかりのみたらし団子を味わいながら、二人きりで花見をしたのだ。
『この花が咲く頃、今度は皆でお花見をするのはどうかしら?』
『私達だけじゃなくて、他の皆も呼んで…そうしたら、もっと楽しいわ!今から楽しみね、百瀬…!』
そう提案したのは彼女だったというのに。
彼女は、その桜がまた花をつけた姿を目にする事なく、殉職してしまったのだった。
「…………カナエ殿。」
何だかとても寂しくなって。
仲の良かった年下の友人の名を呼んでみたが、彼女はもう会えない所に居るのだから、勿論答えはない。
「………………。」
暦の上では春だけれど、まだ風は冷たい。
庭の隅に残った雪の白が妙に寒々しく見えて、意図せず体が震える。
その時。
「…おや、もう来ていたのかい。」
聞き慣れた声音に反応し、後ろを振り返る。
そこには、百瀬を呼び出した張本人。
お館様こと、産屋敷耀哉が、縁側に姿を現していた。
「───お久しゅう御座います。」
その言葉と共に、百瀬は庭先でも構わず膝を着き、産屋敷家の主に頭を垂れた。
「百瀬は、相変わらず堅苦しいね。今日は会議ではないのだから、そこまで仰々しい言葉を使う必要はないよ。」
柔らかな口調、穏やかな物腰で紡がれる言葉。
…それから、少し困ったような笑いが降ってきて、百瀬はようやっと顔を上げる。
室内に灯る明かりのせいで、彼の顔はよく見えなかったが、額から目の辺りにかけて、ふつふつと幾つもの出来物が現れており、風の噂で聞いた『お館様が目を病んでいるらしい、』というのは本当であった事を悟る。
「夜だというのに、呼びだてしてしまってすまなかったね。まだ外は冷える…奥の間へおいで。」
『そこで話をしよう。』
促されるまま縁側へ近付き、草履を脱いで産屋敷邸へ足を踏み入れる。
既に奥の間へ向かって歩き始めたお館様の後へ続き、彼女は静かに歩みを進めた。
***
お館様が、呼び出した隊士を客間ではなく奥の間へ通す時は、決まって込み入った話がある時だ。
百瀬はそれを良く知っていた。
「寒かったろう、火鉢に当たって体を暖めると良い。」
「…ありがとうございます。」
早々に奥の間へ通され、火鉢の側…部屋の隅を指定され、一瞬嫌な予感がする。
てっきり冨岡も来ているものと思ったが、広い奥の間に彼の姿は無く、これから彼が来そうな気配もない。
おかしいな…とは思いながら、お館様に促されるまま火鉢の側に座り、暖を取らせてもらう。
お館様も、百瀬が座ったのを目視すると、すかさず火鉢の前に座る。
そんなわけで、彼女とお館様は火鉢を囲み、対面で座る、というような具合に落ち着いた。
「百瀬。」
「…何でしょう、お館様。」
そう答えれば、彼はわざとらしく咳払いをする。
「…失礼いたしました。では、改めまして。今日は、どうなさいましたか?産屋敷殿。」
呼び方を変えると、彼は笑顔を見せる。
「いいや、特にどうという事はないんだ───二年前。百瀬は確か、義勇と一緒に『竃門炭治郎』という少年と、その妹の『禰豆子』を助けて、鱗滝左近次殿の元へ送ったね?」
「…はい。」
「君達が竃門兄妹を見つけた時点で、妹の禰豆子の方は鬼になっていたが、まだ人を食らってはいなかった。これも合っているかな?」
「…確かです。」
「では、この度の最終選別で、炭治郎が残ったのは知っているかい?」
「…はい。」
「───なら、話は早いね。」
『君はいつでも耳が早くて助かるよ。』
彼は一度言葉を切り、また話を始める。
「実は、鱗滝殿から頻繁に文を貰っていてね。主に禰豆子の様子を教えて貰っていたのだけれど…炭治郎が藤襲山から帰ってくる少し前から、禰豆子が目覚めたようなんだ。」
そういえば、挨拶に来た鎹鴉も、そんな話をしていた気がする。
落ち着いた声によく耳を傾け、頷くと、お館様は再び口を開いた。
「それで、鱗滝殿が禰豆子に暗示をかけて人を襲わないように教えたそうなんだが…禰豆子がこれから昼夜問わず任務に連れ歩かれる事を考えると、万が一がないとは言い切れない。」
「…そうですね。」
「万が一があったとしたら、鱗滝殿と義勇。それから、炭治郎にも腹を切って詫びてもらう事になってしまう。一人のために、三人分の命が掛かっているんだ。」
彼の口調は未だ柔らかいままで、隊律違反がどうのとか、鬼を助けた事実を認めるわけにはいかないだとか。
否定的な言葉は何一つ転がり出てこない。
尚、この中で彼女の名が出て来ないのは、あの日…竃門兄妹と関わりを持つきっかけとなった出来事の最中。
『いざとなれば、俺が一人で帳尻を合わせる。』
『お前は何も心配しなくて良い。』
彼女に向かって言ったこの言葉を実行すべく、冨岡自身が様々動き回った結果───それがどうにか反映された形なのだろう。
しかし、ここまで来て。
いよいよ自分だけが彼に呼び出された意味が分かり初め、彼女は表情を曇らせる。
「そのような悲しい事態を避ける為には、目付役がいる───今日君を呼び出したのは他でもなく、これから竃門兄妹に気付かれぬよう、彼等の赴く任務に同行して、そこでの様子や働きぶりを私に報告する役を頼みたいんだが。」
『どうか引き受けてもらえないだろうか?』
言葉は優しく、こちらを尊重してくれているような言い方だが、百瀬に拒否権はないのは明らかだ。
お館様が言う事は最もだ。
禰豆子にいくら暗示をかけたとはいえ、それを過信するのは危険すぎる。
有事の際には、躊躇いなく始末をつけなければならないだろうし、炭治郎が鬼に負けるような事があれば、それこそまずい。
それ以前に、炭治郎が鬼殺の仕事を始めるのなら、当初の目的を果たすため、禰豆子を連れ歩くのは予想するまでもなく分かる事だが。
遅かれ早かれ、炭治郎が他の隊士と仕事をする日は必ずやってくる。
その時に、禰豆子の姿を見られれば『鬼を連れ歩くのは隊律違反!』『何故鬼殺の隊士が鬼と連れだって行動を…?』と、激しい批難を受けるのは確実で。
───先は言わずもがな。
禰豆子共々、柱合会議に引きずり出され、吊し上げられた挙げ句、断罪される…という末路を辿るのだろう。
炭治郎があのまま修行を続け、岩を斬れずに燻ったままだったのなら、通らずに済んだ道ではあった。
しかし、彼が鬼殺の隊士となった今、既に避けて通れない事が確定してしまった道だ。
───ただ、避けては通れなくとも、そこで上手くやり過ごさせる方法はある。
別段、難しい事はない。
実に簡単な事だ。
柱合会議に引きずり出されるその時まで、禰豆子は人を食わず、人に被害を加えない。
この二つが出来ていれば充分であるし、炭治郎は鬼に勝ち続け、ある程度の実績を作っていけば良い。
加えて、百瀬が竃門兄妹についていき、その実績や様子を逐一お館様に報告していけば。
お館様の方から柱や他の隊士に、禰豆子についての説明をして下さるだろうし、人命を散らす事なく。
それも、二年前から続くこの問題を一先ず公にして、どうにか収める事が出来る…全てが上手くいけばの話であるが。
大前提として、彼女自身が一度もしくじってはいけないのは勿論の事。
彼女がついていく間中、禰豆子は人を食わず。炭治郎は鬼に勝ち続ける事が求められる。
それはそれとして。
これは、あくまで建前なのだという事も察してしまい、彼女は俄に青くなった。
冨岡がどうやったのかは分からないが、彼がこちらの分の罪も背負ってくれているのだから、彼女にはこれまで何のお咎めもなかった。
しかし、便宜上それを良しとして認めてしまえば、お館様も立つ瀬がないのだろう。
それでこの度、百瀬を鬼殺の任務から外し、謹慎代わりに竃門兄妹の同行を探る任務を与えようと考えたのでは───?
あくまで憶測の域であったが、何だか本当にそんな意図があるかのように思えて。
先程まで寒いと思っていたにも関わらず、百瀬はいつの間にやら汗だくだった。
それも、暑くてかいた汗ではなく、全てが冷や汗である。
「…産屋敷殿。」
「どうかしたかい?」
「一つ、お聞きしたい事があります。」
「…言ってごらん。」
依然として彼の声音が優しいのは唯一の救いだ。
「『竃門炭治郎』が、鬼との戦闘で窮地に陥った際。私が戦闘に介入する事は、」
「───それは、出来る限り避けて欲しい。」
すかさず寄越された返答に、息を呑む。
やはり、そうきたか。
分かってはいたが、有無を言わさぬ物言いに、思わず怯んでしまう。
「もしもこれを引き受けて貰う場合、百瀬には、本当に急を要する事態以外は、徹底して彼等の傍観に回って欲しい。そこにあるままの彼等の姿を伝えて貰いたいんだ。」
「……………。」
お館様の視線が痛い。
それはそうだ。
百瀬が彼等に直接関わり、導いてしまったのでは、禰豆子が本当に人を襲わないのか。
炭治郎自身が、鬼に勝ち続けるだけの実力があるのか。
……ひいては、禰豆子をこのまま生かしておいて、鬼殺隊に有益な事はあるのかどうか、見極めがつかなくなってしまう。
恐らく数ヶ月にわたる長期任務になるであろう今回の仕事には、そういった細かな要素を文で。
それも、繊細で分かりやすく、的確に伝える事が求められるのだ。
…つまり、彼女の報告に竃門兄妹の命運が掛かっていると言っても過言でない。
未だかつて無い責任の重さに眩暈がして、彼女は大きく息を吸い込んだ。
背中には未だ冷や汗が伝い、使い古しの隊服に染みこんで、妙な冷たさが上がってくる。
お館様は、やはりこちらを眺めて、静かに決断を待っているようだった。
病に侵され、あまりよく見えていないであろうその瞳に宿る光は、初めて会った時と変わらず、鋭いままだ。
痛いほどの沈黙を破ったのは、やはり彼女の方だった。
「産屋敷殿。」
居住まいを正して彼に向き直り、その双眸としっかり目線を合わせ。
「───目付役の任、謹んでお受けいたします。」
はっきりそう告げれば、彼は『受けてくれるのかい、ありがとう。』と述べて、こちらへ深々と頭を下げた。
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